教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

3/11 BSプレミアム ザ・プロファイラー「ローマをぶっ壊せ!ハンニバル将軍」

ローマを滅亡寸前に追い込んだ名将・ハンニバル

 今回の主役はカルタゴの将軍でローマ軍に連戦連勝し、ローマ軍を全滅寸前にまで追い込んでローマを心肝寒からしめたハンニバル将軍である。

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名将・ハンニバル

 紀元前218年5月、ハンニバルは102000人の兵士と象37頭を率いてイベリア半島のカルタゴの植民地だったカルタゴ・ノヴァを出発する。ローマへの進軍のルートは陸路と海路が考えられたが、陸路はピレネー山脈とアルプス山脈を越える必要があるため、ローマは海路を使うと予測して海軍を増強していた。しかし海路を行くにはローマと同盟している島々を攻略する必要があることから、ハンニバルは困難な陸路を取ることにする。

 ハンニバル軍はピレネーに到着するが、この時点で脱落して故郷に帰ってしまう兵が大勢出たが、ハンニバルはそれを責めたりすることはなかった。ガリアに入ったときには兵数は59000と半減していた。ハンニバルの動きはローマも把握していたが、まさかローマまでは来ないだろうと考えていたという。

 

アルプスを越えてローマに攻め入る

 ハンニバルは大河であるローヌ川を越える。象を乗せるための巨大な筏を建造して大河を渡ったという。しかし全軍が渡り終えたときには一部の兵が川に流されて兵は46000に減っていた。ハンニバルの渡河を聞いた執政官のコルビウス・スキピオは危機感を抱いて現地に駆けつけたが、既にハンニバルは去った後だった。

 ハンニバルはガリア人の領域を通過したが、ガリア人に対しては我々の敵はローマであるとして極力戦いを避けた。軍に加わるガリア人は歓迎し、抵抗する者は武力で屈服させた。そして9月下旬にアルプスの麓に到着する。冬を迎えようとするアルプスをハンニバルは越えようとしたのである。怖じ気づく兵士達にはハンニバルは「諸君にとってアルプスは高い山以外の何だというのだ? 人類が越えられないところなどない。」と檄を飛ばしたという。実はハンニバルは先遣隊を送ってアルプスを越えるルートを調べさせていたのだという。なおこの時のハンニバルが通ったルートは永らく謎だったが、2016年にトラベルセッテ峠で紀元前2世紀頃の軍馬の糞が見つかったことによってルートが判明したという。

 過酷な行軍で山道から転落する兵士や象が相次いだが、ハンニバルは兵と共に凍ったパンを食べ、時には自ら見張りに立つこともあったという。ハンニバル軍は寄せ集めだったのだが、この厳しい行軍の中で絆が強くなり、精鋭部隊となっていった。そして12日後、ハンニバルはついにアルプスを越える。この山越えで30頭の象はわずか3頭に、兵は26000にまで減少していた。最初の1/4の数だった。

 現在のトリノの辺りに到着したハンニバル軍は捕虜二人を戦わせ、勝った方には自由と馬と武器を与えた。勝負がついた時ハンニバルは兵士達に「諸君は勝つか、さもなければ死なねばならない。」と叫び、勝った者には土地や金銭を与えると明言する。

 

ローマへの敵対心を高めた少年時代

 ハンニバルはなぜローマに戦争を挑んだかは、カルタゴの歴史と彼の父親が関係しているという。ハンニバルは紀元前247年に海洋国家カルタゴに生まれた。ハンニバルのバルカ家は代々エリート軍人で、彼の父のハミルカル・バルカはカルタゴ軍を率いる将軍でハンニバルはその長男だったという。幼い頃から彼は帝王教育を受けた。しかし6才の時に地中海の覇権を争ってローマと戦った第一次ポエニ戦争でカルタゴが敗北、カルタゴはシチリアと東地中海をローマに奪われる。ハミルカルは敗戦の責任を負い、イベリア半島を征服することを命じられる。9才のハンニバルは同行を願い出る。父は彼に生け贄の祭壇で「私はローマ国民の敵になる」と誓わせたという。

 ハミルカルは植民都市のカルタゴ・ノヴァを建設し、イベリア半島攻略を進める。しかしハンニバルが18才の時に彼は戦死してしまう。その8年後にハンニバルはイベリア遠征軍の司令官を継ぐことになる。この時にハンニバルはイベリア攻略でなく、ローマの同盟都市であったサグントゥムを攻略する。ローマに対する宣戦布告である。ローマは激怒してハンニバルの引き渡しを要求したが、カルタゴ市民が彼を支持したためにカルタゴはその要求を拒絶する。そしてハンニバルは8ヶ月の包囲戦でサグントゥムを降伏に追い込む。そして紀元前218年にカルタゴはローマに宣戦布告して第二次ポエニ戦争が始まることになる。

 

ローマ軍を卓越した戦術で次々撃破する

 ハンニバルがアルプスを越えたという報はローマ軍を震撼させるが、ローマ軍の司令官のコルネリウス・スキピオはアルプス越えで疲弊しているハンニバル軍は恐れるにたらずと迎撃に出る。しかしローマ軍は粉砕され、コルネリウスも深手を負う。コルネリウスはハンニバル軍に囲まれるが、17賽の息子に救出され九死に一生を得たという。これを見た周辺のガリア人がハンニバル軍に次々と加わってくる。その数6000人以上。彼らはローマと争っていた。そしてハンニバルが勝利すると共にその人数は増えていった。

 ハンニバルはジェノバ付近まで進軍、ローマ軍は川を挟んで強固な陣地を作って防御についた。そこでハンニバルは早朝に奇襲をかけ、ローマ軍の陣の前でローマ軍の指揮官を嘲笑う。激怒した指揮官は兵士に追撃を命じる。叩き起こされた兵士は準備も整わないまま戦いに駆り出される。そして兵がハンニバル軍に攻撃をかけたとき、ハンニバルが潜ませていた別働隊が背後から襲いかかる包囲されたローマ軍は2万人が戦死する。ハンニバルは捕らえた兵をローマ市民と同盟国の市民にわけ、ローマ市民には食事も与えず重労働させた挙げ句に処刑、一方の同盟国の市民には食事と贈り物与えて解放、そして故郷の人々にローマに反旗を翻すよう説得することを命じた。ハンニバルはローマの同盟国を切り崩すことを考えたのである。

 ハンニバルはローマの同盟都市を次々と攻略、これを阻止するべく出撃したローマ軍は大きな湖のそばに誘い出される。そして湖の畔の霧のかかった細い道でハンニバル軍の伏兵の奇襲を受けて包囲される。この戦いでローマ兵25000のうちの17000が戦死する惨敗を喫する。

 ローマ軍はハンニバルと正面から戦うことを避けて大軍での包囲を試みる。しかしハンニバルは2000頭の牛の角に松明を付け、暗闇の中でローマ軍に突進させる。パニックになったローマ軍を横目にハンニバルは悠々と脱出する。

 

カンナエでの決戦でローマ軍を完膚なきまでに撃破

 やがてハンニバル軍はローマに迫るが、なぜかハンニバルはローマを通過して南部に向かう。補給のために南部の港を確保しようとしたのだという。この事態にローマの元老院はファビウス・マクシムスにローマ軍の全権を与える。ファビウスはカンナエの平原でハンニバル軍を迎え撃つことにする。伏兵などによる奇襲の恐れのない平原でならローマ軍が有利と考えてのことだった。こうしてローマ軍87000とハンニバル軍50000が対峙する。

 戦いが始まるとハンニバルは自ら前線の中央に布陣した。ローマ軍はハンニバルを倒すべくそこに殺到する。しかし実はこれはハンニバルの自らを囮とした作戦だった。ローマ軍がハンニバル軍に引きつけられたところで側面に展開していた騎兵が背後に回り込んでローマ軍を完全包囲した。こうして退路を断たれたローマ軍は50000~70000の戦死者や捕虜を出す大敗となった。ハンニバルは31才にして宿敵ローマを壊滅手前まで追い込んだのである。

 

スキピオ・アフリカヌスの逆襲

 カンナエの戦いで大勝したハンニバルは、イタリア南部の港町タレントゥムの攻略に取りかかる。しかし抵抗が激しく、ここでハンニバルは6年以上足止めされてしまう。その間にローマではスキピオ・アフリカヌスがハンニバルを打倒するべく準備を進めていた。彼はかつて父であるコルネリウス・スキピオを戦場から救い出した男であった。ハンニバルの戦術を徹底的に研究したスキピオは、ハンニバルが不在のカルタゴ本国に攻撃をかける。カルタゴ本国は呆気なく攻略され、休戦交渉のためにハンニバルは本国へ呼び戻される。しかしスキピオとハンニバルの休戦交渉は決裂、両者はカルタゴで雌雄を決することとなる。

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ハンニバルのライバル、スキピオ・アフリカヌス

 両軍はザマで激突する。兵の数ではスキピオ軍43000に対してハンニバル軍53000とハンニバル軍が優位だったが、ハンニバル軍の象の突進はローマ軍にかわされてしまい、混乱するハンニバル軍に対し、スキピオは騎兵を素早く動かしてハンニバル軍を包囲する。ハンニバルが得意とした包囲殲滅戦をスキピオが逆手に取ったのである。これでハンニバル軍は壊滅する。カルタゴはローマの同盟国に編入され、多額の賠償金が課せられる。逃亡していたハンニバルはカルタゴに戻って行政長官となってカルタゴの再建に当たる。ローマに制海権を奪われたことで交易で生きることが出来なくなったカルタゴで、ハンニバルは農地開拓を進めることで再建を目指す。その結果、8年でローマへの賠償金を払いきる。しかしハンニバルの急進的な改革はカルタゴの貴族の恨みを買い、暗殺の危険を感じたハンニバルはカルタゴから逃亡する。各地を転々とするハンニバルだが、ローマは危険人物として執拗に追跡した。そしてビテュニアでローマが引き渡しを求めたとき、ハンニバルは毒を煽って自ら命を絶つ。63才だった。カルタゴが滅亡したのはその37年後である。

 

 とにかくハンニバルは名将であったのは間違いなく、彼の駆使した戦術は戦術の教科書に載るようなレベルである。実際のところ彼の戦術は現在でも通用するものであり、機動力を駆使しての包囲殲滅戦は近代でも戦車戦などで応用されている。さらには未来においても銀河帝国軍と自由惑星同盟軍との間で応用された(笑)。

 最後の戦いでハンニバルが敗北したのは、この時のハンニバル軍がローマを転戦した精鋭ではなく、寄せ集めであったためにハンニバルが意のままに動かすということが出来なかったからだとされている。またローマを攻めきれなかったのは、ハンニバルが意図したローマの同盟国の切り崩しというのが上手く行かなかったからだという。ローマはそれだけ同盟国と強固な絆を作っていたわけであり、これはローマのそれまでの政治力の勝利であった。つまりはハンニバルは戦術的にはローマ軍に勝利したのであるが、戦略レベルではローマの政治力に敗北したわけである。

 カルタゴ本国はそもそも商業中心の国であり、戦闘は傭兵に任せっきりという面が強かったので、ハンニバルがローマを相手に奮戦していても、カルタゴ本国は支援するどころか足を引っ張っただけになってしまった。いくらハンニバルが強くとも、補給のままならない敵地での長期戦はジリ貧になってしまう宿命である。もし本国に劉邦に対する蕭何のような存在がいれば、恐らくハンニバルは余裕でローマを滅ぼしていただろうが。

 

忙しい方のための今回の要点

・ハンニバルはカルタゴ軍を率いてアルプス越えでローマ本土に侵攻した。
・アルプスを越えたときには兵は最初の1/4に減少していたが、寄せ集めだったハンニバル軍は精鋭に鍛えられていたという。そして迎え撃つコルネリウス・スキピオ率いるローマ軍を殲滅する。
・これでローマと敵対していたガリア人がハンニバル陣営に加わる。さらにハンニバルはローマの同盟国に隊しての切り崩しも仕掛ける。
・ハンニバルがここまでローマに対して憎しみを持っていたのは、彼の父のハミルカル・バルカがカルタゴの将軍で第一次ポエニ戦争でローマに敗北したということが理由にあったという。
・ハンニバルは霧の中から奇襲など、様々な戦略を駆使してローマ軍を撃破する。ローマではファビウス・マクシムスにローマ軍の全権を与えカンナエの平原で、ハンニバル軍と全面戦闘を行う。しかし兵力で勝っていたローマ軍は、ハンニバルの自らを囮にした包囲殲滅作戦でほぼ全滅に近い完膚なきまでの敗北を喫する。
・ハンニバルは本国からの補給を得るために南部の港町であるタレントゥムの攻略に挑むが、頑強な抵抗に遭って6年間釘付けにされる。
・その間にローマではコルネリウス・スキピオの息子のスキピオ・アフリカヌスがハンニバルの戦術を徹底して研究していた。そして彼はハンニバルが不在のカルタゴ本国に攻撃を仕掛けてそれを攻略する。
・帰国したハンニバルはスキピオと停戦交渉を行うが決裂、戦闘で雌雄を決することになる。しかしハンニバルが用意した戦象はローマ軍にかわされてしまい、混乱するハンニバル軍をローマ軍の騎兵が包囲、ハンニバル軍は殲滅されでカルタゴは敗北する。
・逃亡していたハンニバルは後にカルタゴの再建に尽力するが、急進的な改革のせいで貴族達の反発を食らって暗殺を恐れて逃亡することになる。そしてローマに追われて各地を転々とする中、ビテュニアで服毒自殺する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・名将と言われる人物はいろいろいますが、ハンニバルはその中でもトップクラスでしょう。ちなみにスキピオにとってハンニバルは仇敵でありましたが、個人的にはかなりリスペクトしていたといいます。実際にスキピオは「ハンニバルオタク」と言われるぐらいハンニバルのことを徹底して研究して学んだそうですから。最終的にはハンニバルが得意とする包囲殲滅戦を彼のお株を奪って実践するんですから、これにはハンニバルも「やられた」と思ったでしょう。

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