名奉行二人を紹介
今回は名奉行として知られる大岡忠相と遠山金四郎を紹介。もっとも彼らの伝説はかなりの部分が虚飾が多いので、その実相はどうであったのかという辺りに注目。
吉宗に抜擢され、法制度改革に取り組む
まず大岡忠相であるが、1677年に旗本の大岡忠高の四男として生まれた。10才で同族の大岡忠真の養子となって24才で家督を相続、その後順当に出世をし41才という異例の若さで町奉行に就任した。これについては能力主義を導入していた吉宗による後押しがあったという。忠相はバリバリのエリートだったわけである。
町奉行になった忠相が越前の守を名乗るようになり、これで大岡越前誕生である。なお大岡政談がわんさかと残っているが、実際にはこれらは中国の古典やらから取ったものであり、彼自身の裁きだと確認されているのはほとんどないという。なお彼は無実の罪で火あぶりにされそうになっていた人物を助けたことなどがあると言う(岡っ引きが成績稼ぎで拷問して嘘の自白をさせていた)。忠相は冤罪を聞いた場合には遠慮なく申し出るようにお触れを出すと共に、判例集である「撰要類集」を出して人によってバラバラだった裁きの基準を統一しようとしたり、公事方御定書で拷問の制限や罪人の改悛を促す規定など法制度の確立を目指したという。
江戸の防火対策にも尽力
また忠相は町火消しを設置したり、耐火性のある瓦葺きや土蔵造りの推進などの都市政策を行ったという。さらに行政詳しい者を代官に起用して近郊から野菜を調達できるようにしたり、物価対策まで行ったという(カルテルの取締のようなことまでしたらしい)。 町奉行はかなりの激務であったために過労死する者もいたという。その町奉行を忠相は20年も務め、60才の時に寺社奉行に任命される。旗本から寺社奉行に登用された例は初めてだという。しかしこの人事は同僚達との軋轢を生んだというが、日々政務に励み同僚の仕事も引き受けて出しゃばることはなく、適切に指導を行う忠相に同僚達も次第に信頼を持つようになったという。
忠相の最後の仕事は吉宗の葬儀の実務だったという。もう高齢で身体が十分に動かない忠相は命がけでこの仕事に挑み、半年後になくなったという。
水野忠邦に抜擢されたと遠山景元
その100年後に現れるのが遠山景元である。家督が回ってこないことになっていた景元はかなり荒んだ若い時代を過ごしたという。しかし32才で急遽後継ぎとなり、37才で家督を継ぐ、この後はトントン拍子で出世し、46才で勘定奉行に就任する。その手腕に目をつけたのが老中の水野忠邦だという。そして景元は48才で北町奉行に抜擢される。
遠山の金さんと言えば御白州での「この桜吹雪に・・・」であり、この番組でもアニメで再現しているが、この金さんのモデルが明らかに西郷輝彦なのはなんだか・・・。ちなみに私の世代には杉良太郎のイメージの方が濃いんだが。なおこの入れ墨だが、実際は入れていなかったとのこと。もっともこれについては桜吹雪はあり得ないが、実際に入れ墨をしていたらしいとの説もあるので諸説紛々である。
実際の景元のお裁きの記録は残っていないが、12代将軍の家慶から「奉行の模範となるもの」と賞されており、吟味巧者であったのは間違いないとのこと。
なぜ庶民の味方となったか
都市政策においては水野忠邦の天保の改革に則って、庶民の奢侈の取締などを徹底して行っている。特に人情本(江戸時代のハーレクイーンロマンスのようなもの)の取締を行い、為永春水を手鎖の刑に処しているという。どうもこの辺り、庶民の味方の金さんのイメージとズレるのだが、彼が庶民の味方とされたのは、「庶民の娯楽をすべて規制するのは良くない」寄席の全廃に反対し、歌舞伎座の移転についても忠邦に反対したことによるという。歌舞伎関係者はそのことに恩義を感じており、どうやら歌舞伎の宣伝力で盛り上げられたようである。
景元は51才で閑職である大目付になるが(水野忠邦に反抗したのが原因とみられる)、忠邦が失脚した後に53才で南町奉行に就任したという。そして7年間務めたという。
二人とも有能な官僚であったのは間違いなさそうだが、多分に伝説の部分が多いので実相が見えてこない。特に遠山金四郎に至っては歌舞伎の世界でドンドンと荒唐無稽なヒーローにされた模様。
ただこのようなヒーローがもてはやされるのは、やはりお裁きや政治に対する庶民の不満というのがあったのだろう。確かに現在でも東京地検に遠山金四郎のような検事が登場して、腐敗役人や政治家をバシバシと摘発してくれないかなんて願ってしまうところ。
忙しい方のための今回の要点
・旗本だった大岡忠相は24才で家督を継いだ後トントン拍子で出世し、41才で町奉行に抜擢される。
・これには吉宗による能力主義の考え方が反映しているという。
・忠相は裁判の基準を定めるなど、それまで人によってまちまちだったお裁きの基準を統一したりなどの法制度の改革に取り組む。
・また火事の多かった江戸に対し、町火消し制度を導入、また瓦屋根や土蔵造りなどの耐火性の高い住居を奨励する。
・忠相は最後には吉宗の葬儀の実務を差配し、その半年後にこの世を去る。
・遠山景元は本来家督が回ってこない立場であったため、若い頃は屈折して放蕩していた。
・しかし37才で家督を継ぐことになり、その後はトントン拍子で出世する。その手腕が老中の水野忠邦に見込まれ、48才で北町奉行に抜擢される。
・景元は水野忠邦の天保の改革に従って庶民の奢侈などを厳しく取り締まるが、その一方で寄席の全廃には反対し、歌舞伎座の移転に抵抗するなど庶民の側に立った姿勢も示している。
・それが水野に疎まれたのか、51才で閑職である大目付になるが、水野が失脚後には再び南町奉行に抜擢される。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・とにかく筋目を通す官僚というのがいつの間にかこの国からいなくなりました。そういう奴は左遷して、忖度官僚ばかり抜擢したのが今の日本の体たらくというわけです。奉行といえば東京都知事みたいなものですが、何しろ都知事があれですから・・・。
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