教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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4/5 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「家康、死す!徳川よ、永遠なれ」

家康の徳川幕府を盤石のものとするための大戦略

 日光東照宮と言えば家康を祀った神社であるが、ここには家康の壮大な目論見が存在したという話。

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東照宮と言えばこれですね

 

天下を治めるためにあらゆる手を打つ

 家康は少年時代は今川家に人質になるなど波瀾万丈の人生を送っている。天下を取ったのは59歳になってだが、家康は将軍の座をわずか2年で息子の秀忠に譲って、自身は駿府城に隠居してしまう。なぜ家康が将軍の座を譲ったかだが、ここには家康の深謀遠慮がある。この時はまだ豊臣家が健在であり、豊臣恩顧の大名などは家康の後は秀頼が将軍になるべきと考えていた。家康はそれを否定し、徳川家で将軍を世襲していくということを秀忠に将軍位を譲ることで示したのである。また家康は隠居したと言うが、実際は秀忠は家康の命で動いており、大御所政治だったのが実態である。

 家康は66才で改修を終えた駿府城に入る。家康が駿府を選んだ理由は、幼年期にここで過ごした思い出があるということもあるが、駿府が温暖な気候で、要害堅固な上に東海道に近いので西国大名が攻め入ってきたような時にはここで迎え撃つことを考えていたのだという。

 何が何でも自分の目の黒いうちに豊臣家をつぶしたいと考えていた家康は、浅野長政、池田輝政、加藤清正などの豊臣恩顧の大名が次々と死去したタイミングを見計らって動き始める。方広寺の鐘の銘に因縁をつけて秀頼の江戸参勤か大坂城の退去、もしくは淀君が人質になることを要求、豊臣家がこれを拒絶したことで大坂の陣を勃発させる。この結果、秀頼と淀君を自害に追い込む。こうして徳川の天下を盤石なものとしたのである。そして朝廷に改元を働きかけ元和に改めさせ、元和偃武を宣言する。これは武をやめて和を始めるという意味だという。つまり泰平の世を築くと宣言したのである。

 家康は駿府にブレーンを集めると、泰平の世を保つための制度を整えようとする。まず武家諸法度で大名の身分を定めて統制を取る。また朝廷に対しては禁中並公家諸法度を発布して朝廷は学問や行事に専念するように命じた。さらに大寺院にも寺院法度を発布して寺院の権力を奪った。また大規模な埋め立て工事などの公共事業で失業対策を行ったという。さらには秩序や忠孝を重んじて幕藩体制の維持に好都合な儒教を広めた。また世継ぎが絶えないように御三家も定める

 

最後の時まで死後のことを考えての布石を打つ

 粗食を実行し、鷹狩りなどの運動も欠かさないなど健康に留意していた家康であるが、ついに最後の時がやって来る。鯛の天ぷらを食べた夜に突然に体調を崩したことから食あたりが死因などと言われているが、実際は死んだのは3ヶ月先であるので食中毒の可能性はなく、死因は胃がんか膵臓ガンではないかとされている。

 死期を悟った家康は自分の死後の手配を回りの者に伝える。また縁のある外様大名を呼び寄せ、愛用の品を遺品として与えたという。さらに死の二週間前には信頼を置く側近の本多正純、金地院崇伝、南光坊天海らに死後のことを細かく指示、そして死の前日には秘蔵の刀を持ってこさせて、死罪の者で試し切りすることを命じる。家康は血のついた刀を振り「この太刀の威力をもって子々孫々までも鎮護せん」と言い、その刀を矛先を西に向けて家康の像と共に飾るように指示したという。やはり西国の外様大名が懸念だったのだろう。翌日、75才でこの世を去る。

 

神になろうとした家康

 家康は死後に遺体を久能山に埋葬し、徳川家の江戸での菩提寺であった増上寺で葬儀を行い、その後に故郷の岡崎の大樹寺に位牌を納め一周忌の後に日光に小さなお堂を建てて自分を祀るように命じていた。久能山は東海道を見張る位置であり、やはり家康は西国大名を気にしていたのだろうという。また遺体は急いで久能山に運び込まれたのだが、これは神性を増すためではという。遺体がすぐになくなることで家康は死ぬとすぐに神に昇華したとするのだという。

 また久能山の真西には家康の母の於大の方が願掛けをして家康を授かったという鳳来寺があり、さらに真西には岡崎に行き当たる。東は神の世界とされているので、生誕地の真東に埋葬することで神となるという意味だという。

 家康を神とするとなると神号が問題となる。秀吉は心頭の主流派であった吉田神道の中で最高の神格である大明神を得ていた。そこで崇伝は家康も大明神が妥当と主張したが、天台宗僧侶である天海が天台宗系の山王一実神道の神である大権現を主張したという。秀忠やばっか区の多くも大明神を支持したが、天海の「豊国大明神は豊臣家を救えなかった」の一言で大権現に決まる。これを受けて朝廷は4つの神号を提案する。それが日本大権現、威霊大権現、東照大権現、東光大権現であった。ここから東照大権現を選ぶ。これは東の天照大神として家康を祀ったのではないかという説があるという。

 さらに日光の地を選んだ理由であるが、日光が源頼朝が信仰していた霊場だったからというのがあるというが、江戸の鬼門を封じようとしたとか、北極星をイメージして天帝となることを考えたのではとの説もあるという。秀忠が儲けた東照社は後に東照宮となる。なお久能山東照宮の社殿は北北東を向いており、それは日光の方角だという。久能山と富士山と日光が一列に並ぶようになっていると言う。なお小さなお堂を建てろと家康が言い残した東照宮は、家光の時に今のお金で2000億円の巨費を投じて600万人を投入して絢爛豪華な現在の日光東照宮となっている。徳川幕府の権威を見せつけたのである。

 

 徳川家の天下を続けるための家康の強烈な執念を感じずにはいられない。やはり信長と秀吉が後継者の件でコケたのを間近に見ていたし、秀忠の力量を信じていなかったしということもあり、ワシが生きている内に何とかしないとという気持ちが強かったんだろう。それだけにありとあらゆる手を尽くして盤石の体制を築いており、それがあったからこそ後にはボンクラな将軍も出たにもかかわらず、260年も徳川幕府が続いたのである。

 ちなみに家康存命中は散々頭を押さえられて窮屈な思いをしていた秀忠は、家康がいなくなると共に「重しが取れた」とばかりに伸び伸びと自分がやりたいことを始めたとか。なお完全に徳川の世が定まった後なので、秀忠はそれを念押しするような政策を進め、思いの外無難にこなした(意外に有能だったという評価もある)というのが秀忠の世間の評価。まあ乱世にはまるで役に立たないが、治世には決定的なへまをしないぐらいの能力はあったと言うことである。

 まあしかし家康が万全の布石をしまくった幕府も、さすがに永久に続くものではなく、結局は家康が警戒していた西国大名の毛利と島津にやられてしまうのだが。しかもその頃になると親藩や御三家も既に血が薄くなりすぎていて、徳川を盛り立てるという意識は大分薄れていたというのは、これはさすがの家康でもどうしようもなかったところである。

 

忙しい方のための今回の要点

・家康は日光東照宮の主神となっているが、この東照宮自体が家康の深謀遠慮の産物である。
・苦労して天下を手に入れた家康は、徳川の天下が永続するべくあらゆる手を打つ。
・まずは将軍になって2年で将軍位を息子の秀忠に譲り、将軍は以降徳川家で世襲することを示して秀頼に将軍位を返還することを否定する。
・さらに方広寺の鐘の銘について言いがかりをつけて、ついには豊臣家を滅ぼす。この後に家康は改元して元和偃武(武をやめて和を始めるという意味)を宣言する。
・駿府城に移った家康はそこに側近を集めて幕府の体制を組み立てる。ここで武家諸法度や禁中並公家諸法度などの大名や朝廷を絞る法が成立する。
・盤石の体制を固めた家康は、鯛の天ぷらを食べた後に体調を崩す。しかしどうやら食あたりではなく胃ガンか膵臓ガンを患っていたと推測されている。
・家康の死後には遺言に従って、遺体は久能山に埋葬され、一周忌の後に日光に移されることになる。これには家康が徳川家を守護する神となるという目的があったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・日本では神様と言えば御先祖様なんですよね。先祖が子孫を守護するという考え方。だから家を絶やさないということが重要だったんですが、実際には守護するべき子孫が絶えている神様も少なくないでしょう。
・秀吉に滅ぼされず、臣下になるという曖昧な措置のおかげでそこからひっくり返した家康としては、結局は秀頼と淀君を殺さない限り安心は出来なかったのでしょう。まあ実際に秀頼が健在だったら、秀忠の時代に豊臣家にひっくり返された可能性がないわけではないとも言われています。豊臣恩顧の勢力は残っているし、秀忠はとかく乱世には向かない人物でしたから。

前回のにっぽん!歴史鑑定

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