教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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4/19 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「明智光秀より先!信長に刃向かった男・荒木村重」

うまく立ち回って順調に出世した荒木村重

 天下統一を果たした織田信長は家臣だった明智光秀の謀反で命を落とした。しかし信長は光秀だけでなく、意外に多くの家臣に叛逆されている。その中でも激しい反抗をしたのが荒木村重である。荒木村重は後に信長に取り立ててもらったのに謀反した恩知らずとか、家族や家臣を捨てて自分だけ逃げたした卑怯者などと罵られることも多いのだが、その村重の実像はいかなるものであったか。

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荒木村重

 荒木村重は三好勢の傘下にいた池田氏の家臣であった。しかし信長が足利義昭を奉じて上洛したことで三好勢は京を追い落とされる。この時に池田勝正は三好を裏切って義昭に寝返る。これに三好派の重臣達が猛反発して、勝正を追放して弟の知正を当主に担ぎ上げる。村重は三好派にいたので池田氏の重臣として残る。しかしこれで摂津周辺の勢力図が変わり、池田城の池田氏は高槻城の和田惟政と対立することになる。1571年、池田知正と和田惟政が衝突、ここで村重は惟政を討つという大手柄を上げて池田家臣の筆頭となる。

 

信長の配下となって順当に出世するが

 一方の信長は家康が三方原で惨敗、信長と対立しつつあった将軍の義昭が画策した包囲網の中で窮地に陥っていた。そんな中で村重は信長に付くことを選ぶ池田家の義昭派の重臣に対抗するために信長に付いたのだという。なかなかの大勝負である。細川藤孝を通じて信長に忠節を誓う旨を伝えたという。そして高槻の和田和田惟長を追放して北摂津最大の実力者となる。そして村重は信長と対面した。この時、刀に饅頭を突き刺して村重の前に突き出した信長に対し、村重はひるむことなく大口を開けてその饅頭をくわえたという。この態度に信長は喜び、名刀を与えて摂津を任せると言ったという。

 信長は義昭の麾下から寝返った細川藤孝と荒木村重を将軍との交渉に送る。これは義昭に圧力をかけるためだったという。義昭は動揺、そして信長は義昭を追放する。こうして村重は柴田勝家らと共に奉行に命じられる。そして摂津一国を任せられたことで池田氏と立場が逆転し、池田知正が臣下になることになる。村重は伊丹氏などを滅ぼして摂津を統一する。そして明智光秀の娘を息子の嫁に迎えてつながりを強化、さらに各地の戦場で活躍する。

 その村重に対し、信長は毛利方の宇喜多直家の攻勢に押されている浦上宗景の救援を命じる。宗景の尻ぬぐいをさせられることになった村重だが、小寺氏や別所氏を説得して引き入れ、播磨を固めることに成功する。このことで村重は播磨の武将たちとの取次役として信長からさらに深い信任をうけることとなる。

 

突然に信長に反旗を翻す

 しかしその3年後の1578年、荒木村重が信長に反旗を翻す。謀反の原因としては本願寺攻めにおいて村重が兵糧攻めの用意を進めていたのに、力攻めにこだわる信長は総攻撃を決行して惨敗したことがあるという。しかもその挙げ句にその後の兵糧攻めには村重でなく佐久間信盛を起用し、結果として信盛は本願寺攻略に失敗したことから、信長の人材起用の不公平さに不満を感じたのだという。

 そしてさらに決定的だったのは秀吉を西国攻めの総大将に起用したことだという。これは村重の存在を無視したものであり、さらに秀吉は小寺氏の家臣の黒田官兵衛を村重に断りなく参謀に起用して姫路城を拠点にしたことで、完全に村重の面目をつぶしたのである。この秀吉の勝手な行動を信長が許したことが村重を謀反に走らせた。

 信長は村重を説得するために光秀や秀吉を送ったが、村重の気持ちは揺るがず、説得に来た官兵衛を有岡城に幽閉してしまう。ここで村重が官兵衛を殺さずに幽閉したのは、小寺氏を味方につけるためだったという。村重は実際に毛利や本願寺と結ぶなど、謀反のために味方を増やしていたという。

 

頑強な抵抗の中、突如として城を抜け出す

 村重は軍勢を摂津の有岡城、尼崎城、花隈城に分けて籠城戦に討って出る。信長軍は村重がこもる有岡城を攻めるが惣構えを築いた堅固な有岡城を落とせず、2000もの死傷者を出してしまう。そこで兵糧攻めに転じるが、毛利や本願寺の援軍を得ている村重は2年に渡っての籠城戦を行うことになる。また領地で善政を施していた村重に領民達も協力したことでその抵抗は頑強であったという。

 しかし1579年9月2日、村重は突如有岡城を抜け出し、嫡男の村次が守っていた尼崎城に移ってしまう。これは村重が妻子や家臣を見捨てて逃亡したとされているが、実際は宇喜多直家が織田方に寝返ったために毛利軍の援軍が帰国をし始めていたことと、援軍の拠点である尼崎城を失うと本願寺からの補給線も断たれることから、拠点である尼崎城を防衛するために移動したと考えられるという。

 必死で戦線の建て直しを図っていた村重だが、村重が不在となった有岡城では城兵の士気が低下し、寝返り工作で落城寸前に追い込まれることになる。そこで村重の元に光秀が降伏の使者として送られるが、村重は降伏を拒絶、信長は見せしめに家臣や妻子を処刑する。

 村重はその後も8ヶ月に渡って籠城戦を繰り広げることになる。しかし本願寺が大阪を退去したことで万事窮する。本願寺を包囲していた織田軍が村重の攻撃に向かうことになり花隈城が落城、ここまでと悟った村重は荒木家の再興を目指して嫡男の村次を連れて毛利の元に落ち延びたという。村重46才。その後の村重は道薫と名乗って茶人として堺での茶会に参加した記録が残っているという。恐らく堺で毛利方の交渉役として活躍していたのではと考えられるという。

 

 信長に反旗を翻した者は実際に少なくないのだが、大抵は悲惨な末路を迎えているのに対し、しぶとく逃げ延びて信長の死後まで生き延びた(信長の死後には表に出てきている)という点で謎も多い人物である。また茶人として活躍したと言われているように、そちら方面への造詣も深かったらしい。妻子を捨てて逃げた卑怯者というのは多分に信長公記による意図的な悪評だということは言えそうだが、実際にここまでしぶとく生き残りを図るというのも当時はあまりなかったような気がする(同じく信長に背いた松永久秀などは最後は華々しく爆死したと言われているし)。

 なお江戸時代初期に絵師として活躍した岩佐又兵衛は乳母の機転によって信長による処刑から逃れた村重の息子とされている。こういう辺りから考えても、村重はかなり文化人としての素養が高かったようである。城を枕に華々しく討ち死にという武士の価値観からは離れたところにいた人物だったのかもしれないという気もする。

 

忙しい方のための今回の要点

・荒木村重は三好の配下の池田氏の家臣であったが、信長が義昭と対立して包囲網に囲まれた時に、信長に付くことを選ぶ。これは他の義昭派の家臣達との対立のためだったという。
・信長に気に入られた村重は摂津一国を任せられることになり、主君だった池田氏と立場が逆転することになる。
・また宇喜多直家の攻勢で危なくなった播磨を鎮めることを命じられ、別所氏や小寺氏を味方に引き入れることで播磨を抑え、播磨衆との取次役をすることになる。
・しかしその3年後、村重は信長に反旗を翻す。理由は本願寺攻めにおいて村重の策が否定されて結果として大敗したこと、中国攻めの総大将に秀吉が選ばれて自らの面目がつぶされたことなどと考えられるという。
・毛利や本願寺と結んだ村重は、信長に対して反感を持つ領民達も味方につけて2年に渡って頑強に抵抗することになる。
・しかし宇喜多直家が信長に寝返ったことで毛利からの援軍が引き返し、村重は拠点の尼崎城防衛のために有岡城から密かに抜け出す。これが後に妻子と家臣を捨てて逃亡したと非難される元になる。
・士気の低下した有岡城は落城し、妻子や家臣は信長によって処刑される。しかし村重はそこからさらに8ヶ月抵抗する。
・しかし本願寺が大阪を退去することになり体制は決する。花隈城が落城した際に村重は嫡男の村次を連れて毛利に落ち延びることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・「へうげもの」では村重は茶器などに対する執着が強い、しぶとい超エゴイストという様子で描かれてましたね。未だに今ひとつ人物像が定まらないところがあるのがこの人物です。確かに何を考えていたのかが今ひとつ不明なところがある。
・それにしても信長って、人事起用が大胆でうまいなんていわれることもある一方で、実はかなり叛逆にあっていて、最後はそれで命を落としてるんですよね。やっぱり家臣としてはやりにくい上司だったんだろうな。私もこんな上司だったら胃に穴が開いて逃げ出すわ。
・昔、「いつか帰り道で闇討ちしたろか」と思うほどのクソ上司に当たったことがありまして、そういう経験からしたら、意外と光秀怨恨説ってのもあり得たのかななんて思ったりもするんですよね。

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