教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

4/21 BSプレミアム 英雄たちの選択 「"二心殿"と呼ばれた男~最後の将軍・徳川慶喜~」

「何を考えているか分からない」人物・慶喜に焦点を当てる

 大河ドラマでは草薙剛が演じて「何を考えているのか分からない」と言われているが、実際の歴史においても「何を考えていたのかサッパリ分からない」と未だに謎の人的な扱いをされることも多い徳川慶喜。何しろ急に意見を180度変えたりするから「二心殿」とまで呼ばれたという曲者である。この謎の人物・徳川慶喜に焦点を当てる。

 水戸家の斉昭の七男として生まれた慶喜は、藩主になる可能性はほとんどない存在だったため、通常ならどこかに養子に出されるところであるが、彼の聡明さに期待した斉昭は水戸に彼を置いたという。そんな慶喜に御三卿である一橋家に養子に欲しいという話が出る。御三家が徳川家を存続させるために家康が息子をそれぞれ奉じたものだが、御三卿は吉宗がやはり血筋を絶やさないために子供や孫に作らせた三家だという。そして慶喜は10才で一橋家の当主となるが、一橋家は城はなく家臣も幕府からの出向がほとんどだった。独立した大名でなく政治的実権はなかったという。

 

幕末の動乱の中で回りから期待されることに

 慶喜の転機となったのはペリーの来航である。病弱な家定はこの難局に対応する能力が無いと見られ、早くも次期将軍を決める声が上がった。多くの大名は家定に血筋の近い紀州藩主の徳川慶福を推したが、慶福はまだ10才だった。ここで松平春嶽や島津斉彬らが17才となっていた慶喜の擁立に動く。しかし水戸家の慶喜は徳川宗家とは血が遠かった上に、父の斉昭は幕府との折り合いが悪かった。これが慶喜が将軍になることの障害となっていた。これを打開するために慶喜の側近の平岡円四郎が記したのが「慶喜公御言行私記」という冊子だという。これは慶喜の言行を記録したもので、慶喜の人となりをアピールするためのパンフレットのようなものだったという。これを大名達に配って慶喜を将軍にするための支持を得ようとしたのだという。ここには「東照宮の神孫」という記述があり、慶喜が家康の正統な後継者であることをアピールしているという。

 もっとも慶喜本人は「面倒臭い」というようなことを考えていた節があるという。しかし慶喜の意志に無関係に慶喜派と慶福派が対立することになる。しかしこれは大老の井伊が血筋を重んじて慶福を強烈に推したことと家定の意向もあり、次期将軍は慶福(後の家茂)に決定する・・・とこの辺りはつい最近に大河でもやっていたところである(馬鹿殿家定とワンコ井伊が勝手に慶福に決めてしまった)。

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政治の舞台に登場するが、つかみ所の無い慶喜

 しかし時代が慶喜を政治の舞台に引きずり出す。幕府が朝廷に無断で外交条約を結んだことで開国に反対の孝明天皇が激怒、尊皇攘夷の気運が盛り上がって過激な志士が井伊直弼暗殺に及ぶ。幕府の権威が完全に失墜したこの事態に英邁とされる慶喜に幕府建て直しの期待が集まることになる。そして薩摩などの後押しで慶喜は将軍後見職に就任することになる。しかし京都では過激な攘夷派の長州藩が公家と結びついており、条約の破棄と攘夷の実行を求めて三条実美を勅使として江戸に派遣する。

 これへの対応を協議する場で慶喜は「世界では既に多くの国が交流しており、日本もむしろ自ら進んで交わりを結ぶべき」と語り、朝廷にもハッキリと意見できるリーダーとして期待されることになる・・・のだが、2週間後に改めて開国への覚悟を聞くと「しばらく明言はやめて老中達が開国と言うのを待とう」と答えたという。もうこれだけで回りがズッコケタのが目に浮かぶのだが、慶喜の母は皇室の出身であり慶喜は心理的には朝廷に心が近かったので、開国するべきと考えていても、天皇が猛反対となると板挟みで揺れていたのだろうという。結局幕府は出来るあてもない攘夷の約束をしてしまうことになる。

 そんな幕府にとっての逆転のチャンスとなった事件が1863年の「八月十八日の政変」だという。会津藩と薩摩藩の藩兵が長州藩とそれに与する公家を御所から追放したのである。朝廷を説得する好機に薩摩藩の島津久光が動く。久光は公武合体を目指し、久光の建議で慶喜を含む有力諸侯が参与に命じられて朝廷との話し合いがもたれる。参与達は開国を主張して話は決まりかけるのだが、ここで慶喜がかき混ぜる。既に開国している横浜を閉鎖して攘夷の一歩を踏み出すことを主張したのだという。しかもその後の宴席で酔った慶喜は中川宮に対して島津久光らを「この者達は天下の大愚物、天下の大奸物であります」と罵倒したという。これには久光は激怒、結局参与会議は解散となり、この騒動以来久光は慶喜に強い不審感を抱くことになるという。コロコロと意見を変える慶喜を人々は二心殿と呼んだという。

 

薩長との対立が深まる中で幕府をさっさと畳んでしまった慶喜

 参与会議の解散の後、慶喜は将軍後見職を一方的に辞退し、禁裏御守衛総督摂海防禦指揮に就任する。天皇配下で大阪湾を守備するという役職である。幕閣は将軍家茂の命で何度も慶喜を江戸に呼び戻そうとしたがそれを断ったという。慶喜が幕府よりも朝廷を重んじていた姿勢の現れでもある。京での慶喜は禁門の変では陣頭に立って長州軍を退けている。そして孝明天皇からの信任を得ると、孝明天皇の意を受けて長州の征伐に乗り出す。この時に西郷隆盛が長州と交渉して解決を図っているが、長州への甘い処置に対する不満が高まり第二回の長州出兵が始まるが、薩摩は不満を持って長州に通じるようになる。

 しかしここで家茂がこの世を去り、慶喜に将軍就任が求められる。ここで慶喜の選択だが、自らの軍を持っていなかった慶喜としては幕府軍を掌握することを考えたのではないかという。ただ慶喜は徳川宗家を継ぐが将軍には就任しないという姿勢を示し、自ら幕政改革に乗り出すという条件をつける。そして幕府軍をフランス軍に倣った軍制改革をなして、幕府軍は着実に強化される。これに対して長州の木戸孝允は慶喜の手腕は侮れないと記しているという。そして慶喜は自ら幕府軍を率いて長州征伐に乗り出すとする。

 しかしここでまた心変わりをする。先発した幕府軍が敗戦した報を聞くと急遽出陣を取りやめ、勝手に長州と和解する。これには会津藩や幕臣は納得せず、慶喜に対する不満が高まる。そんな中で慶喜は突然に将軍に就任する。これもなぜなのかには諸説あると言う。そしてその20日後に孝明天皇が死去、後ろ盾を失った慶喜だが、逆に攘夷のしばりから自由になったことで兵庫の開港を決する。これで日本の開国派決定的となる。

 慶喜を警戒する薩摩藩や長州藩は倒幕のクーデターを立てるが、慶喜が先手を打つ形で大政奉還を実施してしまう。しかしそれでも新政府で慶喜は要職に就くことが見込まれていたという。慶喜はそれを計算ずくで大政奉還をしたと考えられるという。しかしそれをあくまで許さなかった薩長は王政復古のクーデターの後に幕府を賊軍として慶喜を徹底的に排除する。こうして幕末が終わることになる。

 

 と言うわけで政権中枢から完全に外された慶喜なのであるが、明治になってから趣味に生きる悠々自適の生活を行い、大正時代まで生きたという。結局は最後まで敗者なのか勝者なのか分からない人物であった。

 どうにもつかみ所の無い人物である慶喜を解釈するとのことなのだが、結局のところはやはり最後までつかみ所が無かった(笑)。私流の解釈としては、幕府の建て直しをすることを周囲から期待されたが、聡明であった慶喜は「こんな状態の幕府を立て直すなんて、完全に無理ゲーじゃね」って最初から見切りをつけて、いかに綺麗に終わらせるかというところに腐心していたのではという気がする。新政府は徹底的に慶喜を排除したが、結局はその政治路線は慶喜が進めていた天皇を立てた開国近代化路線であり、慶喜が既にレールを敷いてしまっていたとも言える。慶喜は自身は政権中央から遠ざけられたが、その時点では自分の構想はほとんど実現していたとも感じられる。

 そういう点で、慶喜という人物は超現実主義な人物だったのではという気もする。幕府はもう限界という現実を受け入れ、さらには当時の世界情勢を考慮して攘夷などと現実味のない政策は排除するという判断をしたと思われる。なお実際には面倒なことはあまりやりたくないという人物だったようにも感じられる。そう言う意味では明治になってからの悠々自適こそ本来の慶喜の本領だったのではという気がする。幕末における彼の行動を見ると何となく、自分がやるしかないのかという諦めと、ある種の無責任が垣間見える感もあるのである。当時の薩長や幕閣連中に対しては「なんでお前達、そんなに暑苦しくなるの?」っていう一種の冷ややかさも持っていたかも。

 

忙しい方のための今回の要点

・元々は火中の栗など拾いたくないという意志があった慶喜だが、時代の変化が否応なく慶喜を政治の中心に引き込むことになる。
・尊皇攘夷の気運が荒れ狂う中で将軍後見職に就任した慶喜は、当初は開国の意志を示すのだが、孝明天皇ら朝廷が強い攘夷の意志を示していることで意見を翻し、結局幕府はあてのない攘夷の約束をしてしまうことになる。
・八月十八日の政変で強行派の長州を京から追放した薩摩が中心となって、参与会議で朝廷を開国の方向で説得することが試みられるのだが、慶喜がこの場を引っかき回したことで島津久光らは慶喜に強い不審感を持つことになる。
・この後、慶喜は一方的に将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督摂海防禦指揮に就任する。禁門の変では陣頭に立って長州を撃退し、孝明天皇の意で第一次長州征伐を実施する。
・将軍家茂が死去したことで慶喜は将軍就任を求められるが、慶喜は徳川宗家の継承は承諾するが将軍就任は拒否、自ら幕府の改革に乗り出し、幕府軍をフランス式に改めて強化する。
・その後、自ら第二次長州征伐に乗り出す意志を示すが、これも突然に翻す。さらに突然に将軍に就任、孝明天皇が死去すると兵庫を開港し、開国路線を進めることになる。
・慶喜を排除したい薩長は倒幕のクーデターを画するが、先手を打って慶喜が大政奉還を実施する。
・しかしあくまで慶喜を排除したい薩長は王政復古のクーデターの後に幕府を賊軍として、慶喜を徹底して排除することにする。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局のところ、最後の最後まで「何を考えていたのか分からない」としか言いようがないのが慶喜です。しかも「英邁なのか愚鈍なのかも分からない」というところもあります。私の推測では「確かに頭は良いのだが、根本的にはそんなにやる気はなかった人なのかな」という気がしたりするんですが。我が社のエースとして周囲からは期待されたが、本人は「もうこの会社先がないじゃん」と見切っていて、それなのに最終的には社長を押し付けられてしまうという感じ。本人の希望は実は「ほどほどに好きなことをして生きていければ」なんて線だった可能性もあり

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