教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/17 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「戦国のミカド 正親町天皇と織田信長」

信長と接近することで朝廷の権威を強化する

 正親町天皇は天皇に践祚しても即位の礼を行うのに3年もかかった。それは朝廷のスポンサーでもあった幕府の権威が低下し、即位の礼の費用を用立てることが出来なくなったからである。朝廷自身も領地からの収入が横取りされる状態になり、貧窮を極めていた。毛利元就からの献金を得て、ようやく即位の礼を行えることになったという。

 正親町天皇にとっては幕府が権威を取り戻すことは重要なことであった。その時に足利義昭を奉じて京に上ったのが織田信長であった。信長は朝廷の権威を天下取りに利用し、正親町天皇は信長の力で天皇の力を高めることを考えていた。

 

一貫して信長と良好な関係を続ける

 信長は天皇の権威を背景に大名達に上洛を命じるが、これに抵抗したのが朝倉義景だった。信長は朝倉攻めを行ったが、この時に戦勝祈願までしているという。しかしこの戦いは浅井長政の裏切りで失敗する。信長が反信長勢力に包囲されて苦境の時、正親町天皇は本願寺に対して戦いを収めるように勅書を記している。その後、義昭と信長が対立して信長が苦境に追い込まれた時も正親町天皇は和議を仲介している。正親町天皇は一貫して信長を支援していたという。

 しかしその両者の蜜月の関係に変化が訪れる。信長が正親町天皇のキリスト教を排除するべしと言う綸旨を無視してルイス・フロイスと会見、ここで信長は布教の自由を保障する。さらに正倉院の蘭奢待を切り取るということを起こしている。これは信長が強引に開けさせたとされていたが、実際は正親町天皇の許可を得ていたという。番組では信長と正親町天皇との関係は決して対立はしていないとしている。

 

譲位は正親町天皇が望んだことだった

 その後、信長は正親町天皇に譲位を迫るということがあり、これが信長と正親町天皇の対立とされているのだが、これも近年に正親町天皇の攘夷を望む書簡が見つかっており、正親町天皇の望みだったという。攘夷するには次の天皇の即位の儀式など多額な費用がかかるために、戦国時代には難しい話であった。正親町天皇はそれを信長に面倒を見て欲しいと言ったのだという。しかしこれは信長がこの後戦で多忙になったことで実現せず、再び浮上したのは7年後だという。京都馬揃えの後に正親町天皇が信長に左大臣の官職を与えようとしたようだが、この時に信長が「譲位の後」に答えているという。しかしこの時の譲位は陰陽師の今年は良くないという占いにより流れたという。

 信長はその後、武田氏を滅ぼす。戦勝して戻ってきた信長には将軍位が与えられることで調整が進んでいたというが、それは本能寺の変で頓挫する。信長の死後、正親町天皇は武家のトップに立った豊臣秀吉と関係を深め、秀吉の支援によって譲位を実現することになるが、その前に伏見地震の大被害が出、さらには天皇位を譲るはずだった皇子の誠仁親王が亡くなったために孫である和仁親王が15才で後陽成天皇として即位することにとなり、120年ぶりの譲位がなされたという。


 「麒麟がくる」での玉三郎のお話です。あのドラマでは信長の晩期になると正親町天皇は「あいつは何を考えているか分からん」とやや距離を置き始めていた印象でしたが、今回の番組の肝は「最後の最後まで正親町天皇と信長の関係は良好であった」ということと、「信長は実は今までに思われていたほどのラディカルな革新者でなく、保守的な権威も重視していた」という話。まあこの辺りはどこが真相かは不明ですが、最近はこっちの流れが強くなってきてます。件のドラマでも松永久秀に「信長は人材起用なども思いの外、家柄重視で保守的だった」というような不満を言わせてましたね。

 

忙しい方のための今回の要点

・正親町天皇が天皇に践祚した頃は、朝廷の後ろ盾であった幕府の権威が失墜したことで朝廷は貧窮化し、即位の礼を行うことも出来ない状態だった。
・正親町天皇は朝廷の権威を増すために足利義昭を奉じて上京してきた信長と接近する。
・信長と正親町天皇は良好な関係を続け、信長が包囲網の中で苦境に陥った時も正親町天皇は和議の斡旋などで信長を支援している。
・信長が無断で蘭奢待を切り取ったと言われるエピソードも、実は正規の手続きを踏んでのものであり、信長と正親町天皇の関係は破綻していないという。
・信長が正親町天皇に譲位を迫ったとされるが、それも実は正親町天皇の方が自ら望んだことが最近発見された書簡で明らかになった。しかし信長が合戦で多忙だったことからなかなか実現せず、その挙げ句の本能寺の変でとうとう最後まで実現しなかった。
・その後、正親町天皇は豊臣秀吉と接近し、秀吉の支援によって譲位を果たししている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ最近の解釈は「信長は今まで言われていたほど革新的でもスーパーマンでもない」というところです。まあ妥当なところではあります。

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