伝説の黒四ダム登場
今回は中島みゆきの紅白での震えながらの歌唱がさらに伝説を作ったという黒四ダムの話である。難工事に挑んだ男たちの奮闘を物語る。
で、この回も明らかに見ているんだが、バックナンバーを見返してみると、なぜかこの回だけが抜けている(前の回と次の回は書いてあるんだが)というわけで理由は良く分からないのであるが、今回も書き下ろすことにする。
戦後復興を左右する大工事
戦後10年、関西の経済復興において最大の問題となっていたのは電力不足であった。関西電力にとっては発電能力の増強は必須の案件であった。電力需要を満たすダムが建てられる場所は黒部渓谷しかなかった。しかしここは今まで何度もダム計画が立てられながら、その過酷な環境によって頓挫してきた場所である。
本体工事を任されたのは間組の現場監督中村精だった。彼は生涯に11のダムを造った筋金入りのダム屋である。昭和31年5月、中村は調査隊を組んで富山から黒部に乗り込んだ。ルートは大正時代に組まれた50センチの木の足場だけで、足を踏み外すと一巻の終わりだった。さすがの中村でも足がすくむ。3日がかりで到着したが、難工事は必至で一体何人の犠牲が出るかは想像がつかなかった。この地に7年で巨大ダムを造るという困難さにさすがの中村も身震いする。
ブルドーザーで立山連峰に挑む
本体工事は間組が、資材輸送用のルートは熊谷組が長野側から5キロのトンネルを掘ることになったが、開通には1年かかり、それを待っていては工事が間に合わなかった。中村は地元だけでなく富士山からも400人の剛力をかき集める。女性で40キロ、男性で最高100キロを担いだ。食料や燃料や宿舎の建築資材などを2日がかりで運んだが、重機などの輸送はとても無理だった。中村は途方もない輸送計画を立てる。各地からブルドーザーの運転手10人を引き抜き、ブルドーザーで標高2700メートルの立山連峰の尾根に登り、雪を待ってソリで一気に黒部に滑り降りるという大胆な作戦だった。
冬までに山に登るべくブルドーザーが道を切り開くが落石が発生、一台のブルドーザーが止まる。掘り出すのに1日かかった。ご飯と味噌汁しか食べ物はなく、山小屋の保存食をおかずにしたが、標高が上がってくると山小屋には保存食はなかった。標高1600メートルではカエルを捕まえて焼いて食ったという。
必死の越冬作業
一方、熊谷組が手がけるトンネルの苦戦が伝わってきた。中村は黒部側からも迎えトンネルを掘る必要を感じる。しかしこれから黒部に入ると5ヶ月は出られない。中村は50人の越冬隊を募る。中村に怒鳴られながら育った若者たちが集まる。
昭和31年1月、越冬隊によるトンネル掘削が2交代制の24時間作業で始まる。ダム工事は1万キロワットごとに1人の犠牲者が出るといわれており、厳冬期の工事は前例がなかった。中村は今まで100人を越える同僚を失っていたが、この越冬隊では犠牲者を出さないと誓い、鈴木医師に同行を頼んでいた。しかし厳冬下の工事で風邪が続出、また野菜が凍り付いて使えなくなった。鈴木医師は作業員の健康維持に困っていた。閉ざされた環境の中でメンタルを病むものも少なくなかった。鈴木はそんな作業員達の面倒を見た。兄貴と慕われた鈴木のために、作業員達は非常時にしか使えない無線電話を結婚半年の鈴木のために、月に一度妻と話せるようにはからった。
一方のブルドーザ部隊は後一歩のところまで迫っていた。中村は富山で彼らと頻繁に連絡していた。彼も名古屋の家族と別居生活をしていた。ようやく目的地にたどり着いた彼らは100日ぶりに下山すると中村に報告に来る。中村は「臭いから風呂に入れ」とそれだけを言ったという。
本体工事開始、勝負をかけた大発破
昭和32年4月、越冬隊はようやく山を下り、代わって中村が1000人の男たちを率いて山に登る。ダム本体への着工が迫っていた。そしてブルドーザー隊はソリで山を下っての物資運搬を始める。
しかし作業は過酷だった雪崩で到着したばかりの5人が飲み込まれる。またトンネルでは大出水が起こり、5ヶ月工事が停滞することになる。これは中村にとっては痛手だった。削岩機だけはトンネルが開通しないと運べない。その時、部下の沼田が大量の火薬を使う大発破を提案する。中村は迷うが決断する。ようやく開通したトンネルで大量の火薬が運び込まれる。そして緊張の中で発破が行われる。山肌は巨大な削岩機で数ヶ月かけて整地されたのと同じ状態になる。成功だった。こうして本体工事が開始され、予定通りに7年でダムが完成する。結局は171人がこの工事で命を落としたという。
戦後すぐは工場がないせいで電力はむしろ余っており、電気自動車の開発などもされていたのだが、復興が急ピッチで進むと一気に電力不足が顕在化し、巨大ダム開発につながったようだ。どうやら大正時代の足場があったということは、その当時もダム建設が計画されたようであるが、当時の技術ではとても無理だったろう。ちなみに黒四ダムは行ったことはないが、宇奈月温泉方面から黒部のトロッコ列車には乗ったことがある。とにかくとんでもない峡谷である。
改めて見返してみると、かなり大胆なことをやっているのだが、意外に語り口は淡々としているのを感じる。難工事だったはずなのだが、意外と山場が不明だったような感じも。やっぱり私は自分の職業柄もあって、いわゆる開発ものの方が今回のような建設ものよりも心を揺さぶられるところがある。目の前に立ちはだかる技術的課題、それを必死のアイディアで切り抜けるって展開やら、技術者の熱い魂ってのに惹かれるようである。
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