教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/9 NHK 歴史探偵「秀吉 中国大返し」

秀吉の中国大返しはどうやって実現したか

 今回のテーマは秀吉が天下取りをするための大いなるきっかけとなった中国大返し。毛利攻めの大軍をわずか10日で200キロ以上の距離を移動させ、準備が整っていない明智軍を完膚なきまでに討ち果たした。今までもこの移動については様々言われてきているが、なぜ秀吉がこの奇跡とも言われる行軍を実施出来たのかを検証・・・とのことなんだが、実はこのネタ、昨年の4/8に既に「英雄たちの選択」で放送済みで、今回の内容の一部はこの時のものをもろに流用している。

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陸路での輸送は困難であった

 まず今回の歴史探偵であるが、今回は新任の森田洋平アナ。屈強たる兵士とは縁遠そうなひ弱な印象の男性である。この森田アナがまずは当時の兵隊の装備から調査する。

 当時の武士が移動するとなると、実は移動時は軽装で移動していた。甲冑を着けた武士がワッセワッセと走ったのでは体力の消耗が洒落にならないからである。荷物の運搬となると専用の運搬係がいたわけである。では当時の武士の装備品はどの程度だったか。当時の甲冑などを展示している京都井伊美術館を訪問して当時の甲冑を実際に森田アナが装備してみるのだが、歩くのも苦労する状態。装備品は箱に入れて運ぶのだが18キロもするという。佐藤二朗氏も担いでみているが、「1日1キロ歩くのも無理」とのこと。ちなみに当時の記録によると40キロ程度の荷物を運んでいたという。

 さらに運搬が大変だったのは兵糧。これらは小荷駄馬と呼ばれる馬で運搬していた。そこで実際にこれを再現しようと、またも在来馬を使用しての実験。すると160キロの荷物を積んでも普通に歩くことは可能、さらには大返しの行程には峠もあったことから登り坂にも挑戦したが、難なくこれも走破。ただ問題はまさかの下りにあった。下りに入ると道が少しぬかるんでいただけでも馬は足が滑って止まってしまう。当時も道路の状況が悪いと馬が転倒するなどの事故はあったらしく、そうならないために穴を埋めさせたなどの記述もあると言う。つまりは天候によって馬での高速輸送も困難になると言うことである。

 では実際の当時の天候はどうだったかであるが、神戸大学の気象学の専門家である梶川義幸氏にシミュレーションを依頼している。中国大返しに関しての気象に関するズバリの記録はないが、当時の日記の類いから京都や奈良など近畿周辺の天候のデータは存在するという。そのデータから気象のパターンを参照することで当時の気象を予測出来ることが出来るとのこと。で、その結果だがもろに雨。その時の気象パターンは梅雨前線が停滞している時のものとのこと。そもそもこの時に秀吉は備中高松城の水攻めを実施しており、短期に水位が上昇しており、梅雨時の雨のシーズンだったのは自明のこと。つまりは大返しは土砂降りの中で実施されていた可能性が高く、馬の高速移動には困難が生じることが推測される。それどころか軍記物には途中の川も増水で水位が上がっていたとの記述があり、これが事実なら河川を越えるのも難しかったと推測される。

 

荷物は海路で輸送したと考えられる

 これを解決する方法だが、これが今回この番組が一番力を入れているところである。この方法の新説を唱えるのが播田安弘氏。彼の説は海運を使用したというもの。実は播田氏は船の設計士である。岡山県東部の片上港の来住家に秀吉がここを拠点にしていたという資料が見つかったことから思いついたという。

 実際にそれが可能かを当時の船の性能の検証から始める。愛媛県宮窪町の港で当時の輸送船である関船よりも小型である小早船を用いて検証。この船は関船の半分ほどの大きさの船で、これを5人が櫂を漕いで速度を調査。その結果、最高時速は8.4キロ出ることが判明。他にも船の基本データを採取して、これを元に船の設計士が本業の播田氏が当時の関船の性能を計算。その結果、全長20メートル、積載量28トンの船で巡航速度は時速5.5キロというスペックが判明した。ではこの性能で中国大返しが可能かどうかを、神戸大学で海岸工学が専門の内山雄介氏が当時の潮流などから計算したところ、十分に可能という結論を得た。

 もっともハード的には可能でも、当時の瀬戸内海の制海権を確保出来ていなければ、輸送中の荷物を毛利に奪われて壊滅などということにもなりかねない。この点については当時の秀吉の元には周辺の水軍の多くが寝返ってきており、従来考えられていた毛利有利の状況は大きく変化しており、従来の200隻程度という規模でなく、600隻を越える規模の船を有していた可能性があるという。こうなると余裕で運搬可能である。

 秀吉の大返しの頃は信長が本願寺救援のための毛利水軍を鉄甲船で撃破した後であり、その後の毛利水軍は寝返りなどで苦労しており、実際に第三次の救援を水路で送ることは出来なかったという事実がある。そのことを考えると、この時点では一帯の水軍は秀吉に掌握されていた可能性は大いにあり得ることである。

 

陸路の方は御座所の活用で万全の体勢を

 最後は陸路の方の話だが、これは先の「英雄たちの選択」にも登場した説を流用。だから突然に千田氏が登場することになるが、これの肝は秀吉は信長を招待するために整備した御座所と呼ばれる施設を最大限活用したというもので、千田氏が唱えている説である。神戸市にある兵庫城は信長を迎えるために整備されたものである可能性が高いという。さらに今回は千田氏は明石の船上城に注目しているが、この城も海に近く街道の要衝であったことから御座所の可能性が高いという。御座所には兵糧なども備蓄されていたことから、陸上を軽装で移動していた軍勢はこれらの施設を補給点として十分な食糧補給などを受けながら移動が可能だったのではという話である。


 以上、つまりは秀吉は最初から万全の準備を整えて中国大返しに臨んでいたということである。ただここまで事前準備が万全となれば「なぜそこまでの準備が必要だったのか」という疑問は出る。確かにこれらのルートは兵糧などの補給にも使えるルートであるので、ある程度は事前に手配はしてあるだろうが、秀吉の様子を見ていると「いつでも引き返せるように」と考えていた節が多分にある。となるとやはり「秀吉は本能寺の変を事前に察していた」という可能性が浮上する。この考えも以前より優勢で、実際に先の大河ドラマ「麒麟がくる」でも、秀吉は光秀の謀反を読んで備えていたという論を採っている。さらにはさらに一歩進んで秀吉自身が光秀が背くように仕向けたという考えもあり、大河ドラマでもその方向に秀吉が動いたことをほのめかしていた。まあ考えられることである。

 以上、秀吉の中国大返し。もっともこれらの手配を秀吉が陣頭に立った行ったというわけでなく、実行したのはこの辺りの地理や事情にも通じていた黒田官兵衛であろう。というわけで、天下取りに必要だったのは、優秀なスタッフを使いこなす力量だったということも言えるわけであるが。

 

忙しい方のための今回の要点

・中国大返しでは1日に20キロ以上移動したことになるが、甲冑や兵糧の運搬は陸路では馬を用いたとしても雨天のぬかるんだ地面の元では困難であると言う結論になった。
・そこで浮上したのは兵糧などの海上輸送説。秀吉は岡山の片上港を拠点としてたという資料も見つかっており、当時秀吉が掌握していた水軍力と、当時の船の運搬力から検証したところ、十分に可能という結論となった。
・また陸路においても信長を迎えるために整備した御座所を活用することで、軽装の兵達が十分に補給を受けながら移動することが可能となっていたと推測される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあとにかく秀吉という人物抜け目がなかったということは間違いない。実際には彼は軍人よりは商売人の方の才が強かった人物なんだろうということは推測がつく。戦国時代でなかったら、商売の方で名を挙げただろうと推測したりする。

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