教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/15 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「日本初のマイカー てんとう虫町をゆく~家族たちの自動車革命~」

スバル360の開発物語

 今回のテーマは自家用車の開発。今でこそ一家に一台、地方などでは一人に一台なんて地域まであるほど普及している自家用車ですが、かつては自動車は一戸建て住宅よりも高くて、超金持ちしか乗れないようなものだった。そんな時に庶民の家族でも乗れるような車を開発しようとした「元航空技術者」達の王道物語です。

f:id:ksagi:20210615222911j:plain

てんとう虫ことスバル360

 技術的課題に必死のアイディアと努力で立ち向かう若き技術者達、そしてそんな彼らの背後にいる家族達の思い・・・ってのが交錯するまさにこの番組の鉄板パターンであり、改めて見返してもグッときます。ある意味で昭和スピリットの権化のようなところがあります。私の当時のアーカイブも触発されてか結構の長文になってます。

     
プラモデルとかが出るぐらい今でも人気です。

 

プロジェクトX 挑戦者たち「日本初のマイカー てんとう虫町をゆく~家族たちの自動車革命~」(2001.5.8)

 昭和28年、まだ日本はモータリゼーションとはほど遠い状態だった。当時の乗用車は一戸建てよりも高く、庶民にとっては高嶺の花だった。それでも財をなした者の間では、ステータスとして外車が飛ぶように売れていた。国産車を作れば儲かる、各社が必至で開発競争を行っていた。

 そんな中、小さなメーカーが自動車開発に取り組んでいた。その会社、富士自動車工業は経営危機に瀕した零細メーカーだった。社運を賭けた開発に取り組んでいたのは、かつて軍用機開発に携わっていた若手技術者7人だった。そして彼らは試作車の製作にまでこぎ着ける。しかしここで思いがけない事態が発生する。メインバンクが「零細メーカーには自動車の量産は不可能」と融資を打ち切ったのだった。永久に日の目を見ることのなくなった試作車を前に、彼らは涙を飲むしかなかった。日本初の国産車は、トヨタのクラウンになる。会社社長などは競ってクラウンを購入し、トヨタは大企業に成長した。

 昭和30年、かつて試作車の開発に携わっていた百瀬晋六は、上司に呼び出されこう告げられる。「このままでは会社が危ない。今度、スクーター会社と合併する。360ccのエンジンならスクーターのラインでも製造できる。」こんな小型エンジンではせいぜい2人乗りの車が限界だと思われたのだが、百瀬はこのエンジンで4人乗りのファミリーカーを作ることを考え、会社の上層部を説得する。

 若手を中心にしたプロジェクトが結成され、百瀬がその指揮をとることになる。百瀬が開発目標に掲げたのは、1.35万円以下の価格で作る。2.悪路を60キロの速度で走る。3.どんな坂でも登る。いずれも当時の技術では到底不可能と思われる課題だった。

 

 百瀬に頼まれ足回りの開発を担当することになった小口芳門は、いきなり困難に直面した。軽自動車は法律によって幅1.3m、全長3m以内という規制があったが、このサイズ内に4人の乗車スペースを確保しようとすると、サスペンションのバネを入れる場所がなくなった。考えた末、彼は「ねじり棒バネ」を採用することを思いつく。しかし試作した車のバネは、日本の悪路で簡単に曲がってしまい元に戻らなかった。

 車体開発の方も難航していた。当初の設計では500キロを越えてしまった。360ccのエンジンで走れるようにするためには、350キロ以下に重量を抑える必要があった。車体の鉄板を薄くするしかないと考えたボディ設計の責任者・室田公三は、0.6ミリの鉄板を取り寄せる。しかし取り寄せた鉄板はペラペラで、落石でペシャンコになりそうだった。室田は強度を上げるために車体に丸みをつけることを思いつく、丸みをつけた鉄板は大幅に強度が上がった。その結果「てんとう虫」と呼ばれる独特のシルエットが出来上がる。

 車体はやっと完成したが、まだバネの問題は解決していなかった。運輸省の走行テストを合格して、市販を始めないと会社の命運も尽きる。しかし試作車のバネは次々と折れていた。しかし小口達は百瀬に差し入れられた外国のバネの専門書からヒントを得て、やっとその問題を解決する。

 完成した車がとうとう運輸省の試験を受けることになる。箱根のテストコースを走りきるという過酷なテスト。百瀬達の開発した車を見た検査官の一人が、「こんな小さな車は危なっかしくて乗りたくない」と言って車を降りてしまう。しかし降りた検査官の代わりに55キロの重りを載せた車は、道ばたでオーバーヒートしている高級外車を後目に、全コースを24分という驚異的タイムで走りきる。

 こうして誕生したスバル360は庶民の手が届く車として大ヒットする。

 

 元飛行機技術者達の執念と(この番組にはこの連中はよく出てきます。新幹線の時もYS-11の時も出てきました。やはり一流の技術者が揃っていたということでしょうね。)家族への思いを絡めた「熱い」ストーリーであった。小口氏の「妻を乗せてやりたい」という思いはなかなか泣かされる。そう言えば小口氏の妻は脊椎カリエスだったということだが、その後どうなったのかが気になるところである。そう言えば、百瀬氏も奥方とご息女は出演されていたが、百瀬氏自身のその後については一切触れていなかったが、どうなったのであろうか。過労死でもしていなければ良いが。

 今回はおじさん族などが感動しそうな内容だが、それよりも少し下の年代に属する私の目から見た場合は少々気になることはある。例えば百瀬の「やる前から出来ないと言うのは、やる気がない証拠だ」という言葉など、いかにもおじさん族は感心しそうだし、現に私の上司などもよく口にする言葉である。ただしこの場合重要なことは、「技術的困難さは努力と発想で解決できる可能性があるが、そもそも理論的に不可能なものは絶対に解決できない」ということである。いくら徹夜で努力しても、飛行機が宇宙を飛ぶことは原理的に不可能なのである。ここのところの区別がついていないと、単なるはた迷惑な精神論になってしまうので、部下を持つ立場にいる人は注意して欲しい。人の上に立つ以上、「挑戦的課題」と「無理難題」はキチンと区別する必要がある。現に私はこれで困らされているのである(「人がやっていないことをするのが研究だ」と西堀栄三郎の言葉を引っぱり出して言われても、原理的に不可能なことが明らかであるものをやるのは単なる馬鹿である。)。ここのところを考えずに、無意味に「エンドレス」なミーティングだけをやられたら、部下はキレるし、会社は能率が上がらなくなって、とんでもないことになる。

 ところで全く関係のない話だが、クボジュンがテントウムシに乗って登場した時、妙に「似合ってるな」と感じたのだが、次に国井雅比古アナが自転車に乗って現れた時は、「似合いすぎている・・・」と呟いてしまった。やはり世代のものなのだろうか(笑)。  

 

 以上が当時の私のアーカイブである。

 技術者冥利につきるような熱い物語に私もかなり触発されているのが分かるが、最後にかなり仕事の愚痴のようなものがついているのは、まさに当時私がもろに直面していた困難な状況の反映である。当時の私はまさに精神論が服を着て歩いているような悪しき昭和上司に振り回されており、その無理難題(原理的な不可能なものを努力で何とかさせようとする)のせいで連日無意味なエンドレス作業に追われてまさにキレる寸前で、当時は「このオッサンを闇討ちしてから辞表でも出そうか」なんて不穏な考えが頭を過ぎるぐらい追い込まれていた。

 その上司については、その内にあまりに弊害が多すぎることから異動になり、おかげで私も事件を起こすことなく終わった。ただそのドタバタの代償として私の社内キャリアは事実上終了するということになったのだが、それはまた別の話。

 ゲストで出演した小口氏が話をする度に思いだして涙ぐむことが多かったが、恐らくその後のいつ頃かは分からないが、病気の奥様は先立たれたのだろうと思われる。彼にとってはてんとう虫は奥様との最後の思い出になったのかもしれない。また百瀬氏が全く登場しないところから見ると、恐らく彼も既にこの時点で亡くなっているのだろう。

 で、今回改めて見てみると、国井アナの自転車が異常に似合っているなと感じたのだが、当時もやっぱりそう感じていたようだ(笑)。とにかくこの人物、ゴム長とかはちまきとかいう類いが異様に似合うという希有なタイプのアナウンサーである。そう言えばこのリストアシリーズの第1回に20年ぶりの国井アナが真っ白になって登場していたのに衝撃を受けたが、よくよく考えるとこの間に私もギリギリ若手研究者から、定年が近づいてきたロートル研究者に変わっているのだからそれもさりなん。もうこの番組は完全に「昭和世代の哀歌」になってきた気配さえある。

 

次回のプロジェクトX

tv.ksagi.work

前回のプロジェクトX

tv.ksagi.work