教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

7/7 BSプレミアム 英雄たちの選択 「日本を襲った"スーパー台風"~今に活かす歴史の教訓~」

 地球温暖化の影響などで災害の激甚化が言われているが、そんな中で過去の災害から教訓を得ようという話。今回は幕末から戦後にかけて3つのスーパー台風に注目している。

詳細な記録の残ったシーボルト台風

 まず最初に登場するのは幕末の1828年に佐賀を中心に甚大な被害を与えた台風である。この台風は別名シーボルト台風とも言われるが、それはオランダ商館のシーボルトが詳細な記録を残していたからである。この台風はそういう点では初めてキチンと観測記録が取られた台風でもあるという。

 この時の記録によると気圧が965hPaと記してあるのだが、実は上陸の2時間前のデータであり、その後に台風がさらに発達したことを考慮すると、中心気圧は910~920hPaという超弩級の台風であったことが推測されるという。最大風速は55m以上だろうという。

 この時に佐賀では多くの石造りの鳥居が吹き倒されたという(161基も倒壊したという)。暴風で多くの住宅が倒れて下敷きになった人が大勢犠牲となったが、さらに被害を増やしたのが高潮だという。高潮は南に向かって開いた湾で被害が大きくなりやすく、有明海はまさにそういう地形であったという(さらに佐賀は平野である)。しかも満潮と重なり4.5メートルの波が一気に田畑を飲み込んだという。佐賀藩の記録では怪我人8853人、死人8225人で内266人が溺死であると言う。実に死者は当時の藩の人口の2%を越えるという。なおさらに堤防の決壊が15393間と実に詳細な記録を残している。

 藩は被災した領民に対して支援を行ったが、復興はなかなか進まなかったという。当時藩主になったばかりの鍋島直正は、自ら藩の復興に取り組み、粗衣粗食令で贅沢を禁じ自ら粗食を通したという。そして藩役人の1/3を整理し、新たに産業を興すなどに取り組んで9年以上かけて財政再建を行ったという。この時に近代技術の導入などの取り組みも行い、これが結果として佐賀が幕末の雄藩になるきっかけとなったという。災害からの復興のために劇的な改革に取り組み、それが逆に国力を増すことにつながったのだという。

 直正が優秀だったと言えるが、直正一人で出来るわけではない。実際に佐賀は非常に詳細な記録を残しており、つまりはそれだけのことができる役人が存在していたということになる。そしてそれだけ詳細なデータを残しているから、後の災害復興にも参考になることになったという。この辺りは、データはまともに取らない上に捏造するような現政府なんかとは比較にならない優秀さである。世襲の藩主でもこれだけできるのに、今の世襲の馬鹿ボン政治家と、自称叩き上げの総理ときたら・・・。

 

避難の判断が命運を分けた室戸台風

 次は1934年の室戸台風。死者・行方不明者3060人という大被害を出した巨大台風だが、最大瞬間風速は60メートルという観測史上最大の記録が残っている。木造校舎の倒壊で多くの生徒や教師が犠牲になっているのが一つの特徴であると言う。京都では32校が倒壊、12校が死者と負傷者を出したという。死傷者の有無を分けた要素は何か。それは被害の早さであると言う。

 台風はちょうど8時過ぎぐらいに京都を直撃し、急激に風が強くなったという。8時10分~15分ぐらいに非難の連絡が来て避難出来た学校では犠牲者はいないが、避難指示が8時20分以降になった学校では避難途中に建物が倒壊して犠牲者が出るということになったという。多くの学校が8時30分頃に倒壊しているという。

 犠牲者の多かった淳和小学校では1年生200人以上が校舎の下敷きとなり、児童31人と教師1人が亡くなっている。授業の途中に避難指示が出たが避難の最中に校舎が倒壊したのだという。当時は校内放送がないので、避難の連絡が行き届かないうちに校舎が倒壊してしまったのだという。

 犠牲者を出さなかった桃山中学校では、主席教諭が直ちに避難を判断して生徒を避難させた後で校舎が倒壊し、犠牲者を出さずに済んだのだという。数分の差であったという。今でもその教訓を伝えるための碑が建てられているという。なおこの台風の後に学校の校舎の安全基準が定められ、鉄筋コンクリートに変更されることになったという。

 この災害の教訓は避難の判断は数分を争うというものである。なお大阪の場合は京都よりも早かったので、登校時間に当たってしまい、何も対策の取りようのないまま多くの児童が犠牲になったという。

 

ハザードマップが活かされていなかった伊勢湾台風

 最後は死者・行方不明者5098人を出した1959年の伊勢湾台風である。この台風の最も大きな被害は高潮であった。この時の名古屋港の潮位は5.31メートルという観測史上最大のものとなったという。伊勢湾の港湾部一体が水没し、特に名古屋市南区は1417人という最大の犠牲者を出した

 当時の家庭の情報源はラジオであったが、停電のためにラジオは聴けない状態になってしまったという。その状態で高潮が町を襲ったのだという。しかも浸水が退くのにも非常に長い時間を要したという。この原因はこの地域はいわゆるゼロメートル地帯であったことだという。地下水くみ上げで地盤沈下が起こったのだが、そのまま宅地開発が進んだのだという。新興住宅地なので誰も災害体験がなかったことも被害を大きくしたという。

 しかし実はこの水害は予測されていたのだという。事前にこの辺りの土地は建設省による水害地形分類図で浸水の危険地域と指摘されていた。実際にこの図の浸水予想地域と実際の被災地域は完全に重なるという。この地図は愛知県の土木課に送られたが、実際に対策がなされることはなかったのだという。

 この地図が教訓となって後に土地条件図が作成されるようになり、これが今日のハザードマップとなったという。


 以上、巨大台風の教訓とのことだが、我々が出来る対応としては、事前に避難場所や経路などを調べて備えておくこと、もしもの際は迅速な判断と行動を行うことぐらいしかない。減災の備えや災害復興については政府の対応如何なんだが、残念ながら今の自分達の利権だけを最優先して国民には自助を要求するやらずぶったくりの政府ではどうにもならないだろう。ハッキリ言って、今の政府を何とかすることが最大の防災対策である。

 

忙しい方のための今回の要点

・幕末のシーボルト台風は初めて詳細の記録の残った台風である。それによると勢力は910~920hPa、最大風速は55メートル以上と推測される。
・強風で多くの家屋が倒壊したが、さらに高潮が甚大な被害をもたらした。佐賀藩では領民の急さに取り組んだが藩財政が破綻、藩主の鍋島直正が自ら粗衣粗食令を出して藩の財政の建て直しに取り組んで、9年がかりで財政を立て直した。
・その過程で近代技術の導入などにも取り組み、結果としてこれが切っ掛けに佐賀は幕末の雄藩に加わることになる。
・室戸台風では多くの児童が校舎倒壊の下敷きとなって死傷した。運命を分けたのはほんの数分の避難の判断の差だという。迅速な判断が命を救うという教訓となっている。
・伊勢湾台風ではゼロメートル地帯が高潮の浸水で甚大な被害を出した。しかしこの浸水は事前に建設省の水害地形分類図で予測されていたのだが、そのデータが防災に活かされることはなかった。この水害地形分類図が発展したのが現代のハザードマップだという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・防災については堤防建設などのハードの部分がありますが、現在はこのハードの部分が限界に来つつあるので、ソフトの部分でどう対応するかという話です。しかし庶民がいくら頑張ってたところで上があれでは・・・。

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