教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/13 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「誕生!人の目を持つ夢のカメラ~オートフォーカスカメラ 14年目の逆転劇」

オートフォーカスカメラ開発の物語

 今回はオートフォーカスカメラ(いわゆるジャスピンコニカ)の開発だが、この回が放送されたのは2000.8.29とのことだが、私のアーカイブをひっくり返してみると、8/22と9/5は記載があるのだが、なぜかこの回は記載がない。しかも番組を今回見たところ内容に記憶がないということから、恐らく当時何らかの事情で見そびれたのであろうと推測出来る(録画の失敗だろうか?)。と言うわけで今回は書き下ろしである。

 

夢のカメラの開発に挑む

 昭和30年、戦後復興もなり余裕が出て来た日本の庶民にとって、憧れの機械がカメラだった。月給1ヶ月分もかかる高価な機械であったが、皆が家族の記録を残すためにこぞって購入した。細かい機械をギッシリと詰め込むカメラ製造はまさに日本のお家芸であり、やがて日本のカメラは世界を席巻することとなった。そんな時、西ドイツのケルンで行われたカメラショーでキヤノンの試作品が注目浴びることになる。それは自動焦点カメラだった。まだまだピント合わせの速度も遅く、大きくて実用性はなかったが、それでも新たな時代の到来を感じさせるものだった。オートフォーカスは夢のカメラとして世界中が開発に挑んでいた。

 一人の技術者がこのオートフォーカスに生涯を捧げることになる。百瀬治彦、長野のリンゴ農家に生まれ、6才で父を亡くして20才離れた兄に養われた。子供の頃から物作りが得意だった百瀬に兄は技術者の道を勧め、工業高校の学費を工面した。そして百瀬がカメラ技術者になる道を選んだ時、必ず最後までやり通せと送り出したのだった。

 百瀬は老舗のカメラメーカーである小西六に入社した。粘り強い仕事ぶりで評価された百瀬はオートフォーカスの開発に挑戦したいと願い出る。会社は20万円の予算を与えて百瀬の一人での開発が始まる。焦点合わせを0.1秒で行う必要があった。様々な文献を読み漁って挑戦を行ったが難問であった。

 

リストラの嵐が吹き荒れる中での孤独な開発

 しかし昭和40年代に小西六の業績は急激に悪化して、カメラ部門は大幅に整理されて百瀬にも異動が打診されるが、百瀬はそれを拒んでオートフォーカスの研究に没入する。そんな百瀬の上司として内田康男が部長として赴任してくる。内田は百瀬の人事考課を見て驚く。異動を拒んでひたすらオートフォーカスにのめり込む百瀬の評価は最低であった。内田は百瀬の技術者としての将来を考え、別のテーマを行うことを勧めるが百瀬は頑としてそれを拒む。しかしこの年、百瀬の研究がついに打ち切られる。この時内田は、百瀬に会社には極秘の闇研を持ちかける。百瀬は昼間は別の仕事をして、夜はひたすらオートフォーカスの研究にのめり込んだ。研究費は内田が苦労して工面した。闇研は3年に及んだ。

 昭和48年夏についに試作機が完成する。0.1秒でピントを合わせる性能を有してはいたが、試作機は従来のカメラの前に巨大で重たいレンズを搭載した形になり、重量は2キロ以上と実用性は皆無だった。

 

アメリカでのモジュール開発で事態が急展開し始める

 昭和50年、小西六はストロボを内蔵した小型カメラを開発して大ヒット商品となる。200万台を売り上げて社内は沸いた。一方、百瀬の研究は袋小路に入り込んでいて焦りが募る。さらにそこで衝撃の知らせが飛びこんでくる。アメリカで被写体との距離を検知する小型モジュールが開発されたという知らせだった。原理は百瀬のものと同じだったが、半導体技術を使用して2センチ四方にまとめてあった。

 製造元のハネウェルと接触した内田は、既に世界のカメラメーカー13社が契約して、内7社は日本の競合メーカーであることを知って愕然とする。内田は契約金5万ドルを出してもらうように社長と掛け合うが、そこでオートフォーカスを小型カメラに搭載し、それを世界で最初に商品化することを条件にされる。非常に高いハードルだった。

 昭和51年1月、内田は百瀬を核に技術者10人を集めて背水の陣でプロジェクトチームを結成する。その中の一人、飯島弥一はストロボ内蔵小型カメラを開発した設計屋で突っ込み屋の異名をもっていた。百瀬はモジュールとカメラを接続する実験を毎晩遅くまで繰り返していた。しかしこの時の百瀬は家庭の問題を抱えていた。先天的に心臓に病気を持っていた息子が心臓手術に成功しないと助からないと言われていた。やがて息子は手術のために入院。百瀬は不安を振り払うように研究に没入する。

 

試作機は出来上がったが問題が発生する

 一方、突っ込み屋の飯島は設計に悪戦苦闘していた。0.1ミリ単位で部品を削り、半年後に従来のストロボ内蔵コンパクトカメラとほとんど変わらない大きさの試作機を作り上げる。

 メンバーは遊園地に繰り出して家族の写真を撮りまくる。300枚以上撮影された写真は直ちに現像されてチェックされた。しかし写った写真のほとんどはピントがボケていた。この結果にメンバーは愕然とする。

 昭和52年の夏に百瀬と内田はアメリカに飛ぶ。モジュールの改良をハネウェル社に依頼するためだった。実験の結果、光の状況によっては正確な距離が測れない欠点が見つかっていた。しかしハネウェル社はその欠点を認めなかった。それでも百瀬と内田は「我々は最も優れたオートフォーカスカメラを作りたい」と必死に食い下がった。ハネウェルの開発者もその熱意に押されて改良を約束する。

 

必死の改良作業で完成にこぎ着ける

 この頃、競合メーカーも試作機を次々と発表し始めていた内田は焦る。しかも組立をしている工場から、部品が複雑すぎて生産体制が組めないとの知らせが届く。プロジェクトは4ヶ月かけた設計を最初から見直すことにする。連日作業は深夜にまで及び、残業は200時間を越えた。あまりにひどすぎる勤務状態に組合から内田は改善を迫られる。内田はメンバーに次の日曜日は必ず休むように伝えるが、当日になるとほとんどのメンバーが出社して作業に打ち込んでいた。1ヶ月後に新たな設計図が完成する。そして生産ラインが動き始める。また改良したモジュールがハネウェルから届く。百瀬はそこにさらにピントの精度を上げる工夫を加える。

 最終試作機のテストは設計の一人の久家隆男が買って出る。6才の息子を連れ出すと走り回らせて写真を撮る。カメラは見事に息子の生き生きした姿を映し出していた。世界初のオートフォーカスカメラが完成した。昭和52年9月にこのカメラの記者発表がなされる。当日、山梨の工場にいたメンバーは帰宅途中の駅で新聞を購入する。するとカメラの記事は社会面に7段ぶち抜きで扱われ、カメラ革命が起こると掲載されていた。若手の太田武は感動で身震いしたという。そして百瀬の元には故郷の兄貴から祝いの電報が届いた。さらに百瀬の息子の手術も成功、百瀬の不安はすべて払拭される。家に戻った息子を百瀬は自分が作ったカメラで撮影する。その時に7才の息子も初めて百瀬の写真を撮影する。

 

 まさに執念の技術者の物語。社内でいくら冷や飯を食らわせられようが、最後までオートフォーカスにこだわって完成にまでこぎ着けた百瀬の技術者魂がすごいし、それを支援した内田の上司としての才覚も見事である。もっともモジュールが登場した時に、小西六がヒット商品のおかげで業績が良かったのは幸いだったろう。もし不振のどん底だったら、社長も問答無用で「金はない」で終わりだったろう。小型軽量化を考えると回路の半導体での制作は必須だったのだが、小西六にはその技術が無かったのだろうと考えられる。この頃ぐらいから家電製品も半導体が必須となってくるので、今まで物作りでは通用しなくなって来だした頃である。

 なお百瀬氏は最後までカメラら技術者として全うしたようだが、番組にゲストで登場した時の肩書きが元主任課員となっているところを見ると、恐らく最後まで現場にいた人だろうと推測出来る。そもそも本人が管理職向きではない上に、学歴的にも高卒で、しかも散々人事に最低点をつけられた人物だから、最終的には部長とかにはならなかったようである。確かに部長とかになるような人だと、途中から技術開発でなくてプロジェクトリーダーの方に転身している。出世よりも技術に固執した人物なんだろうことが覗える。

 ちなみに心臓手術を無事に成功させた息子さんは当時30才でスーパーの商品管理の仕事をしているとのことだった。今だともう50才か。技術者として全うした父を尊敬すると言っていたが、尊敬出来る父がいるというのはある意味でうらやましいことである。ちなみに百瀬氏の兄は彼から贈られたカメラで曽孫の撮影をしていたが、恐らく年齢的にもう存命はしていないだろう(何しろ百瀬氏よりもさらに20歳上らしいから)。見事に大仕事を成し遂げた弟は彼にとっても誇りであったようである。

 

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