教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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7/19 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「なるほど!平安時代 平安女子の恋愛術」

平安女子の出会いの場は後宮?

 平安貴族と言えば和歌と恋だけをしていたというイメージがあるが、そんな平安時代の貴族の女性の恋愛事情について紹介する。

 平安時代の貴族は男性は11才から20才で元服、女性は12才から15才で裳着という成人式を行ったという。当時は成人したら結婚だったのだが、裳着を済ませた女性は自由な外出や男性と顔を合わせることが出来なかったので、結婚相手は媒(つまりは仲人)を通して見つけるのが普通だったという。

 自ら男性を探すことが出来なかった平安女子が憧れた出会いの場が後宮だったという。後宮は天皇の后などが過ごす場所で、江戸時代の大奥のようなものであるが、大奥と違って男子禁制ではなかったので、殿中に参内が許されている男性が出入りしたという。こういう貴族は位が高い人たちばかりだから、そんな人たちと結婚出来れば玉の輿というわけである。さらに場合によっては天皇と結婚という可能性もあった。

 

嫉妬渦巻く女の園

 ただし天皇の后となると周囲の嫉妬も半端なく、源氏物語でも帝の子を産んだ桐壺が周りから陰湿にいじめられる描写がある。一条天皇の后だった中宮定子もかなりの嫌がらせを受け、ストレスのせいか早死にしたという。

 当時の美人の条件はまず容姿だが、黒い美しい髪がポイントの一つだったので、付け髪なんかもされていたという。次が和歌の才。和歌は教養を示すものとして重視されていたという。

 ただ美人で頭が良いとなると周りの嫉妬に晒されることになる。彰子の中宮となった紫式部もその教養の高さのために嫉妬から陰湿ないじめを受け、5ヶ月ぐらい引きこもりになってしまったという。その後、紫式部は馬鹿のふりをすることで切り抜けたという。教養を鼻にかけないおっとりした人というキャラを作ったのだとか。

 

平安女子の恋の駆け引き

 当時の男女の恋愛ツールは手紙であった。このやりとりもルールがあって、特に重視されるのは和歌であった。まずは男性側から女性に手紙を出す。女性は最初はつれない返事をし、男性はさらに何度も手紙を出す。当時は男性が女性の家に入る通い婚だったので、経済力のある女性を探すというのは男性にとって非常に重要なのであったという。そうして様々な手紙を女性に送り、女性の方は少しでも気持ちがあれば3~4回手紙を受け取ってから返事をする。この女性の手紙もセンスを問われ、センスが悪ければ今度は男性の側に去られることもあるという。だからこの返信は親や女房が代筆する場合もあったという。親にすれば娘が良い相手と結びつけば自らの栄達につながるので必死なのだという。

 平安女子の恋の駆け引きについては、平安文学を研究して「平安女子はみんな必死でこいしてた」を執筆したイザベラ・ディオニシオ氏によると、20世紀発見された「とはずがたり」という鎌倉時代の宮中の秘め事が書かれた幻の古典に赤裸々に記されているという。作者の二条という女房が記した自らの恋愛体験の本らしい。上皇のお手つきとなりながら西園寺実兼と逢瀬を重ねるというやり手だったらしい。センスの良い手紙のやりとりなどが記されているという。思わせぶりに焦らせるのがテクニックだとか。

     

 

平安一のモテ女と結婚の作法

 平安時代のモテ女と言えば和泉式部だという。絶世の美女で和歌も出来た彼女は、20才で結婚するものの、彼女に言い寄ってくる男性は後を絶たなかったという。冷泉天皇の第三皇子である為尊親王から求愛され、その恋愛模様を日記に記しているという。しかし為尊親王は病で亡くなってしまい、次は為尊親王の弟である敦道親王から求愛され宮に迎えられるのだが、またもや先立たれてしまったという。モテ女であるが薄幸であったようである。その後、彰子の女房となり紫式部の同僚となったのだが、どうも紫式部は和泉式部のことをよろしく思っていなかったらしい。恋愛遍歴のほとんどない彼女から見れば和泉式部は尻軽女だったんだろう。

 なお当時の結婚のルールもややこしかったらしい。女性がブロポーズを受け入れると男性が女性の元を訪れてようやく対面するわけだが、この後に親の同意を得て結婚式を上げる必要があった。結婚が決まると陰陽師に日程を決めてもらい、男性が恋文を送って夜11時から翌朝5時までの間に訪問、翌朝は男性は自宅に戻ると手紙を書くのだという。この後朝の文は早ければ早いほど愛情が深いという意味にもなったという。男性は4日間女性の元に通い続け、これでようやく結婚成立、三日目の夜には三日夜餅の儀といって備えられた餅を二人で食べるのだとか。またこの夜には露顕の式という披露宴も催されたという。

 

 平安時代の恋愛事情であるが、とにかく顔も見ずに恋愛が始まることから、女性にとっては評判というのが大事だったと聞く。つまりは「どこどこの誰々は非常に美人である」とかいう噂を流すらしい。しかし実際には男の方も、いざご対面したら「こんなはずでは」というようなことも少なくなかったろうと思われる。特に当時は薄暗い屋敷に忍んでいくのだから、翌朝になるとビックリなんてこともあったのでは。まあそのようなエピソードは平安でなくても現代でも聞くが(笑)。現代は、翌朝になって化粧の取れた相手を見てビックリというパターンがあるとか(笑)。まあ今時は特殊メイクレベルのメイクが確かにありますから。

 

忙しい方のための今回の要点

・平安時代の女性は自ら男性を探すことが出来なかったので、高貴な男性が出入りする後宮は憧れの出会いの場所であったという。またうまくすれば天皇の后になれる可能性もあった。
・ただし同時に後宮は女性の嫉妬の渦巻く場でもあり、イジメのストレスで早死にした者も少なくないとか。紫式部も嫉妬からイジメに遭い、馬鹿のふりをすることで切り抜けたという。
・当時の男女の出会いに重要なツールは手紙であり、そのセンスを問われた。最初は男性から手紙を送り、何度かやりとりを繰り返しながら気持ちを盛り上げたという。その恋の駆け引きなどについて赤裸々に記された書なども見つかっているとのこと。
・和泉式部は美貌と和歌の才から平安一のモテ女だったという。もっとも相手に先立たれるなど薄幸な面もあったという。後に彰子の中宮として紫式部の同僚となったが、紫式部は彼女のことを嫌っていた様子があるという。
・平安時代は結婚についても様々なややこしい儀式があった模様。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・本当に平安貴族って和歌と恋しかしてなかったイメージがありますが、こういうのを聞いていると本当にそうだったと思える(笑)。和歌は今のSNSみたいなものという話があったことから、和泉式部はインフルエンサーだったわけか。それともYouTubeのアイドル? 確かに同人作家の紫式部とはあまり相性が良くなさそうだ(笑)。

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