教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/2 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「天下一の傾奇者!前田慶次の真実」

天下の傾奇者・前田慶次の真実

 「花の慶次」の主人公として人気を博した天下の傾奇者・前田慶次であるが、実在していたことは知られているが、その実態はよく知られていない。その前田慶次の真相に迫るというのが今回。

     
人気コミックの主人公になってます

 晩年上杉家に仕えた前田慶次のものと伝わる具足が米沢に残っているが、それによると確かに傾奇者・前田慶次らしく派手な甲冑であるが、慶次の身長はおよそ160センチ(平均身長155センチの時代なので一応は大柄)程度と言うことで漫画で描かれている197センチの巨漢とはイメージが違うという。まさ慶次が詠んだ歌も残されており、和歌の嗜みなどもある将であったことが覗えるという。

 そもそも前田慶次に関するエピソードは死後数十年後の江戸時代の小説の類いがほとんどなので、そもそも信憑性の怪しいものが多いらしい。

 

前田家の養子となるが、信長のせいで家督を継げず

 前田慶次はまず生年自体がハッキリしていない。残っている資料でも9年も食い違っていたりするという。1533年の生まれだとすると、漫画の若々しいイメージに反し、信長よりも1つ年上で秀吉よりも4つ年上、さらには叔父である前田利家よりも4つ年上というかなりの年配になるという。

 本名は前田慶次郎利益だが、実は他にも利太、利大、利貞、利卓などの呼び名が登場するという。生まれは滝川氏で滝川一益の甥に当たるとされているが、これも諸説ありで、歴史に始めて登場するのは荒子城の前田利久の養子となった時だという。ゆくゆくは前田家の後継ぎとなるはずだったが、それが織田信長の介入でつぶれる。信長は側近であった前田利家を後継ぎにするように命じたという。そして利家が前田家の当主となると慶次は利久と共に荒子城を出ることになる。この後、十数年消息は不明であるという。

 

前田家に復帰したものの出奔して浪人となる

 織田信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉についた前田利家は加賀の領主となる。この時に慶次は父の利久と共に前田家に戻り、利家から七千石を与えられた利久から五千石を与えられた慶次は阿尾城の城主となったと言われている。慶次はここで武功を上げていき、小田原攻めにも参戦したという。しかし前田家を出奔してしまう。

 これについては細かく干渉してくる利家と性格が合わなかったのが原因と言われている。また父である利久が亡くなったことでこれで前田家にいる理由がないと感じたのではと言う。この時に利家を水風呂に入れてから出奔したというエピソードが伝えられている(漫画にも当然登場しているが、信憑性自体は怪しい)。この頃、60才ぐらいだという。

 

上杉景勝に仕えて慶長出羽合戦で大活躍する

 その後は京都で浪人生活を送っていたとされるが、この時の傾奇者としてのエピソードがいろいろと残っているが、これらについては信憑性は怪しい。秀吉の前に髷を横に結った姿で現れたというエピソードなどもある。それが嘘か真は分からないが、秀吉に気に入られて傾奇御免状(要するにどこで傾いても良いという免状)を与えたという。なお慶次は武人だけでなく、文人としても知られていたという。1598年に慶次は上杉景勝に仕えることになる。それは直江兼続と京で知り合って兼続によって口説かれたと言われている。

 その慶次の最後の戦いが、関ヶ原の合戦に付随して発生した慶長出羽合戦である。最上領を攻略した上杉軍の中で慶次は獅子奮迅の活躍をし、28もの首級を上げたという。長谷堂城攻略では5人で数百人と対峙したとされるが、関ヶ原での西軍の敗北を受けて撤退となった時には、直江軍で殿として激戦したという。その後上杉家は大幅に減らされることとなり、慶次には多くの誘いがかかったと言うが、慶次はわずか500石で上杉家に残ったという。

 晩年の慶次は米沢の堂森に庵を設けてそこで悠々自適で70才で亡くなるまでを過ごしたという。今まで墓所は不明であったのだが、最近になって前田慶次の墓所ではという場所が見つかったという。

 

 自由奔放にしかし筋を通しながら生きた人物像が浮かび上がる。真偽不明のエピソードが多数ある点など、まさに創作の主人公にピッタリであり、彼を漫画の主人公に起用したというのは実に上手い選択であったと感じられる。

 ちなみにこの時代には慶次以外にも傾奇者と言われる者は多くいたのであるが、結局は最終的に息苦しい江戸幕府の体制に取り込まれてしまって、傾いてはいられなくなった者が大半である。そういう中では慶次は最後まで自分の信念を通したとも言えるだろう。

 なお傾奇者が横行した当時の雰囲気をイメージ出来る作品としては、前田慶次は登場しないが、古田織部を主人公とした「へうげもの」を私はお勧めする。

     
古田織部が主人公の「へうげもの」

 

忙しい方のための今回の要点

・傾奇者として知られる前田慶次だが、実在は確かであるがその詳細は不明の点が多い。
・滝川一益の甥として生まれ、前田利久の養子となったとされている。しかし信長の介入で前田家の家督は利家が継ぐこととなり、父と共に前田家を出ている。
・年齢も不詳であり、一説によると信長、秀吉、利家よりも年上であったとされる。
・信長の死後に利家が加賀の大名となると父と共に前田家に復帰するが、父の死後に利家と性格が合わなかったこともあって出奔、京都で浪人暮らしをしていたという。
・この時に様々なエピソードが残っているが、後世の作り話である可能性が高い。
・1598年、慶次は直江兼続の推薦で上杉景勝に仕えることとなり、慶長出羽合戦では獅子奮迅の活躍をしている。
・しかし関ヶ原での西軍の敗北で上杉家は大幅減封、しかし慶次はわずか500石で上杉家に残り、70才でこの世を去るまで悠々自適の生活を送ったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・謎の多い人物ですが、特に謎なのが年齢です。この番組で取り上げていた生年だと、慶次は60才で慶長出羽合戦で28もの首級を上げていることになるんですよね。当時の60才は隠居どころかヨボヨボの老人であることを考えると、あまりに慶次が化け物過ぎる。宮本武蔵でも50過ぎてから島原の合戦に参戦して、一揆勢の投石で怪我をして全く活躍出来てませんから。それを考えるともうちょっと若かったのではという気はしますね。

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