教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

8/10 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「翼はよみがえった 後編 YS-11開発」

 先週に続いての熱い物語の後編です。後を託された技術者達が奮戦することになります。

 

YS-11の製造に取りかかる

 昭和34年5月29日、YS-11を開発する会社・日本航空機製造が日本政府の出資で設立される。土井達侍によって鍛えられた若者たちが中心に設計チームは70人に膨れあがる。2年後の初飛行が目標であった。しかしここで5人の侍が身を退くことを決める。60才を目前にしていた彼等は、飛行機を作り上げる激務にもう耐える力はないと感じていた。そして彼等は三菱の技術部長になっていた東條輝雄に後を託す。東條はゼロ戦の開発にも携わっており能力では群を抜く技術者だった。航空機のライセンス生産の現場を任されるようになっていた東條は彼我の技術差を痛感しており、国産航空機の製造は困難であると考えていたが、出向の命を受けて新会社の設計部長に就任して若手技術者70人を率いることになる。指導者を失って動揺する若手達に東條は「この飛行機は5人の侍達が設計したが、この飛行機がちゃんとしたものになるかの責任は俺とお前達だぞ。真剣になってやれ。」と語る。若手達は奮い立つ。

 設計はこれからが本番。若手達は米軍基地が公開されると飛んでいって、物差しを持って機体を調べ回って写真を撮りまくるものだから米兵に連行されたが、それでも懲りずに何度も見に行った。そしてそれらをヒントに図面を引きまくる。そして図面が完成すると全員で議論をする東條のミッドナイトミーティングが始まる。東條はその図面に至った思考の過程を徹底的に説明させ、なかなかサインをもらうことは出来なかった。連夜の会議で音を上げた若手が酔っ払って深夜に東條の家に押しかけたが、東條は徹夜で図面に目を通していた。昭和35年暮、予定より1年遅れて1000枚に及ぶすべての設計図が完成する。

 

ようやく初飛行に成功するが、そこで最大の試練が

 昭和36年6月、YS-11の組立が始まる。作業は急ピッチで進められ、東條はYS-11を世界一安全な旅客機にするべく部品の性能試験を徹底して繰り返し、アメリカの基準の3倍をクリアさせた。鳥との衝突実験のためにはニワトリの調達まで行った。昭和37年夏、最終組立てに入り、作業は徹夜で続けられた。若手は心配と自信の両方を抱えていた。

 昭和37年8月30日、名古屋空港でYS-11の初飛行が行われる。200人を越える報道陣が集まり、生中継も行われる。30人の技術者はテレビで見守る。そして空港には5人の侍達が現れていた。その中でYS-11は大空に飛び立った。YS-11は伊勢湾上空を1時間飛行した。初飛行を見届けると東條は三菱に帰ることにする。

 しかしYS-11に最大の試練が訪れる。海外輸出のためにFAAの審査を受けることになったのだが、その時に審査官から現在の飛行特性では合格は出来ないと告げられたのだ。問題となったのは横方向の安定性が悪く、着陸時に横風に吹かれると極めて危険であること、さらに方向舵が重くて効きにくいことで、次の試験までに改善出来ないと旅客機としては認められないと言われる。

 

若手達の苦闘と東條の復帰

 方向舵の問題は想像以上に深刻だった。低速飛行の試験のために片方のエンジンを手動で止め、直線飛行のために方向舵を踏み込むと方向舵が効かずに機体はバランスを崩してきりもみ飛行に入り、危うく墜落するところであった。プロジェクトは行き詰まる。若者たちは万策詰まって東條の元を訪れる。東條は再び設計部長に舞い戻る。

 東條のミッドナイトミーティングが再び始まった。まず横滑りの原因は主翼の上反角が小さすぎることだと判明した。主翼を一から作り直すしか手立てはないと思われたが、ふらりと現れた土井が、主翼を根元から取り外してくさび形の金具を入れるというとんでもないアイディアを提案する。若手は反対したが東條はゴーサインを出す。そして実際に飛ぶと横滑りは見事になくなった。若手達は舌を巻くが、引退した恩師に助けられたことは情けなく、方向舵の問題は自分達だけで解決すると決意する。

 鳥養鶴雄がダメかもしれないがと一つのアイディアを持ってくる。それはスプリングタブという装置を方向舵につけて空気抵抗を減らすというアイディアだった。磯崎弘毅が計算を重ね、2ヶ月後図面が出来上がり、東條の元に持ち込まれる。

 昭和39年5月28日、FAAの審査官が再び来日してテストが行われる。テストはいきなり一番厳しい片発離陸が行われることとなった。これは離陸直前に片側のエンジンを停止するテストで、そのまま離陸出来るかはまさに方向舵の性能にかかっていた。審査官が乗り込んで試験が開始される。鳥養は震えながらそのテストを見守っていた。YS-11は鮮やかに片発離陸に成功する。審査官は若手に歩み寄ると「YS-11は素晴らしい飛行機だ」と告げる。日本の翼が甦った瞬間だった。

 

 と、こうやって開発されたYS-11なんだが、結局はビジネス的には失敗に終わり、YS-11も随分昔に生産が打ち切られてしまい、この番組の時点ではまだYS-11は多くが現役だったが、現在は現役機は全くなくなったはずである。

 その後、国産旅客機の開発は長年中止されたままであったが、現在三菱が再び国産旅客機の開発に取り組んでいるが、この国産旅客機は諸々のトラブルで難航中で予定よりも大幅に遅れており、成功するかどうかは疑問視もされている。再び日本の翼が大空に舞い上がることが可能となるかどうかの正念場を迎えている。

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