教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/16 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「影の太閤!秀吉の弟・豊臣秀長」

秀吉の弟で名補佐役だった秀長

 豊臣秀吉の天下統一の影には名サポート役として弟の秀長の存在が大きかったと言われている。実際に秀長が生きていたなら豊臣の天下は続き、家康の天下もなかったのではとも言われている。その秀長の生涯。

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豊臣秀長

 秀長は秀吉よりも3最年下の秀吉に取っては唯一の男兄弟だった。なお秀長は秀吉の異父弟とも言われているようだが、歴史学者の小和田氏は秀吉と父が同じだと見ている。秀吉が継父との折り合いが悪く、10才ぐらいで家を飛び出した後、秀長は百姓として実家を支えていた。それが秀吉が20歳ぐらいになった頃に突然フラッと戻ってくると、秀長に自分の家臣として武士になって欲しいと頼み込む。成り上がりで腹心を持たなかった秀吉としては、どうしても信頼できる臣下が欲しかったのだという。秀長は自分は百姓で武士になって戦をするのは不向きだと断るが、秀吉の説得で承諾することになる。

 

秀吉の出世に大きく貢献する

 秀長は木下小一郎長秀と名乗り、出世を目指して驀進する秀吉の元で、臣下の足軽達などに目を配ってまとめるなどの裏方の仕事を真面目にこなしていたという。その秀長の初陣は秀吉に仕えるようになっての3年目、秀吉が美濃の鵜沼城の攻略で危機に陥った時に、足軽衆を率いて駆けつけて秀吉を救出したという。

 さらに秀長は秀吉の墨俣城築城でも蜂須賀小六を説得する時に協力している。言葉巧みに勧誘する秀吉に対して協力を渋っていた小六に対し、秀長が誠実な言葉で協力を要請したことで小六は秀吉の依頼を引き受けることになったという。秀長の温厚で落ち着いた性格は相手に信頼感を与えるものであったのだという。こうして秀吉は墨俣築城に成功し、出世の大きな足がかりとなる。そして蜂須賀小六は秀吉の重臣となる。

 さらに信長の朝倉攻めの際には浅井長政の裏切りで全軍撤退となった時、殿を務めた秀吉軍の最後尾を担当したのが秀長であるという。非常に危険性の高い任務であったが、秀長は秀吉の「信長が逃げる4時間ほどを稼いだらそれ以上は戦わずに撤退しろ」という命を守り、敵軍を食い止めて時間を稼いだ上で無事に帰還を遂げたのである。

 

秀吉の腹心として全幅の信頼をおかれ、臣下からも慕われる

 この功もあって秀吉は北近江十二万石の大名となる。その後も各地で秀吉が転戦する中、長浜城を守ったのが秀長である。また秀長自身も8500石を与えられて独自の家臣団を持つようになり、その中には今まで多くの主君を渡り歩いてきた藤堂高虎などもいた。結局高虎は秀長が死ぬまで仕え続けたことから、やはり秀長もかなりの人たらしであったのではとのことである(人たらしというか、家臣としては信頼できる主君だったのだろう)。なお戦国時代では兄弟で家督争いが起こることがよくあったが、秀長は常に一歩退いてあくまでサポートに徹しており、秀吉は秀長には全幅の信頼を置いていたようである。

 秀吉が柴田勝家と共に上杉謙信と戦うことになった時は、作戦の対立で秀吉が怒って帰還してしまい、その後柴田勝家は手取川で大敗する。信長は激怒して秀吉は処刑されかねない状態であり、家臣と共に秀吉が信長の元に謝罪に出向く。この時、もしかすると自分達も処刑されかねないと控え室でピリピリする蜂須賀小六達に対し、秀長は扇子を扇いで一同に風を送り、これで面々も我に返ったという。常に冷静沈着な秀長は周りからは頼もしい人物であったろう。

 また秀吉の中国攻めでは、秀長は但馬を攻めて生野銀山を手に入れることを秀吉に進言している。そして自ら竹田城を攻略して生野銀山を手に入れると、丹波の農民達の一揆を制圧後、降伏した農民達にこの銀の粒を与えたという。秀長に感謝した農民達は秀忠に加勢する者も出たという。金の価値にその使い方、さらには農民の心もよく知っている秀忠らしい行動である。

 

秀吉の天下取りに裏で活躍する

 賤ヶ岳の合戦では、美濃で挙兵した織田信孝の攻略に半数の兵を率いて秀吉が美濃に向かった時、残った軍を率いていた秀長は柴田軍の佐久間盛政が最前線の中川清秀に攻撃をかけた時、あえて見殺しにする非情の決断をしている。これは佐久間信盛を自軍の奥にまで引き込む作戦であったという。実際に美濃からとんぼ返りしてきた秀吉軍によって、柴田軍は壊滅することになる。なおこの後、味方を見殺しにした秀長を秀吉は叱責したとのことだが、実際はこれは秀吉の代わりに自ら泥を被ったのだろうと思われる。

 さらに四国攻めでは病の秀吉の代わりに秀長が総大将として出陣する。しかし長宗我部軍の猛反撃で苦戦に陥る。見かねた秀吉が自ら出陣しようとするが、秀長はそれを押しとどめると50日で長宗我部を降伏させて四国を平定する。この功で秀長はそれまで和泉・紀伊に大和を加えた100万石の大大名となる。なお大和は寺社の勢力の強い難地であったために、その平定を秀長に託したのだという。秀長は検地によって寺社の寺領を削減したり、武器を差し出させたりする一方で、社殿の造営や寄進を行うなどの硬軟入り混ぜた政策で大和の体制を刷新する。さらには大和郡山城の城下町整備も行っている。同業者を集めた13の町・箱本十三町を作っての住民自治制度は、これは後まで住民自治のモデルケースとなったという。

 そして秀吉が関白に就任すると、秀忠も参議・正三位に昇進する。そして九州の大友宗麟が島津義久に圧迫されて秀吉に助けを求めてきたことから、いよいよ九州征伐が始まる。なおこの頃は秀吉政権の外交は秀長が内政は千利休が担当という役割となっていたという。そして総勢18万の大軍での九州攻めで島津は降伏する。

 

しかし52才で死去、これが後の豊臣政権の命運を定める

 秀吉の天下統一の大詰めは関東の北条攻めであるが、この戦いの時には秀長は病を発していて参加していない。心配した秀吉が小田原への途上で見舞いに立ち寄ったという。秀吉は北条を降伏させて天下統一がなるが、間もなく秀長は52才でこの世を去る。質素倹約で通した秀長は大量の金銀を豊臣政権のために蓄財していたという。

 結局秀長の死が豊臣政権の転換点となる。この後、秀吉は千利休に切腹を命じると、さらには関白にした養子の秀次を一族郎党処刑する。さらには朝鮮出兵を行うことで政権に大ダメージを与えてしまい、結局はその後の家康の台頭につながることとなってしまう。

 

秀長は秀吉にとって全幅の信頼を置ける腹心というだけでなく、豊臣政権の良心というか、ストッパーのような役割も果たしていたようである。実際に秀長を失ってからの秀吉の暴走はひどすぎる。権力者の孤独に取り憑かれた秀吉に取って、条件抜きで信頼できる秀長の存在は貴重だったのだろう。その秀長を失ったことで精神のタガが外れてしまったのではないかとまで思わせる秀吉の迷走ぶりである。

 歴史上その他で「もしあの人が生きていたら」と言われる人物は何人かいるが(「銀河英雄伝説」のキルヒアイスみたいなものですな)、豊臣秀長はその最たるものであろうと思われる。この時代で他にそのように惜しまれる人物といえば武田信玄の弟の義信ぐらいだろうか。共にもし彼等がもっと長生きしていたら、家の滅亡はなかったのではないかというのは歴史マニアなら思いを巡らせるところである。

 秀長は黒田官兵衛のような知謀溢れるというタイプではないが、揺るぎない忠誠心で実直に周りに目を配りながらやるべきことを黙々とこなしたというタイプであり、まさに理想的なナンバー2である。トップに立つ者なから誰でもこういう補佐役が欲しいと思うところであろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・豊臣秀長は秀吉の3才下の弟であり、秀吉が20歳の頃に秀吉に請われて秀吉の家臣として武士になる。
・その後、その実直な人柄で蜂須賀小六を説得したり、朝倉攻めでの撤退戦では殿の殿を務めるなど、要所要所で秀吉に取って重要な働きをなす。
・賤ヶ岳の合戦ではあえて配下の中川清秀を見捨てるなど、秀吉の勝利のためには非情の決断を行い、秀吉の代わりに泥を被りもしている。
・秀長は秀吉から全幅の信頼を寄せられ、秀吉政権のナンバー2として周囲からも絶大な信頼を寄せられる存在となる。
・しかし秀吉の小田原城攻めの頃に病に倒れ、秀吉の勝利を見てから間もなく52才でこの世を去る。
・秀長の死後、秀吉は千利休に切腹を命じたり、関白秀次を一族郎党皆殺しにするなど暴走が目立つようになり、ついには無謀な朝鮮出兵で政権に大きなダメージを残し、結果としてそれが家康の天下につながることとなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・秀長はとにかく「地味な人」というのが現実です。それは自分が秀吉よりも目立たないように意図的にそうしていたという部分もあるでしょう。本当に絵に描いたような補佐役になります。こういう人材は実に得がたいです。

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