教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/1 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」

 今やカメラの主流となって、フィルムカメラを駆逐してしまったデジタルカメラ。そのデジタルカメラの開発物語である。これがまたいかにも技術者の執念を思わせる番組で、そういう世界と関係のある者なら涙無しには見られないという代物である。この回は私も鮮烈に記憶に残っている回で、アーカイブの記事もあるのでそれを転載。

 

 

プロジェクトX「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」(2002.7.2放送)

 日本中がバブルに踊り、「濡れ手に粟」が時代のキーワードとなって、物作りが軽視されていた昭和60年、カシオ計算機の若手技術者・末高弘之は電子カメラの開発に着手する。勤めていたカメラ会社が倒産してカシオに入社した川上悦郎を始めとする若手のプロジェクトが結成される。昭和62年、末高らは電子カメラの開発に成功、カシオを始めとして8社が一斉に参入する。これは売れると判断したカシオも2万台の大量生産に踏み切る。

 しかし発売から2ヶ月後、営業の担当者に呼び出された末高は信じられないことを告げられる。それは電子カメラが全く売れないという事実だった。この年にソニーから8ミリビデオが発売され、電子カメラは「動かないビデオ」としか消費者に見られなかったのだ。市場は一気に萎み、プロジェクトメンバーの倉橋成樹は秋葉原の店頭で、自分でカメラを販売することを命じられる。7割引の捨て値でも売れないカメラ、カシオはカメラ部門からの撤退を決定し、末高らは開発部門からはずされ左遷される。

 切ない話であるが、確かにこの時の電子カメラは商品として魅力がないのは確かである。ビデオ並に大きいのに動かない。これでは売れなかったのは当たり前ではある。ただ、これは末高らが作った商品がまずかったというよりも、ソニーの技術が二歩ほど先を行っていたと言うべきだと思うが。

 

 

 不遇の境遇に甘んじていた末高の元に一本の呼び出しの電話がかかる。出向いた末高を待っていたのは、25社の電子カメラ開発者達であった。彼らは皆不遇の中でカメラの開発を諦めていなかった。彼らは会社の壁を越えての勉強会を結成する。末高は「もう一度やる」との決心を固める。末高は川上ら5人のメンバーに呼びかけ、本社に黙っての闇研究を開始する。失敗すれば処分は免れない究極の賭だった。

 末高が言っていた「社内の人間よりも社外の人間の方が話が通じた」という言葉は私の胸にもズキンと突き刺さった。私もかなりマイナーな分野の研究に携わっており、社内でも冷遇されている身分である。これはどこの会社でも似たようなもので、確かに社内の人間よりも、社外で同じ仕事をしている人間の方が話が通じるのである。このエピソードを見た時、私は思わず「これは○化学○○○会(私が入っている同業者の勉強会)のことか?」と呟いてしまった。末高らのあまりに不遇な処遇は、どうも私自身の境遇とも重なるところが多すぎて、不覚にも涙が流れてしまった。


 電子カメラが生き残るには小型化しかない。そう考えた末高はカメラからモーターやフロッピーを省いてメモリー化することを思いつく。部品は社内から密かに調達した。しかし問題が発生した。どうしも購入する必要のある部品があるのだが、予算がなかった。困った末高らに事務担当の村上雅美が救いの手をさしのべる。彼女は「画像処理の研究」との口実をつけ、末高らの伝票を処理する。

 闇研で問題になるのは、予算の問題です。しかし「画像処理の研究」という口実をつけたにしても、よくぞ左遷の身の末高らが物品の購入が出来たものである。この辺りは、まだこの時代がバブルを引きずっていたことが大きいように思える。多分今の不景気の時代なら、末高らがどう口実をつけたところで予算はおりないだろうし、それどころか既にリストラされている可能性も高いように思える。

 

 

 平成3年春、試作機が完成する。しかし安物部品を寄せ集めた試作機はアナログカメラよりもはるかに大きいとんでもない代物だった。小型化するには半導体の開発が必要であるが、2000万の予算が必要だった。闇プロジェクトには到底そんな予算がなかった。しかもこの試作機は消費電力が莫大で手で持てないほど発熱し、ファインダーの部分に冷却器をつけざるを得なくなる。村上はこの試作機に「重子」と「熱子」とあだ名を付ける。

 近くの公園で村上をモデルにしての実験が開始された。ファインダーの代わりにやむを得ずモニターをつなぐ。シャッターが切られる。その時、モデルになっていた村上が驚きの声を上げた「なに、これ、楽しい」。撮った写真がその場でモニターに浮かぶことに、村上は面白さを感じたのだ。失敗から登場したアイディア、末高は商品化を決意する。

 しかしその後、バブルが崩壊、製造業は大打撃を蒙り物は売れなくなる。末高らの夢も打ち砕かれる。

 重子と熱子とはよくもネーミングしたものである。あり合わせの部品で作ったんだから、こうなってしまうのも仕方ないところだろう。しかしここでファインダーを取り除かざるをえなくなったことがケガの功名として、デジカメの新しい用途を生み出すことになるというのが皮肉なところ。しかしこの「撮ったその場ですぐに見れる」という用途が生まれたことで、真にデジカメの存在価値が確立出来たと言えるだろう。最初の電子カメラの失敗は、メーカー側が消費者に効果的な使い方を提案できなかったことにあるのだから、これは実に大きいことである。

 

 

 平成4年、開発費2000万円の捻出に悩んだ末高は、プロジェクトの元メンバーで商品企画部にいた中山仁に相談を持ちかける。彼は目玉商品として売り出していたポケットテレビへの付加機能としてカメラ機能をつけるという口実を考え出し、見事を予算をつけることに成功する。

 回路担当の富田成明は不眠不休でLSIの開発に専念、川上はカメラのレンズ回りを超小型に仕上げる。また秋葉原の電気店の倉橋は、カメラをパソコンにつなげれるようにすることを末高に提案する。平成5年12月、カメラ付ポケットテレビが完成、大きさはビデオカメラの半分以下だった。しかしポケットテレビの競争が激化、価格が低下して、末高らのテレビは価格で競争出来ないことは明らかだった。末高は役員会でとんでもないことを直訴する。彼はテレビ機能をはずしてカメラだけで勝負することを訴えた。社長の樫尾和雄「他のカメラにない用途はあるのか」末高「一つあります。このカメラにはパソコンでも見られるよう、入力用の端子をつけてあります」樫尾「最初からそのつもりだったんだろ。分かった。」 ついにデジタルカメラが商品化された。

 またもこの番組の得意技「現場の独断専行」である。いつも問題の解決を見るのはこのパターンしかないというのは、日本の組織の管理職がいかに無能揃いかを示しているとも言えるだろう。なおカシオの社長は、最終的には末高らの計画にゴーサインを出したのだから、そこらの馬鹿社長よりはずっとマシであるということが言えると思われる。

 

 

 しかし生産台数はわずか500台に押さえられた。このままでは市場が開かないことを懸念した末高は大勝負に出る。ラスベカスで開かれる電気商品の見本市にデジタルカメラを持参し、電気店の担当者達に宣伝して回った。パソコンに写った写真を見た担当者は「グレート」と叫ぶ。このデモは大反響を呼び、発売前から全米で大評判となる。

 平成7年3月、発売開始。恐る恐る電器屋に出向く末高。しかし店頭にデジタルカメラがない。店員に尋ねる末高。「すごい売れ行きでもう商品がありません。」末高らの執念が報われた瞬間だった。

 またも日本人の特質が現れている。日本人は昔から「アメリカで評判になったものには弱い」という性質がある。だから日本で認められない研究者などは、アメリカで学位や賞などを取って帰って来ることになるのである(日本で出世するには実力以外の要素が多すぎる)。そう言えば、青色発光ダイオードの開発者の中村氏も、結局は会社とケンカ別れになってアメリカに渡っている。彼も馬鹿管理職連中に散々仕事を邪魔されて、つくづく嫌になったんだろうな。


 不遇の境遇の中から大ヒット商品を生み出した執念の開発者の物語である。そう言えばカシオのQV-10というカメラは私もよく覚えている。デジカメ初期の機種で、今から思えばおもちゃのような写真しか撮れなかったが、当時は大ヒットした機種である(ちなみに私はQV-20が登場した頃に、フジフィルムの35万画素のカメラを購入した)。

 末高らは不遇の中で開発を諦めずに、最終的には大輪の花を咲かせたというハッピーストーリーになっている。ただこの番組中でも言っていたがこのようなハッピーストーリーは希有な例と言ってよい。いかに多くの開発者が、そのまま日の目を見ずに左遷の境遇を甘んじているか。物作りが軽視されているのは、何もバブルの時代だけでなく、現在でもほとんど変わっていない。人生を要領よく生きたい人は、開発者や研究者などにはなるべきではない。

 

 

 以上、当時のアーカイブから。ちなみにこの当時の私自身も、未だ黎明期の分野の研究に携わっており、その分野の必要性がなかなか認識してもらえず、社内でもかなり冷遇されているという状態で、同じ分野を研究している他社の人間の方が話が通じるという状態だったので、実に身に染みています。そのことがどうしても文章の端々に滲んでしまっている。

 そして現在だが、長年の積み上げによってその分野は今では社内でも必要な分野として認識されるには至った。そうして私も末高のように努力が実って安泰・・・とは残念ながらならなかった。結局は私自身の力不足もあり、分野自体は比較的メジャーにはなったのだが、そうなると優秀な若手が次々と入社してきて、昔から携わってきた私のような古手は一気にロートル技術者になってしまったというのが実情。結局は技術者は現場に固執していては処世術としては失敗で、どこかでマネージメントの方に転身しないといけないのだが、私はそれをし損なったということである。

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