明治以降の慶喜
今回は渋沢栄一絡みで、明治以降の徳川慶喜の姿について。慶喜はその晩年をどのように過ごしたのか。
今日に慶喜のことが残っているのは渋沢栄一が晩年に慶喜の伝記を編纂したから。渋沢にしたら恩のある慶喜の真意が歪められて後の世に残るということを懸念したという。実際に渋沢が伝記を残さなかったら、慶喜は薩長が倒幕に立ち上がったらビビって政権を放り出したヘタレな馬鹿殿としか後世に残らなかったろう(渋沢が自伝を残したにもかかわらず、未だに「どうも真意の分かりにくい人」と言われているのに)。そうしたら今頃は、難局になると「ポンポン痛い」とか言って逃げ出す無責任なリーダーのことを「慶喜」なんて言われている可能性さえある。
まさに大河が今幕府が倒れたところですが、パリから帰国した栄一は慶喜が謹慎していた駿府に駆けつけます。この時、慶喜は元将軍とは思えないような生活をしていたという。この時の慶喜は所領を没収され、徳川宗家は70万石の一大名に格下げされた上に、徳川宗家の当主は田安家からの養子の6才の家達で、慶喜はその養父として家達の家禄の一部を分けてもらって生活しているという状態であった。この時に渋沢は「なんであんなことしたんですか」という類いのことを質問したようだが、それに対して慶喜は返答しなかったという。この時はまだ戊辰戦争のまっただ中で、慶喜は新政府から監視されて警戒されている状態なので、政治に関連した迂闊なことは話せなかったのだという。渋沢は慶喜を救うために駿府に移り住み、商法会所という株式会社を設立して、徳川家の金銭のやりくりに奔走する。
謹慎は解かれたものの口の重かった慶喜
明治2年9月に慶喜の謹慎が解かれる(五稜郭が落ちて戊辰戦争が終わった)が、ここには新政府の思惑もあったという。と言うのは新政府の深刻な人材不足。結局は政治を回すには幕府の人材を取り込む必要があるのだが、そのためには慶喜をあまりに冷遇していたら協力を得るのが困難と考えたのだという。と言うわけで慶喜が大政奉還した時の「どうせ新政府と言っても政治なんてできる人材がいないから、幕府にまた政治を戻してくるに違いない」という読みはある意味で正しかったことになる。
この時に渋沢も新政府から指名される。渋沢は嫌だったらしいが、それだと慶喜が有能な人材を隠蔽していると言われると説得されて、民部省租税正に就任する。
謹慎が解けた慶喜は駿府に屋敷を構えて、江戸から正室と二人の側室を呼び寄せ、側室との間に10男11女を儲けたとのことであるが、慶喜は「逞しく育って欲しい」という考えで、彼等を庶民の家に里子に出したという(生活費がなかったのではという気もするのだが)。
明治4年7月になると廃藩置県が強行され、静岡には新たに中央から県知事が派遣され、家達は東京に移り住んで華族として家禄をもらうことになったという。結局慶喜の生活費は家達から送金されることになったのだが、数ヶ月おきに2千円(今の価値で4千万円ほど)が送金されたが、従者を相当数抱えていた慶喜の家計は逼迫したという。そこで渋沢が慶喜の金を株に投資して増やすなど腐心したという。慶喜はこの頃になっても政治については言わず語らずだったという。
政治からは離れて趣味に生きる慶喜
渋沢は慶喜の名誉回復に奔走していたが、官位を剥奪されていた慶喜がようやく従四位に、そして明治13年には将軍時代と同じ正二位になる。また徳川宗家からの送金も毎月1000円に増えて生活も安定してくる。回りから「東京に移って、帝に叙位のお礼に伺えば」と勧められるのだが、慶喜は「朝敵になった私が帝にお目にかかるのは畏れ多い」と明治天皇との謁見は頑なに拒んだという。
そして静岡で慶喜は趣味に没頭する生活をする。油絵に始まり、釣りに弓術、狩猟など多岐にわたったという。また運動のためにと自転車を取り寄せて乗り回していたという。政治的野心がないということを示すと共に、もしかすると初めて自分の生活を楽しむ気になったのではという。そして49歳の時に将軍時代よりも上の従一位になる。その一方で母や娘を失うなどの不幸もあったという。
この頃の慶喜はコーヒーを飲みながらビリヤードに興じるなどと言うこともあったという。そんな中で慶喜がかなり力を入れた趣味が写真。当時のカメラは扱いが難しいものだったが、慶喜は本格的な撮影技術を学んで、自ら現像などを行っていたという。景色や人々の日常風景などを撮影していたという。
慶喜の名誉回復のためにも伝記を残したいと思っていた渋沢は盟友・福地源一郎の協力を得て計画を進める。しかし慶喜は「世間に知られるのは好ましくない」と拒絶する。渋沢は存命中には絶対公開しないからと慶喜を説得、死後相当期間をおいてから出版するということになる。しかしその後、福地が代議士になったことによって多忙になり作業は進まず、さらに福地が病死してしまったことで完全に暗礁に乗り上げる。
ついに明治天皇との謁見を果たして完全に名誉回復する
明治30年11月、慶喜が60才で東京に移り住むことを決意する。この理由についてはようやく慶喜が天皇に叙位の謝意を告げる気になったこと、また子供たちが結婚して東京に住むようになって寂しくなったこと、病気になったことを考えたら医療が整った東京の方が良いと考えたのだという。慶喜が巣鴨に移り住むと渋沢はそこに通うと共に、慶喜のさらなる名誉回復のために奔走した。そして明治31年、慶喜と明治天皇の謁見が実現する。この後、明治天皇は伊藤博文に「今日でやっと今までの罪滅ぼしが出来た」と語ったという。明治天皇は慶喜から天下を奪ったという意識があったのだという。これで慶喜の朝敵の汚名は完全に雪がれたことになる。そして慶喜は華族に授爵する。実はこの時に西郷隆盛の嫡男の西郷寅太朗も侯爵に授爵しており、明治新政府にとって課題であった西郷隆盛の名誉回復の大義名分にしたのではと言う。さらに慶喜は貴族院の終身議員としての議席を与えられるなどの完全な名誉回復をなした。なお華族になったことで、慶喜は家達に養われている立場から完全に自立できたことになる。
華族になった慶喜は華族内で写真のサークル活動などを行う。華族が結成したサークルの写真集などに慶喜の写真が掲載されたりしたという。また名誉回復で頑なだった慶喜の心がほぐれたのか、慶喜が渋沢による伝記編纂に協力するようになり、渋沢は慶喜に歴史を語ってもらう昔夢会を結成して証言を取ることになった。またこの頃には世間の慶喜に対する評価も肯定的に変わってきていた頃であるという。慶喜の証言によると、政権返上の理由については佐幕派と討幕派の争いを終息させるためだったという。また大政奉還の時には江戸から老中が訪れて責められたりもしたという。
小石川に売った慶喜は74才で家督を譲り、その後の77才で肺炎でこの世を去ったという。慶喜の伝記はその4年後に完成したという。
慶喜は聡明な人物だっただけに「欧米列強よりもこんなに遅れているのに、日本国内で争っている場合ではない」という意識がかなり強かったのではないかと思われる。実際のところあまり戦乱が長引くと、諸外国が介入してくる可能性も否定は出来なかった。
しかし悲しいかな幕府内で慶喜の力が弱く、統制が効かなかったというところがかなり大きいと思う。そもそも腹心の部下が極めて少ないのに、信頼していた側近は次々と身内のテロで暗殺されるし、最後には嫌気がさしてしまったのではという気がする。そんなに幕府がダメだというなら、じゃあお前らがやってみろって感覚もあったかも。
忙しい方のための今回の要点
・明治になって徳川家は所領大半を奪われて、慶喜は謹慎の上に養子からの仕送りで生活する状態であった。そこでパリから帰国した渋沢は徳川家の金策のために奔走する。
・同時に渋沢は慶喜の名誉回復のためにも動いていた。やがて慶喜は謹慎も解かれ、以前に奪われた官位も新たに叙位されるなど名誉回復が始まったが、叙位の礼を述べるために明治天皇に会われてはとの話には頑なに拒絶していた。
・静岡での慶喜は様々な趣味に興じると共に、政治的な話は避けて野心を持っていないことを示していた。
・渋沢は慶喜の名誉回復のために伝記を編纂することを計画するが、慶喜はそれを拒絶、慶喜の死後に時間を置いてから出版するということで何とか説得する。
・60歳になった慶喜は、心境の変化か東京に移り住むと共についに明治天皇と対面する。そしてしばし歓談してようやくわだかまりが解消する。その後、慶喜は華族に叙爵する。なおこれは西郷隆盛の名誉回復のために西郷の嫡男の寅太朗に叙爵させたいという明治政府の意図もあったという。
・これで慶喜の心もほぐれたのか、渋沢の伝記編纂に積極的に協力するようになる。また華族となったことで華族内での写真サークルで活動するなどのネットワークも広がる。
・そして慶喜は77歳で肺炎でこの世を去る。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・渋沢にしたら慶喜は恩人ですからね。なんせあの厨二丸出しのテロ計画で追われていた時に、拾ってくれたのが慶喜ですから。その上にパリにまで行かせてもらい、それが渋沢にとっては後のキャリアに決定的になった。そりゃ、足を向けて寝られません。
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