教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/8 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」(2002年9月3日放送)

日本人ビジネスマンに立ちはだかる「日本語の壁」を打破せよ

 戦後、日本のビジネスが発展していく中、多くの日本人ビジネスマンの前に「日本語の壁」が立ちはだかることになった。欧米では26文字のアルファベットですべての文章が打てるので、誰もがタイプライターでビジネス文書を作成していた。しかし日本では契約書などを作成しようとすると、原稿を手書きで書いてから、和文タイピストに作成を依頼するしかなかった。和文タイプは特殊技能であるので扱える者が限られる上に、そもそも2000文字以上の活字を拾っていく構造のために、とにかく時間がかかる。文書作成がネックとなって残業ばかりが増えていた。

 アメリカのベル研究所でさえ成し遂げられなかった郵便番号の自動読み取り機を開発した男、東芝の森健一。彼はある日、取引先の毎日新聞の弓場晋太郎に呼び出される。新聞社の現場では記者が次々と送ってくる原稿を活字にするのに苦労しているのだった。弓場は漢字テレックス鍵盤を導入したが、200の鍵盤に12の文字が記されている漢字テレックスは熟練工でも1分間に60文字が限界の上に誤字が続出し、弓場は記者達から怒鳴られていた。訴えを聞いた森は「私が何とかします」と答える。

 森は町工場の長男で、父は物作りにプライドを持つ人物であった。口癖は「物作りは難しいものほど挑戦する価値がある」だった。その父の言葉を森は思う。そして3ヶ月後、試作機を作り上げる。2500字の文字を5ミリ角のマス目にビッシリと詰め、ペンで触るだけで活字になるものだった。これなら記者が直接活字に出来ると毎日新聞に持ち込むが、試してみた弓場はガッカリしながら「漢字が小さすぎて正確に指せない。使い物にならないよ。」と答える。自信を砕かれた森は研究所所長の澤崎憲一の元に向かい、新聞社の人を助けるために日本語のタイプライター作りに専念したいと訴える。澤崎は「日本語に手を焼いているのは新聞社だけでない」と目が輝く。和文タイプが必要な日本では文書作成の費用が欧米の4倍もかかっていたのだ。森はこの仕事にかけたいと考える。

 

 

3人のプロジェクトで日本語の壁に挑む

 澤崎の許可を得て、入社3年目の河田勉と新人の天野真家に声をかける。こうして3人のプロジェクトが始まる。アルファベットはわずか26文字、これに対して日本語は5万の漢字に48字のひらがなの組み合わせ、そのままでは勝負にならない。この時に森は「変換」という言葉が頭に浮かぶ。ひらがなで入力して漢字に変換すると入力が高速化するはずだ。しかし辞書を見ると同音異義語が無数にあることに唖然とする。また文章の切れ目が変わると意味が全く変わる問題もあった(「きょうはいしゃにいった」→「今日歯医者に行った」「今日は医者に行った」)。国語学者を訪ねると「日本語の文法なんて学者の数だけある。変換など無理な話だ。」と言われた。ちなみにこの漢字変換はNHKの研究所も挑戦したものの頓挫したそうだ。

 河田は辞書の作成を依頼される。国語辞典からよく使われる言葉を選ぼうとしたが、ビジネス用語が一切無いことに気づく。これではビジネスの現場では使えない。そこで手紙の文例集や新聞記事にかじりついて単語を抽出する。天野はひらがなから漢字への変換を模索していたが、同音異義語でとんでもない変換が相次いでいた。そこで好きな歌の歌詞をコンピューターに入力してみることを繰り返し、いくつかの法則を見つけた。例えば「ど」と発音する漢字は多数あるが、前に数字が付くの「度」だけだ。同様に「こうあん」の後に「する」が付くのは「考案」だけ。このように文字を絞っていく。しかし正しく変換できるのは80%止まりだった。悩みを聞いた森はじっと考え、学習機能を付けることを提案する。以前に使った言葉を優先にすることで変換率は向上した。

 

 

製品化に際しての大問題発生、その時土壇場の工場が動く

 昭和52年春、ワード・プロセッサーと名付けられた機械の製品化が動き始める。しかし辞書のデータを記憶装置に入れるとタンス4つ分の大きさになり、価格は2000万円と予測された。このままでは絶対に売れない。その時に森達の研究室に必死の形相で飛びこんできた男たちがいた。青梅工場の開発部長の溝口哲也。大型コンピューターを手がけていた青梅工場は、大型コンピューターの売り上げ低迷で撤退が検討されていた。このままでは部下が散り散りになる。溝口は独断で協力を申し出た。そして10名を割き、総勢14人のプロジェクトとなる。

 技術的課題が議論された。タンス4つ分のサイズを事務机1つ分にすれば価格は大幅に抑えられる。また変換率の目標は95%だった。さらに最大の問題は変換スピード。例えば「環境汚染」という言葉を変換するのに20秒もかかってしまった。これを3秒以内にするのが目標となった。そして完成予定を1年ごと定める。

 

 

本社から突きつけられた最後通牒

 しかし半年後、本社から事業部長の都築公男が研究所に乗り込んでくる。商品化を決定する最高責任者である。青梅工場の大型コンピューター撤退を決定した人物でもある。無断で進行しているプロジェクトを知って怒り心頭に発していた。森に対して「日本のタイピストはせいぜい10万人で市場が狭い。開発を中止するべきだ。」と言う。これに対して森は「これは10万人どころか国民全員が使える機械です。」と答える。そこで都築は1ヶ月後にテストで判断するという条件を突きつける。完成予定よりも5ヶ月も早くなったが、森達は受けて立つ。

 青梅の男たちはICを駆使して記憶装置や変換回路をを徹底的に縮小する。天野は最後の課題に取り組んでいた。ひらがなからカタカナへの変換だった。日常使うカタカナは6000あり、これを記憶装置に入れると小型化できない。この時、天野はカタカナキーを使ってカタカナを入力することを思いつく。そしてついに変換率95%を成し遂げる。

 森は都築のテストのために伝票処理の事務員である本多のり子にワープロの操作を覚えることを依頼する。専門のタイピストに頼むよりも、彼女に頼む方が「誰でも使える」というアピールになると考えたのだった。

 テストまで一週間、しかし河田は変換のスピードアップで苦戦していた。「環境汚染」は何度修正しても11秒止まりで目標の3秒には遠く及ばなかった。疲れ果ててボンヤリとテレビのマジックショーを見ていた時に「事前に仕掛ける」ということを思いつく。ひらがなを全部入力し終わってから変換装置を動かすのではなく、「かん」と入力した途端に文字を探し始め、さらに文字が増えるごとに組み合わせを調べていけば選択肢は減少していくと考えた。そしてついに3秒の壁を突破する。

 

 

そして運命のテスト本番

 昭和53年7月、ついに運命のテストの日を迎える。しかし最終調整中に画面が消えてしまう。青ざめる天野と河田。しかし森は「落ち着け。ここまで練り上げた仕事にミスはない。」と一喝する。そして全員で配線を確認したところ、一カ所の接触不良が判明、機械は無事に復帰する。

 そして都築が到着してテストが開始された。緊張みなぎる中で文字入力を行う本多のり子。ビジネス文書が軽快に打ち出されていく。テストは終了、都築は画面を睨んだまま何も言わない。そして1分後、本多に「使い心地はどうだね」と聞く。本多は「面白い機械ですね」と答える。都築は「よし、これでいけ。」と森に告げる。そして昭和54年2月、日本初のワープロが店頭に並ぶ。その後、他社も続々と参入し20年間で3000万台が売れる空前の大ヒットとなる。ビジネスマンの武器、国民商品となる。

 

 

 以上、ワープロの開発物語。ちなみに私が初めてパーソナルワープロを購入したのは大学4年生の時で、エプソンのワードバンクを購入したのを覚えてます。私は卒論をこれで作成しました。私のゼミでは私の年度から全員がワープロで卒論を作成しています。何度も教授の修正が入ってその度に書き換えることになるので、手書きからワープロに変わることによって大幅に効率がアップすることとなりました。

 なおそういうことがあったのに、私が就職した会社は未だに報告書が手書きで作成されておりました。しかもそれを上司が何度も修正するものだから、その度にすべて書き換えになり、一ヶ月分の報告書を書くのに二週間を要するという本末転倒な馬鹿げた事態が発生していました。そこで私はワープロの操作が苦手だと尻込みする上司に対して、強く文書のワープロ化を主張して結局は導入させたことがあります(導入したのは一太郎だった)。考えてみたら、私が勤め先の収益アップに貢献したのはこれが最初で最後かも(笑)。

 私の叔父が行政書士の仕事をしていたことから、文書作成に使用する和文タイプは目にしたことがあるのですが、正直なところこれは機械としてはとても使い物にならないと感じました。実際に叔父もかなり苦労して文書を作成してました。私はその頃から、コンピューターの進歩でいずれ日本語のワープロが登場するということを予測していました。その頃から「変換」という概念は思いついていたような気がする。ちなみに私は子供の頃から並外れた悪筆のために手書き文字が読めたものでなく、このままだったら将来に仕事が出来なくなると、親や教師からペン習字の訓練などを勧められましたが、その度に私は「いずれ文字など自分で書かなくても機械が書いてくれる時代が来る」と主張してそれを拒み続けてました。ギリギリ就職前でそれが実現したことになります。

 なお私は現在は英語が極めて苦手で、それがビジネスマンとして致命的であると言われているのですが、これについては自動翻訳の登場を待っているところです。既に文書の翻訳についてはかなりのレベルのものが登場しており、英文翻訳に関しては論文程度なら読むのに困らないようになってきています。後は音声を変換してくれるようになれば、私の長年の懸案も解決することになる。もっともその頃にはもう既に私はビジネスマンとしてはリタイヤしているだろうが。

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