教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

9/9 BSプレミアム ダークサイドミステリー「美しい処刑人が見たフランス革命 なぜ理想が恐怖に?」

死刑を見続けてきた美しき処刑人サンソン

 処刑人と言えばゴツくて屈強な人物というイメージがあるが、そんなイメージと反して美しい美青年だったのがマリー・アントワネットやロペスピエールなど3000人を処刑したシャルル=アンリ・サンソン。彼は自らが処刑した者達の最後の様子を記録に残したという。近年になってその数奇な人生が演劇や漫画で注目されているという。そのサンソンを通してフランス革命の現実を描く。

 18世紀後半、サンソンは処刑技術を代々伝える一族で、サンソンはパリ高等法院に所属する重罪判決執行人であった。当時の処刑は見せしめの意味でも公開でなされていた。サンソンは当時の庶民の10倍の6000リーブル(日本円で約1200万円)の報酬を得て、パリの一角に屋敷を構えており、家族に加えて助手や見習い30人を養っていた。

 サンソンは法を守る職務としてプライドを持って臨んでいたが、社会の彼に対する視点は冷たいものがあった。27歳の時にはレストランで、容姿端麗なサンソンは公爵夫人のテーブルに招かれるということがあったが、後に彼が死刑執行人であるということを知った公爵夫人が「侮辱された」と訴えたという事件があった。死のイメージがつきまとう死刑執行人は貴族からも庶民からも疎まれていたのだという。サンソンはその裁判で「人を殺すという意味では軍人も同じなのに、自分達だけが不当に差別されている」と論理的に訴えた。しかし裁判の結果は非常に曖昧なまま棚上げしたものに終わってしまったという。

 その23年後、フランス革命が勃発する。50歳になったサンソンは引き続き革命政府の死刑執行人と働き続ける一方で、これで偏見や差別がなくなる社会になることを期待していた。

 

 

サンソンが見たフランス革命の現実

 フランス革命が起こって1ヶ月後、フランスでは画期的な「人間及び市民の権利宣言」が発布される。すべての市民に自由と平等を謳った画期的なもので、今日の民主主義につながる考えである。ここでサンソンは死刑執行人を代表して議会に市民権の要望書を提出する。しかしこれに対する国民議会の対応は曖昧なままに終わったという。

 しかしサンソンを取り巻く状況は変化する。それまで身分によってバラバラだった諸刑法が斬首に統一される。これにサンソンは従来の剣による斬首が増えると失敗も増えて受刑者を苦しめてしまうと反対する。そしてより正確に苦しまずに処刑する方法が求められた結果、ギロチンが登場することになる。この効率的に確実に処刑を行う装置の登場は革命に高揚した市民達の感情を刺激し、その感情はやがてルイ16世に向かうことになる。

 国王を裁判にかけるかが問題となり、国民議会は意見が分かれる。そもそも法に照らし合わせるとルイ16世は法に反してはいない。国王を守ろうとする王党派と急進派が激しく対立し、死刑反対334票に対し、死刑賛成387票でルイの死刑が決定される。ロペスピエールらの「国王であること自体が罪である」という法を超越した主張が通ったのである。

 ルイの処刑はサンソンに託されることになった。法を守って処刑することを信条としていたサンソンにとっては、何ら法を犯したわけでないルイを処刑することはとんでもないことだった。元国王の処刑を妨害する動きがあるということを耳にしていたサンソンは、できる限り処刑を引き伸ばすが、結局は誰もルイを救おうとはしなかった。内心では国王の処刑に反対しているのに自らは動こうとしない民衆に、サンソンは落胆した心情を記録に残しているという。

 

 

混乱の中で進んでいく恐怖政治

 革命が進む共にフランスは国の内外に争いを抱えるようになる。外ではオーストリアやイギリスなどの周辺の王国が脅威を感じてフランスに介入してくる。さらに内部では王党派の大規模な蜂起が発生する。追い詰められた革命政府は革命にとって脅威となると見なした人物を次々と処刑し、サンソンの仕事も急激に増加していく。処刑されたのは王妃マリーアントワネットを初めとして、戦闘で撤退を決めた将軍まで多岐に渡った。革命の敵と判断された者は次々とサンソンの手に委ねられたのである。サンソンは彼等が死に向かう様子を日記に書き留めている。

 一方で革命を進める国民公会では議員達の対立が強まっていく。革命を主導したジロンド派を批判するロペスピエールが主導する山岳派の力が増してくる。清廉潔白の人と言われた彼はジロンド派を追及し、その追放を決意する。そしてジロンド派議員29人を逮捕する。しかしこれに反発したジロンド派議員が各地で蜂起、内乱が激化することになる。悪化する事態に対して議会は「反革命容疑者法」を制定し、自由の敵と見なされると直ちに逮捕されるということになる。そうして逮捕されると多くが死刑に処されることになる。いわゆる恐怖政治である。こうしてジロンド派議員21名が処刑されることになる。彼等は共和国万歳と唱えながら処刑されることになった。死への感覚が麻痺していく人々に対してサンソンは大きな悲しみを抱いていく。

 国民公会はジロンド派を粛正したが、それでも国の内外の混乱は続いた。ロペスピエールはさらに政治の引き締めを進めるため「政治に重要なのは徳だが、恐怖のない徳は無力である」との演説を行う。ロペスピールによる恐怖による粛正が進むと共に、サンソンの日記に記される人名も増えていく。

 

 

恐怖政治の果てにロペスピエール自身も自滅する

 ロペスピエールの粛正はついには彼の盟友にも及ぶ、ジョルジュ・ダントンやカミーユ・デムーランなどの寛容派がロペスピエールを諫めようとするが、彼等は逮捕されて処刑される。これでロペスピエールを止められる者はいなくなった。彼等の動きに期待していたサンソンにもこれは大きな絶望だった。

 やがてロペスピエールに対する暗殺事件が多発するようになる。自分が倒れると革命が終わると追い詰められたロペスピエールはついに「プレリアール22日法」という証人尋問や弁論を廃止して陪審員の心証で直ちに判決が出され、刑罰はすへで死刑に統一するという究極の法律を出してしまう。サンソンの日記にはこれから連日2桁の名前が並ぶことになるという。サンソンは精神的に追い込まれていく。処刑された中には逮捕者の愛人の召使いの少女までがいたという。この10日後、サンソンの日記は説明なく途切れた。そして1ヶ月後、反ロペスピエール派が決起してロペスピエールはサンソンによって処刑されることになる。ロペスピエールに与した者も次々と処刑される。サンソンは56歳で死刑執行人を引退、67歳でこの世を去る。

 

 

 死刑執行人として職務を果たしながら、葛藤に苦しむサンソンの心情がビンビンと伝わってくる。法を守るために人々から忌み嫌われる仕事を行っていると考えていたサンソンが、革命の混乱の中で法も何もあったものでない死刑を執行させられることになり、疑問を感じつつもそれを表に出すことが出来ないという強烈な苦悩が感じられる。

 これこそがまさに革命の暴走というものであり、ロペスピエール自身は崇高な理念を持った高潔な人物だったようだが、彼自身の正義感が完全に暴走してしまった結果が恐怖政治である。自分の理想と現実との折り合いがうまくつけられなかった典型であり、崇高な理想家ほどこの落とし穴に落ちやすい。最後の頃になってくると、自分は革命の成功のためにすべてを捧げているのに、回りの者がよってたかって革命をつぶしにかかっていると見えたであろう。

 この手の人物は革命初期の理念を掲げる段には必要なのだが、実際に革命がなって現実的な政治に挑むとなると、そこでは清濁併せ呑む度量を持つ者が必要となる。もっとも気をつけなければいけないのは、そこで台頭してくるのが理想とズレすぎている者なら、結果としてはスターリンのような別の恐怖政治になってしまう。崇高な理念と現実に折り合いをつけると言うことは実際には非常に難しいものである。中国で共産主義革命を果たした毛沢東なども、人民共和国を成立させた後の後半生では明らかにおかしなことになってしまっている。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・ルイ16世やロペスピエールなど3000人を処刑したシャルル=アンリ・サンソンは、その最期の姿などの記録を日記に残している。
・死に纏わる者として貴族からも庶民からも疎まれていたサンソンは、フランス革命によって自らの境遇も救われるのではないかと期待するのだが、その期待は打ち砕かれることになる。
・革命後は彼は革命政府の処刑人として職務を遂行するが、そこに送られてくる受刑者は法的根拠の怪しい者達ばかりだった。
・処刑が斬首に統一されたことに、処刑の失敗が増えて受刑者を不当に苦しめてしまうことになるとサンソンは反対する。その結果、確実に死刑を執行できるギロチンが導入される。
・サンソンはルイ16世の処刑も執行する。彼は国王は何ら法に反してはいないと考えており、彼の処刑を妨害する者が現れることを期待して処刑を引き伸ばすが、結果として処刑は執行されてしまう。
・革命後のフランスは周辺王国の介入と内部での王党派の蜂起などの混乱に巻き込まれることになる。そんな中でロペスピエールはそれまで革命を主導したジロンド派を批判、彼等の多くを処刑することになる。
・やがてロペスピエールはさらに暴走、ついには自らの盟友達からも処刑者が出てくる。サンソンは急増していく受刑者の記録を残している。
・しかしついにサンソンの精神に限界が来たのか、その日記は突然に途絶えることになる。そして1ヶ月後、反ロペスピエール派の蜂起でロペスピエールは斬首させられることになり、その刑を執行したのもサンソンだった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・サンソンは自ら処刑を執行するのでなく、処刑のために使用される斧だったという話がありましたが、明らかに刑に疑問を感じつつも、それを執行せざるを得ない葛藤というのが強く滲んでいました。確かに罪人の愛人の召使いにまで刑が及ぶとなればそれはもう滅茶苦茶です。しかしサンソンにそれを止める権限はないし、そんなことを使用すれば今度は自分がギロチンにかかる羽目になるのが見えてますから。
・まあこれも民主主義の産みの苦しみなんですよね。結局はこの後のフランスは何度も反動を繰り返しながら今日に至り、その過程で民主主義というものも練られて今日に至ると言うことです。当然ながら民主主義も万能なわけではなく、民主的政権だったワイマール共和国から、ナチスのファシズム政権が成立した過程などはまだまだ研究の余地があります。

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