教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/13 BSプレミアム 英雄たちの選択 「家康が夢見た"開国"」

日本を巡る西欧列強の状況

 江戸時代と言えば「鎖国」の世の中として知られている。その鎖国体制は家康の時代から徐々に始まったとされ、その流れから家康は鎖国主義者だったと考えられることが多い。しかし実はそうではなくて、家康は元々はむしろ積極貿易主義者であったのではという話。では徳川幕府がどうして鎖国の方向に向かったか。

 16世紀後半の日本を取り巻く状況はアジア進出を図っていた西欧列強の動向にもろに影響を受けている。当時はスペインとポルトガルがアジアで覇権を争っていた時代で、共に日本との貿易を進めていた。またこれらのカトリック国では貿易のみならずキリスト教の布教にも熱心であった。これに対してイギリス、オランダと言ったプロテスタントの国が台頭し始めて、アジア地域でも徐々にカトリック国の利権を侵害し始めていたのがこの時代である。

 当時の日本は戦国時代であり、ヨーロッパから入ってきた鉄砲は瞬く間に合戦のあり方を変えた。信長や秀吉などの権力者は西欧との貿易を優先して、キリスト教の布教は大目に見ていた。一方のヨーロッパ諸国についての魅力は日本の銀であった。当時の国際通貨は銀であり、日本から産出する良質の銀は非常に魅力的であった。

 

 

実は積極的に海外との貿易を進めていた家康

 やがて権力者は家康となるが、それでも西欧との貿易は続けられた。当時の日本は火薬の原料を始め、多くを輸入に頼っていた。また西国大名は独自に貿易を行って利益を得ていた。家康はそれに対抗してフィリピンやメキシコに使節を送るなど積極的に貿易を目指しているという。

 家康には西欧諸国を競わせることで輸入品の価格も下がって日本に得になるという考えもあったという。そんな時に日本に流れ着いたのがウィリアム・アダムズであった。家康は自ら彼を尋問したという。そこで家康はアダムズから西欧の事情を聞き出し、カトリック国とプロテスタント国の対立などの状況を把握したという。またイギリス人であるアダムズが宗教抜きで貿易を望んでいることから、これは家康にとっては好都合であったという。当時はスペイン国王からキリスト教の布教の許可を強く求められていたが、それに対しては家康は「日本は神の国だから」と拒絶しており、キリスト教の布教はあくまで黙認にとどめていたという。

 アダムズは家康の命で日本初の西洋式の帆船、サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号を造船し、その功で三浦に領地をもらい、三浦按針と名乗ることになる。当時、高級絹織物の原料として不可欠の生糸は主に中国から輸入していたが、それはスペインとイエズス会に独占されており、価格が高騰することもあった。そこで家康は生糸を輸入するためのパートナーを探し、競争させることで価格を低下させることを考えたという。そんな家康が目をつけたのがオランダである。そしてアダムズをオランダとの交渉に当たらせる。そしてオランダ使節団と面会することになった。

 しかしスペインが妨害する。イエズス会は「オランダ人は反逆者であり海賊であり、日本にとって重要な貿易を破壊する」と家康に訴えた。だが家康はこの訴えを退ける。そしてオランダに自由な貿易を許す朱印状を発行する。そしてオランダは平戸に商館を開設する。家康は世界に門戸を開いたのである。

 

 

キリスト教徒の危険性を感じてキリスト教を排除する

 家康はスペイン領メキシコとの交易のためにサン・ブエナ・ヴェントゥーラ号をメキシコに派遣してスペイン国王への親書を送る。翌年返事を携えたスペインの大使ビスカイノが家康に面会する。ビスカイノにとっては交易の条件として日本での布教の許可は欠かせないものだった。そこでオランダ人を日本から閉め出すように要求する。しかしこれに対して家康は嘲笑うように、オランダが他国と戦争していても自分には関係ないと拒絶する。ビスカイノは最後に江戸湾の測量の許可を求め、家康はそれを許すが、同席したアダムズが後でこれはスペインの謀略だと詰め寄ったという。ここでアダムズは「江戸湾測量の目的は軍事侵攻の準備だ。彼等はまずキリスト教とを増やし、彼等と共謀してその国を奪うつもりだ。これがスペインの常套手段だ。」と告げる。

 その8ヶ月後、事件が発生する。西国大名の有馬晴信がかつての領地を取り戻すために、家康の側近の岡本大八に賄賂を送っていたことが発覚したのだ。最初は両者を処分して終わりのはずだったが、両者が共にキリシタンであったことが分かり、駿府城の中にもキリシタンが増えていることが判明する。アダムズの警告を家康は差し迫った脅威と感じることになる。

 ここで家康の選択だが、キリスト教を黙認するか、排除するかである。しかしこれについては満場一致でキリスト教禁止であった。ちなみに私も同意見。そして家康も実際にキリスト教排除に動く。キリシタン禁教令を発する。そして宣教師や改宗しないキリシタンは海外追放された。このことは布教と貿易を一体としていたカトリック諸国の排除をも意味した。しかしイギリス、オランダ、東南アジアなどのキリスト教とは関係ない国とは貿易を続けた。

 しかし家康が亡くなり秀忠が後を継ぐと、南蛮船の寄港を平戸・長崎だけに限定する二港制限令を発する。これは南蛮貿易を幕府が独占するということも意味したという。そして家光の時代になると鎖国体制が徹底されることになる。そしてキリシタンの取り締まりも強化される。流れが変わる中、アダムズは二港制限令の撤回を求めて動いたが、秀忠と会うことも出来なかったという。そして彼は平戸で生涯を終えるという。

 

 

 と言うように、要するに家康はキリスト教布教の裏にあるスペインの思惑に危機感を持ったので、キリスト教の禁止は行ったが、海外との貿易は禁じてはないし、むしろその以前は積極的に外国に乗り出そうとしていた節があるという。それがなぜか時代が進むにつれ、鎖国は神君家康公の意志であるとして幕府の基本政策にされてしまったということだという。まあ家康の時代はまだ火薬などが大量に必要であったが、秀忠の時代になるともうそれは必要なく、むしろ大名の力をどう削ぐかに政策が変わっていたことなども影響しているだろう。

 ちなみにもしここで日本が海外進出を図っていたら歴史はどうなっただが、それは貿易立国の国となっただろうというのは大体異論の無いところである。そうすれば特に東南アジアに大量の日本人が渡り、現在の華僑のように今でも日本人がそこにコミュニティを作っていた可能性が高い。そうなるとその後の歴史は大きく変わったろう。もっとも私には東南アジアの覇権を巡ってスペインなどと全面戦争を行う日本という図も見えるのであるが。まあアヘン戦争の時代と違い、つい最近までまだ国内で戦争していた時代であるので、西欧相手と言ってもそうそう簡単にやられない可能性もあるが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・家康は鎖国主義者のように思われることが多いが、その経緯を見ているとむしろ積極的に海外に進出を目指していた節が見られる。
・当時の西欧はカトリック国であるスペイン・ポルトガルとプロテスタント国であるイギリス・オランダなどが対立していた。
・家康はイギリス人のウィリアム・アダムズを重用したが、それはイギリスが貿易は望むがキリスト教布教は求めないことが好都合だったからだという。
・家康はこの頃、東南アジアとの貿易を行い、またメキシコにも使節を送ってスペイン国王にメキシコとの交易の許可を求めている。
・これに対してスペインはキリスト教の公認とオランダの排除を求めてきた。家康はこれを拒絶するが、後にアダムズにスペインはキリスト教とに協力させて日本を乗っ取るつもりであると告げられる。
・実際に、家康の周辺にもキリスト教徒が入り込んでいることに脅威を感じ、家康はキリスト教の排除を決意する。これでカトリック国は日本から排除されることになったが、イギリス・オランダ・東南アジアとの交易は続けた。
・しかし家康の死後、秀忠、家光と時代を経るに連れて鎖国体制が確立する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ独裁国家にとっては、鎖国した方が国内は安定するんですよね。ただその間に海外の動向に気をつけてないと世界から孤立してしまう。そういう点では徳川幕府は鎖国の間に海外から取り残されてみたいに今まで言われてましたが、実はオランダなどを通じて諸外国の情報は随時入手して把握していたというのが近年の研究で指摘されてます。実はペリーの来航まで事前に分かっていたとか。そう言うことで近年は「鎖国」に対する考え方が変わってきてます。

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