教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/25 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「藤原氏をつくった男 中臣鎌足」

中臣鎌足は軽皇子の意向で乙巳の変を起こす

 今回扱うのは後の藤原氏の栄華の祖となった中臣鎌足である。この番組では今までに天智天皇とかその辺りの人物はいろいろ扱っているので、結構被っている内容がある。

 中臣鎌足は中級貴族で代々神祇官を務めてきた中臣氏の出であるが、若い頃から学問に熱心で非常に優秀であったという。実は蘇我入鹿とは僧旻の塾での同門であり、旻は「私の仏堂に出入りする者で入鹿に及ぶ者はない。ただ一人鎌足を除いて。」と語っているという。

 鎌足が乙巳の変(かつては大化の改新と言われたが、最近はこの名称で呼ばれるようだ)を起こした理由は、天皇位の継承問題にある。皇極天皇の次の皇位を、皇極天皇の夫で先の舒明天皇が他の女性との間に作った皇子である古人大兄皇子と、皇極天皇の弟である軽皇子が争ったことにあるという。古人大兄皇子の背後には蘇我氏がついていたために、軽皇子は劣勢だったという。そこで軽皇子の信頼を受けていた中臣鎌足が、軽皇子の意を受けて蘇我氏の暗殺を目論んだのだという。さらに蘇我氏の専横を鎌足が苦々しく考えていたこともあったという。

 

 

中大兄皇子や石川麻呂らを計画に引き込む

 しかし鎌足一人では暗殺の実行は困難である。そこで鎌足は皇極天皇の息子である中大兄皇子に目をつける。そして蹴鞠の際に中大兄皇子が飛ばした沓を拾って渡したことをきっかけにして接近する。中大兄皇子は軽皇子が天皇になった方が、母系社会の当時では自分がその次の天皇になりやすいと考えて鎌足の計画に乗る。

 鎌足はさらに蘇我入鹿の従兄弟でありながら不仲である蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き込むことにする。そして中大兄皇子に石川麻呂と姻戚関係を結んでから計画に引き込むことを提案、中大兄皇子も計画に乗り、石川麻呂も将来の出世につながると考えて乗る。そして石川麻呂の長女が中大兄皇子の元に嫁ぐことになったのだが、石川麻呂の弟の蘇我日向が石川麻呂の長女を連れ去るという事件が発生したという。石川麻呂は慌てて次女を代わりに嫁つがせる。これで姻戚関係は成立したが、日向が許せずに処罰しようとする中大兄皇子に対し、鎌足は国家の大事の前に家中の些細なことにこだわるなと止めたという。

 こうして石川麻呂を仲間に引き入れると、さらに宮殿の護衛を担当していた佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田を取り込む。なおこの頃、鎌足は世襲の職務であった神祇官の職を辞退したという。これは鎌足がこの頃には既に官僚として政治で活躍することを考えていたからだという。

 

 

見事に蘇我氏を滅ぼし、鎌足は政治に参画する

 暗殺の実行日は朝鮮半島から貢ぎ物を届ける儀式の日が選ばれる。ここには入鹿が必ず参加するからだという。そして儀式において石川麻呂が献上の文書を読み上げる中、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に入鹿を襲撃させる計画であった。儀式の当日、現場指揮を取る中大兄皇子と実行役の佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が控え、背後には弓を構えた鎌足が待機した。そして入鹿がやって来ると、滑稽な歌舞をする芸能者がおどけて腰の刀を預かる仕草をしたところ、入鹿は刀を渡したという。用心深い入鹿は常に刀を持っていたので、これは鎌足が仕掛けた策だという。そして儀式が始まるのだが、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人が怖じ気づいて動けなくなってしまい、結局は中大兄皇子が自ら飛び出して入鹿に斬りつけることになる。こうして入鹿は暗殺され、翌日に入鹿の父の蝦夷もこれまでと自害する。

 こうして蘇我本家は滅亡し、後ろ盾をなくした古人大兄皇子は身の危険を感じて引いたことで軽皇子が孝徳天皇として即位する。孝徳天皇は功績のあった鎌足に内臣という役職を作ってこれを与える。それは右大臣や左大臣は上級貴族の役職なので、鎌足をそこにつけると確実に反発があることを考えてのものだという。こうして鎌足は政治に参画することになる。

 鎌足は中央集権国家を目指した国政改革に取り組むことになる。鎌足は中大兄皇子とタッグを組んで政治に当たることになる。両者の関係は君臣でありながら友人でもあったという。この時に公地公民制や租庸調の税制などが定められる。

 

 

天智天皇の元で後の藤原氏の繁栄の礎を築く

 なお鎌足は息子の教育にも熱心だったという。優秀だった長男には期待をかけて僧として遣唐使としたが、残念ながら帰国後に若くして亡くなってしまう。そこで次男には大陸の先進知識を持つ田辺史大隅の元で学ばせたという。この次男が藤原不比等である。

 孝徳天皇が崩御し、再び即位した皇極天皇を挟んで中大兄皇子が天智天皇として即位すると二人三脚で改革を進める。この頃、日本は百済救援の白村江の戦いで大敗しており、国防の強化が重要課題であった。このような中で鎌足は外交の分野で活躍したという。

 またその一方で娘を天智天皇の皇子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子の元に嫁がせるなど、次の時代を考えて天皇家との関係も深めていった。この関係が後の藤原氏の繁栄の元となるのである。天智天皇の信任の厚かった鎌足は、天皇の世話をする采女との結婚まで許されており(これは極めて異例のことだという)、そのことを喜んで詠んだ歌も残っているとか。

 しかし鎌足も56才で病に倒れる。天智天皇は鎌足の功に答えるために当時の官位の最上位である大職を鎌足に与え、さらに内大臣に任ずる。そして藤原の姓を与えたのがこの時だという。藤原の由来については鎌足の生誕地に大きな藤の木があったからとか、天皇家という大木と共に繁栄する藤のように繁栄するという意味があるなどと言われているとか。鎌足は藤原の姓を与えられた翌日に56才で亡くなる。その後、藤原氏は摂政・関白を長きにわたって独占して繁栄していくこととなる。

 

 

 以上、中臣鎌足についてですが、この辺りは今までいろいろな番組で扱われ、その度に鎌足も登場していますのであまり新しい内容はありませんね。まあ歴史番組ではこういうことは仕方ないですが。

 ちなみに乙巳の変ですが、やけにあっさりと入鹿が殺されてしまったのですが、入鹿も流石に天皇の前で暗殺が実行されるとは考えてなかったのでしょう。そういう意味で皇極天皇も共犯であるとか、皇極天皇こそが実は黒幕であるとかの説もあります。また蘇我氏が滅ぼされたことについて、蘇我氏が天皇を無視して専横を働いたなどとも言われていますが、実はそんなことは全くなかったというようなことも言われていたりします。まあ死人に口なしで、負けた方は歴史でボロクソに言われるのは常ですから。中国なんかでも滅びた王朝の最後の皇帝は残虐非道の暴君か無能極まりない暗君であり、新王朝の初代皇帝は英邁で優れた人物ってことになってますから。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・中臣鎌足は神祇官を務める中級貴族の中臣氏に生まれ、若い頃から学問などにおいて実に優秀であった。
・乙巳の変は皇極天皇の次の皇位争いにおいて、蘇我氏をバックにした古人大兄皇子に対して劣勢であった軽皇子の意を受けて、鎌足が計画したものであった。
・鎌足は協力者として中大兄皇子に接近、さらに入鹿の従兄弟でありながら不仲であった石川麻呂らを引き込む。
・そして朝鮮からの貢ぎ物が届けられる式典で、中大兄皇子が入鹿に斬りかかりこれを惨殺、父親の蝦夷は劣勢を悟って翌日に自害する。
・軽皇子が孝徳天皇として即位すると、鎌足は内大臣として、中大兄皇子は皇太子として国政改革に取り組み、租庸調の税制を定めるなどを行う。
・鎌足は大友皇子や大海人皇子に娘を嫁がせるなど天皇家との関係を深め、これが後の藤原氏の繁栄の元となる。
・天智天皇の元で外交などに手腕を発揮した鎌足であるが、56才で病に倒れる。この時に天智天皇から官位の最上位の大職が与えられ、内大臣に任命される。この時に藤原の姓も賜るのだが、鎌足はその翌日にこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・天智天皇にしても中臣鎌足にしても争いの勝者ですから歴史的にはかなり美化されているところはあるでしょうね。無能な人物ではなかったのは確かですが、どうも天智天皇は酷薄な人間のような雰囲気がありますし、鎌足は上に取り入るのが上手いという印象もあります。結局は歴史ってのは勝者の歴史ですので。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work