教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/2 BSプレミアム ザ・プロファイラー「言行不一致ナポレオン」

矛盾だらけだったナポレオンの生涯

 以前にこの番組ではジョゼフィーヌのことは扱ったが、そう言えばナポレオンは扱っていなかったか。今回の主人公はナポレオンだが、彼の人生を振り返ると、あちこちに矛盾が見えるのだという。

 ナポレオンが生まれたのはコルシカ島だが、まさにナポレオンが生まれた頃にコルシカ島はフランスの侵略を受け、併合されてしまった。反抗したコルシカ人は残虐な刑罰を受け、島民はフランス語を強制されたという。そんな中でナポレオンの父はフランスの支配に協力したことで下級貴族に任命されていた。ナポレオンはそんな父のことを嫌っていたという。

 9才でフランス本土に渡ったナポレオンはフランス王立の幼年兵学校に入る。しかし貴族ばかりの中で、コルシカなまりの抜けないナポレオンは田舎者として馬鹿にされたという。彼は一人で図書室に籠もって勉強に打ち込み、成績はかなり良かったという。15才で士官学校に進んだナポレオンは母の勧めで最先端の砲兵隊を選ぶ。弾道計算などには数学力が必要であり、数学の成績が良かったナポレオンの能力を活かせるという考えだったという。しかし半年後に父が亡くなったことで収入が途絶え、15才のナポレオンが一家の暮らしを支えることになる。ナポレオンは普通は4年かかる士官学校をわずか11ヶ月の最短記録で卒業し、職業軍人となる。ただここでフランスを憎んでいたはずのナポレオンが、軍人としてフランスに忠誠を誓うことになるわけである。

 

 

フランス革命の中、立法議会派に与して頭角を現す

 ナポレオンは軍人となっても読書に明け暮れ、啓蒙思想に感化を受けたという。そして19歳の時にフランス革命が勃発、フランス各地では王党派と立法議会の勢力の対立が激化、王党派は周辺諸国の支援を受けて抵抗、軍人もどちらに付くかの選択を強いられた。混乱を避けてコルシカに戻っていたナポレオンだが、共和国の軍人としてフランスに戻ることになる。そして王党派の拠点であるトゥーロンを巧みな戦術で2日で陥落させる。24才のナポレオンは功績で3階級特進し、史上最年少の将軍となる。

 しかしフランス国内は混乱を極めていたロペスピエールによる大量の粛清が始まる。ナポレオンはパリの司令官を依頼されたがそれを断る。実際にその後、政権内で反ロペスピエール派がクーデターを起こし、ロペスピエール派は逮捕、処刑される。ナポレオンの代わりにパリの司令官になっていた人物も処刑された。

 この混乱に王党派が蜂起し、2万5千人が宮殿に押し寄せる。これに対してナポレオン軍は5000だが、この時に殺傷力の高い葡萄弾(散弾砲らしい)を使用して鎮圧する。王党派は300人の犠牲を出し、蜂起は1日で鎮圧されるが、非人道的な砲弾を使ったナポレオンを王党派は虐殺者と非難したというが、ナポレオンの名声はこの活躍でさらに上がる。

 

 

矛盾した対外政策に世論操作

 この頃にナポレオンはジョゼフィーヌと出会って結婚する。しかしナポレオンはすぐに北イタリアに戦闘に赴く。ナポレオンは北イタリアを解放するとしてオーストリア軍を駆逐する。しかしナポレオンは解放したはずの北イタリアの貴族などの財産を巻き揚げ、市民からは占領税を徴収したという。その金額は現在の価値で800億円にも及ぶという。また多くの貴重な美術品を奪ってパリに送った。

 かなり矛盾した行動をとったナポレオンだが、フランスは潤ったので民衆は歓呼の声で彼を迎えた。またそうなるように北イタリアで得た資金で、ナポレオンは兄のジョセフと弟のルシアンに自分の活躍を讃える新聞を発行させてパリ市民に配っていたという(つまりはメディア工作である)。こうして人気が急上昇したナポレオンは政治家への野心を高める。

 さらにイギリスの貿易拠点だったエジプトに遠征する。ここでナポレオンは海戦で大敗して孤立するのだが、新聞では戦勝を伝えて民衆は熱狂したという(情報操作である)。一方フランス本土は周辺国が大同盟を組んで攻め込もうとしていて危機に瀕していた。民衆はナポレオンの帰還を待ち望んでおり、今帰れば熱狂的に迎えられるのは間違いなかった。しかし遠征したフランス軍内でペストが蔓延しており、多くの兵が倒れていた。しかしナポレオンは病に倒れた部下の枕元に阿片を置き、阿片を飲んで死ぬか捕虜になるかを選ばせたという。ナポレオンは兵士を見捨てて帰国したのである。

 

 

フランスの最高権力者となり、完全に実権を掌握する

 帰国したナポレオンは民衆に大歓迎され、その勢いのままに議会に乗り込むが、そこでは多くの議員による罵声が待っていた。ショックで絶句したナポレオンは何も出来ずに退場したという。議員たちはナポレオンが兵を連れていたことから軍事クーデターを恐れたのだという。そこで弟のルシアンが「もし兄が共和国の自由を侵害するなら、自分が兄を殺す」と訴えて議員たちの反感を解く。そして行われた国民投票でナポレオンは第1統領に就任する。ナポレオンは事実上の最高権力者となったのである。この時は「共和国が危機を切り抜けたら権力の座から退く」と言っていたらしいが、実際はこの後、15年間にわたって権力の座に居座ることになる。ナポレオン30才であった。

 包囲されたフランスであるが、ナポレオンはアルプスを越えて北イタリアに駐屯していたオーストリア軍に奇襲をかける。わずか3日で勝利し、これでフランスは支配地域を拡大する。オーストリアの敗北で包囲網に穴が開いたことで同盟は総崩れとなる。イギリスも国内問題で戦争を断念してフランスと講和する。

 勝利したナポレオンは法を統一してナポレオン法典と呼ばれる法典を出す。しかしその中にはハイチの奴隷制度を復活させたり、女性を男性よりも下に置いたりなど、共和制の精神に反するものも含まれていたという。この辺りもナポレオンの矛盾である。

 

 

そしてついに皇帝に即位して頂点を極めるが・・・

 さらにナポレオン暗殺未遂事件が発生したことで、ナポレオンは反対者を根絶やしにするべく、絶対権力者である皇帝に即位することになる。王政を否定したはずのナポレオンがそれよりも上の皇帝になったのである。

 皇帝となったナポレオンは相次いで戦争を起こし、ヨーロッパに版図を広げる。そして兄のジョゼフをスペイン国王に、弟のルイをオランダ王にした。さらに自身もジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女のマリー・ルイーズと結婚、自らも王族になろうとする。翌年王子ナポレオン2世が誕生する。この時、ナポレオン41才。

 我が世の春だったナポレオンにとって転機となったのはロシア侵攻である。ここでロシアがとった焦土作戦によって補給の尽きたフランス軍はモスクワを占領したしたものの、やはり町を焼かれて補給は出来ず、撤退を余儀なくされる。そこにロシアの冬将軍と言われる厳しい寒さと、ロシア軍の追撃が加わる。結局フランス軍の内、ロシアから帰還したのは全体の1%ほどだという。

 この大敗でナポレオンの勢力が衰えたと見ると、周辺国は再び同盟してフランス領に侵攻した。ナポレオンはライプチヒで連合軍と戦ったが敗走、そしてパリがついに陥落する。降伏を迫られる中、ナポレオンは部下たちから無条件の退位を迫られる。ナポレオンはそれを拒否して毒をあおるが、毒が古かったせいで死ねずに吐いてしまったという。皇帝の座を引きずり下ろされたナポレオンはエルバ島に流される。そしてフランスでは王政が復古する。

 しかしフランス経済は下降の一途で、王政に対する不満が高まっていった。その機を見てナポレオンはエルバ島を脱出して本土の元部下たちと合流する。そして皇帝に復帰するのだが、ワーテルローの戦いで惨敗してイギリスに降伏ナポレオンの天下はわずか95日だったという。そしてナポレオンはアフリカ沖の孤島、セント・ヘレナ島に流刑となる。そしてナポレオンは51才でこの世を去る。遺体をセーヌ川の河畔に葬って欲しいというのが遺言だったらしい。

 

 

 と言うわけで、矛盾に満ちたナポレオンの生涯でした。確かに民主主義精神の体現者のはずだったのが、結局は途中から自らが独裁者になってしまったという大矛盾。これを聞いたベートーベンが交響曲第3番「英雄」のナポレオンに捧げると書いてあった表紙を破り捨てたというエピソードも残っているが、この時までは多くの者がナポレオンに共和制守護者としての姿を見ていたのだろう。しかし気がついたらあれよあれよという間にその精神を踏みにじってしまったというわけである。もっとも民衆自体はつい最近まで王制下にいたわけで、その王が絶対カリスマのナポレオンに替わっただけで何の違和感も持たずに熱狂したのだろうと思われる。またナポレオン自身も「俺は世襲で権力者になったのでなく、民衆の圧倒的支持で皇帝になったんだから、民主的な君主だ」と思っていたのではと言う気がする。

 しかし独裁というのはいずれは限界が来るというのもナポレオンの生涯が示している。あれだけ連戦連勝だったナポレオンも、ロシアで壊滅的な敗北をしてしまい、そうなると無敗の皇帝のカリスマが失墜してしまうので、後は支えようがなかったのだろう。こういうのはどの世界でもあるもので、流通界の革命児と言われた中内功が立ち上げたダイエーは、あっという間に急成長して業界一の大企業となったが、そうなっていく過程で中内自身の感覚が一般人とズレてしまい、「どうも最近のダイエーはおかしいぞ」と思っていたら、あっという間につぶれてしまった。まさに独裁者、カリスマの弊害であった。ナポレオンも最後の頃には、自分に付いてきている兵たちの姿が見えなくなっていたのではという気がする。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・コルシカ島に生まれたナポレオンはコルシカ島を武力で制圧したフランスに対しての恨みを持っていた。
・しかし士官学校を卒業したナポレオンは、軍人としてフランスに忠誠を誓うことになる。
・そうしてフランス革命が勃発、王党派と立法議会が対立する中、軍人もどちらに与するかを迫られることとなった。ナポレオンは立法議会派に与し、王党派の拠点であったトゥーロンを落とし、その功で最年少で将軍となる。
・反ロペスピエール派のクーデターに乗じて王党派が挙兵した時、ナポレオンは滞陣殺傷能力の高い葡萄弾を用いて王党派を制圧、この功績でさらに名を上げる。
・北イタリアを解放するとしてオーストリアに勝利するナポレオンだが、実際には北イタリアの民衆に占領税を課し、多くの美術品をパリに持ち去る。
・さらにナポレオンはイギリスの交易拠点であるエジプトに出兵、実は海戦で大敗したのだがメディア操作で大勝利と伝え、国民の支持を得る。そしてフランス本土が周辺国の包囲を受けた時に、病に倒れた部下たちを捨てて帰国、熱狂的に迎えられる。
・議会は反発するが、これも工作によって支持を得て、ナポレオンはフランスの最高権力者となる。そしてアルプス越えでオーストリア軍に奇襲をかけることでフランス包囲網を瓦解させる。
・ナポレオンは法典を整備するが、そこにはハイチの奴隷制を復活させたり、女性を男性の下に置くなど明らかに共和制の精神に逆行したものも含まれていた。
・さらに暗殺未遂事件の発生で、ナポレオンは反対者を排除する絶対権力を求めて皇帝に即位する。さらに兄弟を隣国の王として、自身もオーストリア皇女のマリー・ルイーズと結婚して王族を目指すなど、完全に共和制の精神と矛盾した行動をとる。
・絶頂だったナポレオンだが、ロシア遠征で大敗、遠征軍の内に帰還したのは1%という大損害を喫する。これを見た周辺諸国が同盟してフランスに侵攻、ナポレオンは敗北して皇帝の座を追われてエルバ島に流され、フランスは王政復古する。
・しかし1年後、王政に対して不満が高まっているのを見たナポレオンはエルバ島を脱出、元部下たちと合流して皇帝に返り咲くが、ワーテルローの戦いで敗北、イギリスに降伏する。わずか95日の天下だった。
・そしてアフリカ沖のセント・ヘレナ島に流されると、そこで51年の生涯を終える。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあナポレオン自身も、最初は共和制の精神に従って行動していたつもりだったんだろうが、自分に都合が良い方向に動く内に、気がつけば独裁者になっていたってところなのかもしれない。ナポレオン自身が民衆を煽ったのは間違いないが、逆に民衆に担がれて引っ込みが付かなくなった面もありそう。

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