武田信玄の若かりし頃
武田信玄はこの手の番組では散々扱われてきているのでもうネタはほとんどないが、大抵は上杉謙信と対立するようになった前後からの話が多い。そこで今回はそこに至るまで武田信玄の若かりし頃に焦点を当てている。
武田信玄は父の信虎が甲斐を統一した後、今川から攻撃を受けた武田家存亡の危機の大戦の頃に生まれたという。この合戦は武田が辛うじて勝利し、信虎は「勝利を呼ぶ嫡男」ということで勝千代と名付けたという。
勝千代こと後の信玄は幼い頃から実に聡明で、多くの本を読んではすぐにその内容を覚えたという。また幼い日の信玄のエピソードとして、家臣に多くの貝殻(3700個)を見せ、ここに貝がいくつあるかと聞いたという。すると家臣は「一万だ」「いや二万はある」と答えた。これを聞いた信玄は「人の目はあてにならない。戦にも通じる。」と考え、家臣に「戦で兵の数は少なくても良い。たとえ五千に満たない兵でも、敵は正確な数など分からない。五千の兵をいかに一万以上の兵に見えるように動かすかが肝心なのだ」と語り、家臣達は信玄の聡明さに感心したという。
聡明であったが故に父と対立を深める
しかしこのような信玄の聡明さは、無骨一本の信虎には小賢しいと映って、信虎は段々と信玄を疎んじるようになり、従順な弟の次郎(後の信繁)を後継ぎにしようと考え始める。そこで信玄は信虎に疎まれることを避けるためにうつけを演じるようになってきたという。信玄が信虎の所有する名馬を欲しがった時、信虎はそれに腹を立てて追放するとまで言い出したという。この両者の対立は段々と抜き差しならない状況になっていったという。なお信玄はうつけを演じながらも、家臣達の動きを見定めていたともいう。
そして16才で元服した信玄は晴信と名を改めて初陣の時を迎える。それは信虎が信濃に侵攻して海ノ口城を攻めた時だという。武田勢は当初は優勢だったのだが、城主の平賀源心が籠城して固く守ったために戦線は硬直、年の瀬が迫ってくるし大雪は降ってくるしでやむなく信虎は撤退を決意したという。ここで敵の追撃はないと読んでいた信虎だが、そこで信玄が殿を願い出る。信虎は信玄に「殿は重要な役割なので、お前如きでは無理だ」と反対するが、信玄はどうしてもと迫り、信虎は最後は勝手にしろと折れたという。
そうして武田軍は撤退。信玄は300ほどの兵で殿を務めることになったが、撤退せずに敵陣に奇襲をかけたという。海ノ口城の平賀源心は武田の撤退で安堵し、家臣達が正月を我が家で過ごせるように帰したために、城には下級武士が80人ほどしか残っていなかったという。信玄はこのように敵が油断することを読んでいたのだという。そして信玄は海ノ口城を落とし、源心を討ち取り、さらには城下の源心の家臣も討ち取る。初陣での前代未聞の大活躍で評判は他国にまで広がったのだが、信虎にとってはこれも面白くなかったらしく、信玄の武功を認めなかったという。
ついに父を追放する
そしてとうとうその時が訪れる。1541年、信虎が娘婿である今川義元の元を表敬訪問した際、信玄は駿河との国境を封鎖して信虎の帰国を拒み、21才で無血クーデターで国を乗っ取ることになる。この理由については、やはり信玄と信虎との対立や、飢饉の中でも外征を繰り返して領民を疲弊させた信虎の内政の失敗などが挙げられているが、信玄と信虎が共謀して今川家の内乱を起こそうとしたという説まであるという。もっともこの説については私も「いくらなんでもこれはないわ」と感じたが、やはり「それは考えられない」というのが今の通説で、不和と信虎の内政失敗が原因というのが主流だという。また信虎は無骨(というか、単なる短気なバカとしか思えんが)のために家臣とも対立し、飯富虎昌や板垣信方などが信玄を担いだという。
こうして領主となった信玄は国内の法を整備した。この法では領主が不当な課役や年貢の徴収を行った場合には領主を罰するとしており、領民を保護する内容でもあったという。さらには信玄自身もその法に従うと記述しており、自らをも厳しく律することを示していたという。
信玄の前に立ちはだかった村上義清
国内を整備した信玄は領地拡大のために信濃攻略に乗り出す。信濃の国衆を次々と打ち破る武田軍の前に立ちはだかったのが北信濃の村上義清だった。上田原の戦いでは先鋒の板垣信方の油断もあって敗北、本陣が攻撃を受けて信玄は2箇所の傷を負い、家老の甘利虎泰が信玄を守って討ち死にするという惨敗を喫する。
信玄は家臣団の立て直しのために人材の発掘に力を入れる。そこから農民出身の高坂弾正や山本勘助などが登場することになる。さらに人心掌握術で家臣団の結束を高める。
こうして軍を建て直した信玄は再び信濃で村上義清と戦うことになるが、砥石城で再び惨敗を喫してしまう。この惨敗は砥石崩れとも言われている。なお砥石城は後に真田幸綱(幸村の祖父である)が調略工作で寝返りを誘い、砥石城の攻略に成功している。これで村上義清の勢威は衰え、彼は信濃の長尾景虎の元に落ちていくことになる。結果的にはこれがその後の川中島につながることになる。
という信玄の若き日の話。やはり信虎との確執が中心となるが、やっぱり信虎が人間的にも領主としても問題があったのは確かで、どうも武に偏りすぎである。また彼が信玄を嫌ったのも、彼自身が「アホ」であったから頭の切れる信玄にコンプレックスを感じたというようなとこもあるかもしれない。また彼自身いつまでも自分が国を率いる意志が強かったので、信玄が後継ぎとなるといずれ主導権を奪われるという懸念も持っていたのではと考えられる。その点、弟の信繁は優秀ではあるがあくまで補佐役タイプの人物なので、信虎を差し置いて出しゃばることは考えにくいので、信虎としては安心できるタイプだったと推測する。もっとも信繁は自身がトップに立つタイプでないので、信虎の死後に行き詰まる可能性があるのだが、信虎としてはそこまでは考えていなかったのであろう。だから彼は「アホ」なのである。
後はやっぱり目立つのは村上義清の強さだろう。何しろ信玄を二度にわたって破っている(それも信玄の惨敗である)のだからかなりの強さである。どうも謙信の影に隠れて目立たないが、彼が信濃の小領主でなければまた歴史が変わったろう。信玄にとっては謙信だけでなく、彼の元にいた村上義清の存在も相当にいやだったろうことは想像に難くない。
さらにはこの時代から真田氏の策略は冴えている。幸綱は幸村の祖父で昌幸の父であるが、戦国一のチートキャラといわれる昌幸と同様にかなり策略に長けた人物であり、真田という一族がいかに油断できない一族であったかと言うことも物語っている。
忙しい方のための今回の要点
・武田信虎の嫡男として生まれた信玄は、幼少時から聡明さを示していた。
・しかし信虎は信玄のことを小賢しいとして嫌い、両者は対立を深めていく。
・信玄は元服して後の初陣で、奇襲によって敵城を落とすという武勲を挙げて一躍その名を天下に知らしめるが、信虎は信玄の武勲を認めず、両者の対立は決定的となる。
・そして信虎が娘婿である今川義元の元を表敬訪問した時、信玄は国境を閉ざして信虎の帰国を阻止、国を乗っ取ることに成功する。
・信玄は国内の法を整備して、領民を労る方針を示す。
・国内を整えた後に信濃攻略に乗り出し、信濃の国衆を次々と撃破するが、村上義清に上田原の戦いで惨敗する。
・信玄は人材登用など立て直しに尽力し、再び村上義清と戦うが、砥石城攻略に失敗して砥石崩れと呼ばれる大惨敗を喫する。
・結局砥石城は信玄の臣下の真田幸綱が調略で落とし、勢力の衰えた村上義清は越後の長尾景虎を頼って落ちていくことになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・まあ後の時代の信玄上げはありそうですが、それを考慮しても信虎って暴君でアホだったんでしょうね。信虎がそのまま居座っていたら、武田氏はせいぜいが信濃にちょっと出て行ったところで、織田にあっさりとやられていたでしょう。
次回のにっぽん!歴史鑑定
前回のにっぽん!歴史鑑定