教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

1/6 BSプレミアム ザ・プロファイラー「悲劇のヒーローの真実 源義経」

悲劇の主人公・源義経

 今回の主人公は天才的な戦の才によって平家打倒に大いに貢献しながら、兄と対立して最後は自害に追い込まれた悲劇の主人公、さらにはなぜかジャニーズ系のイケメンとされている源義経である。

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 源氏の嫡流に生まれた牛若こと後の義経であるが、その運命は平治の乱で父の義朝が平清盛に敗北したことで暗転する。父は謀殺され、捕まった兄の頼朝は伊豆に流罪、さらに義経も鞍馬寺に預けられることとなった。なお後継ぎである男子は殺害されることも常であったが、助命されたのは清盛の側室となった母の常磐御前の嘆願によるものと言われている。

 牛若は平家の策略で自身の素性を知らせられないままに7才で鞍馬寺に預けられ、僧侶となるべく修行をするのであるが、実際は野山を駆け回って足腰を鍛え(天狗に特訓されたという伝説がある)、夜な夜な山を降りては若者たちと喧嘩に明け暮れる荒くれ者だったようである。そして11才の時自分が源氏の一族であることを知ったことから、父の敵討ちのための平家打倒を誓うようになる。16歳の時、ついに寺を抜け出して奥州平泉の藤原氏を頼って旅に出る。その過程で義経は自ら元服をしたという。

 

 

頼朝の挙兵に駆けつけるが

 奥州の藤原秀衡は義経を匿う。義経はここで5年を過ごすがこの時に騎馬戦術などを鍛えたのではないかという。そして21歳の時、兄の頼朝の挙兵の報に自らも兄の元にはせ参じる。

 こうして兄弟対面なのだが、恐らく両者の間には意識の食い違いがあっただろうと私は推測する。ずっとボッチだった義経は、ようやく肉親が見つかった、それもかなり立派な兄ということでいささか舞い上がっていたろうが、一方の頼朝は弟と言われても面識もないし、「ホンマかいな」というのが本音だろう。また多くの家臣団を引き連れる立場として弟だからと特別扱いも出来ず、あくまで一家臣として扱うしかない。この両者の微妙な食い違いが最終的な悲劇につながる。

 実際に頼朝は鶴岡八幡宮の上棟式の際、義経に大工に褒美として与える馬を引くように命じたという。しかし義経は「この場には下手を務めるのにふさわしい者がいませんから」と断ったという。つまり頼朝の弟である自分と対等の立場で馬を一緒に引ける者がいないという意識である。これに対して頼朝は居並ぶ家臣の前で激怒、義経は驚いて慌てて馬を引いたという。

 

 

華々しい戦果を上げるものの、頼朝とのすれ違いは増していく

 24才で義経は初陣を飾るが、その相手は同族の木曽義仲だった。頼朝の命で義経は京に派遣されるが、この時に頼朝は義経が使えるかどうかを判断しようとしたのだろうという。この戦いで義経は戦の才を示す。宇治川を渡る際には橋が壊されていて、渡河に邪魔になる民家について焼きはらって進軍したという。そして京に進軍すると木曽義仲を追い払う。さらに頼朝から平氏を追討する命を受ける。この時に福原に籠もる平氏を打倒したのが一ノ谷の合戦である。

 なお鵯越の逆落としについては諸説あるようだが(義経は一ノ谷の崖を降りていないという説がある)、何にせよ平氏にとっては無警戒だった山側からの奇襲を受けた平氏は総崩れとなって海に逃走する。義経は敵の虚を突くのに長けていた。これで義経は名を上げる。

 ちなみにこの合戦、神戸出身の私は以前から鵯越の地名が一ノ谷からかなり離れた地にあるのに疑問を感じていた。なおその辺りは先の「英雄たちの選択」でも検証した上で、やはり一ノ谷での逆落としはあったと結論づけている。

 一ノ谷の合戦で勝利して京に凱旋した義経に、後白河上皇は検非違使の役職と官位を与える。義経はこれを源氏の誉れと考えていたのだが、頼朝は自分に図らずに勝手に官位を受けたことに激怒する。これも二人の意識の違いだったんだろう。義経は単純に自分は源氏の一門だから、その自分が官位を受けるのは源氏の名誉と考えていたが、いずれは朝廷より独立する思惑もあった頼朝にしたら、単なる一家臣の増長に映ったに違いない。

 義経はここで平氏追討の任からはずされるが、この時に静御前と知り合ったという。皮肉なことに戦に明け暮れた義経にとっては初めての穏やかな生活でもあった。

 

 

再度戦い身を投じ、平氏討伐を成し遂げるが悲劇的な結末に

 しかし所詮義経にそういう生活は続かなかった。平氏討伐がここで硬直状態となったことで再び義経を起用することになり、屋島攻略の命が義経に下る。屋島は難攻不落の海の要塞であった。ここで義経は頼朝からつけられた梶原景時と意見が対立義経は150騎ほどの手勢を率いて嵐の中を出航、屋島の背後に回り込んで陸から屋島を攻撃、予想外の攻撃に平氏は総崩れになり、三日間で義経は屋島を攻略する

 西に逃げていく平氏を追う義経は、壇ノ浦の戦いに臨むことになる。この戦いにおいて義経は安徳天皇を奪還することと三種の神器を奪取することを頼朝から命じられていた。この戦は海戦に長けた平氏が当初は優勢であったが、潮の流れが変わったのと、義経が非戦闘員の漕ぎ手を射ることを命じたことで逆転、平氏はここに滅ぶ。しかしこの時に安徳天皇は海に沈み、三種の神器も草薙剣が失われることになってしまう。

 平氏打倒に成功した義経だが、戦勝報告に鎌倉に向かったところ小田原で足止めを食らう。頼朝の命を果たせなかったのと、後白河上皇から義経が勝手に官職を受けていたことを頼朝が激怒したからだとされる。さらには梶原景時からは義経が増長して傲慢になっているとの批判も上がっていた。これに対して義経は釈明の書を送るが通じず、京に戻るように命じられる。しかしそこで頼朝から送られた刺客に襲われる。事ここに及んで義経は頼朝と戦うことを決意し、後白河上皇に頼朝討伐の宣旨を強引に出してもらって仲間を募るが参加者はいなかった。これでは勝負にならないと悟った義経は京を捨てて逃亡生活となる。一方の頼朝は後白河上皇から義経討伐の宣旨を出してもらい義経討伐を実行する。奥州藤原氏を頼って平泉に落ちた義経であるが、秀衡が亡くなり、息子の泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を攻撃、義経は自害する。なお泰衡もその後、頼朝によって滅ぼされている。

 

 

 明らかに最後まで悲劇的な行き違いがこの兄弟にはあったようである。義経は頼朝に兄弟の情を求めていた節があるが、頼朝の方はあくまで終始一貫義経を家臣としか見ていない。この辺りは源氏の統領という立場もあったろう。またずっとボッチだった義経は明らかに回りの家臣に対する配慮もない。自分は頼朝の弟で総大将という立場だったら、自らが先頭に立って武勲を独占してしまったら梶原景時らの立場がない。しかし義経は武勲を上げたら頼朝が自分を弟として認めてくれるという意識があったのかもしれない。ここで義経がまだ「自分がこうやって武勲を上げることが出来たのも、背後で梶原景時らが堅実に支えてくれたからだ」と言って彼らを持ち上げるぐらいの謙虚さでもあればもう少し事態は改善し得たが、所詮はボッチ育ちの義経はそこまで気が回らなかったと推測できる。

 要は兄弟での境遇の違いによる思惑の違い、ボッチ育ちの義経の対人スキルの低さなんかが最終的な悲劇の原因だったように思われる。義経にしたら、最後まで頼朝が何を考えているかは理解できず、なぜ自分が討伐されることになったのか分からないまま死んだのではないかと思われる。一方の頼朝は頼朝で「なんでこいつは勝手なことばかりする」という苛立ちを感じていたのでは。義経が頼朝の意志を察して回りにも気を回せるタイプならこうはならなかったのだが、もっとも逆にそういうタイプならこれだけの武勲を上げるということも出来なかったのではと言う気もする。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・7才で鞍馬寺に預けられて僧になるべく修行していた義経だが、11才の時に自分が源氏の一族であることを知って父の敵討ちを決意、16才で寺を抜け出すと奥州の藤原氏の元を頼っていく旅の途中で自身で元服をする。
・藤原氏の元で5年を送り、頼朝の挙兵の報にはせ参じて、初めての兄弟の対面を行う。
・義経の初陣は24才での木曽義仲討伐。頼朝の命で京に送られた義経は、義仲を討伐すると共に、福原の平氏を一ノ谷の奇襲で打ち破る。
・こうして京でヒーローとなる義経だが、後白河法皇から頼朝に無断で官位を受けたことで頼朝の怒りに触れ、平氏追討からはずれる。この時に静御前と出会っている。
・しかし義経がはずれると平氏討伐は膠着、再び義経に屋島の平氏攻略が命じられる。この軍議で義経は頼朝から送られた梶原景時らと対立、単独で嵐の海に出撃し、手勢で屋島に背後から奇襲して平氏を打ち破る。
・義経はさらに平氏を追って西へ進軍、最終的には壇ノ浦で平氏を滅ぼす。しかし頼朝から命じられた安徳天皇の奪還と三種の神器の奪取には失敗する。
・京に凱旋した義経だが、鎌倉に戦勝報告に向かったときに小田原で足止めされる。頼朝は義経が自分の命を果たせなかったことと、後白河上皇から無断で官職を受けたこと、さらに梶原景時から義経が増長しているとの報告があったことから激怒していた。
・釈明の書を送るが認められず、やむなく京に戻った義経だが、頼朝からの刺客に襲撃される。事ここに至って義経は頼朝と戦うことを決意して仲間を募るが誰も呼応せず、義経は京から逃走する。
・平泉まで落ちていった義経だが、秀衡が死亡後息子の泰衡は頼朝からの圧力に屈して、義経を攻撃、義経は自害に追い込まれる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・確かに悲劇ですな。肉親の情が薄かった頼朝と、KY義経(発達障害の可能性もあるのでは)とのすれ違いが最終的に決定的な悲劇となってしまいました。まあしかしこの手のすれ違いは結構起こりがちです。もっとも命の取り合いまではなかなかなりませんが。

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