教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/12 NHK 歴史探偵「武士の都・鎌倉」

頼朝が築いた要塞都市・鎌倉

 NHKのこの時期になると大河関連の企画が各番組で相次ぐのだが、今回もその一環。しかも佐藤二朗があの大河に出演している(時政に滅ぼされる比企氏のようである)とのことから尚更のこと。それにしても佐藤二朗って、好感度も演技力も決して高いとは思えないのに、どういう理由でやたらに起用されるんだろう。

 で、今回の内容は「鎌倉とはいかなる町であったか」なんだが、このネタって大分昔にヒストリアの頃にやっているネタと完全に被っている。

 まず頼朝が鎌倉に武士の都市を築こうとしたときに最初に行ったのは鶴岡八幡宮の移転。これを新しい武士の町のご本尊にしようと考えた。そして自分の御所を作ってから、周囲に家臣の屋敷を設置している。これらの家臣は何かあったときに鎌倉の防禦を担うことになる。

 

 

切通に見る鉄壁の防禦

 鎌倉はそもそも地形的に南を海に、他の三方を山に囲まれた堅固な地である。しかしそれだと回りから孤立してしまって大都市に必要にな物資を輸送することが出来ない。そこで幕府が築いたのは切通と言われる山中を抜けるルート。こういう切り通しを7箇所作って鎌倉七口と呼ばれたという。さらには海にも港を作って物資を輸送したという。こうして全国の物品が鎌倉に集まるようになった。日本各地の焼き物などが実際に見つかっているという。こうして最盛期には人口は10万にもなったという。

 ただこのような切通を何も考えずに築いてしまえば防禦の弱点となってしまう。そこでこれらの切り通しはクランク状になっていて、道の両側は崖になっていてその上から攻撃を出来るようになっている。この切り通しがどれだけの防御力を持っているのかを栽培バルゲームの要領で実験したり、コンピュータシミュレーションで試したりなんてのがこの番組らしいところだが、正直なところこれはやるまでもなく分かるところ。要は攻め手が10倍でもすぐに1割の損害を出して撤退に追い込まれるという結果。正面及び左右から十字砲火を浴びるので、それをかいくぐることは不可能という結論である。また左右の崖に登って側面から守備兵に攻撃をかけると言うこともしたが、所詮は狭い崖上に兵は一列にしかなれず、守備兵の損害がいくらか増すものの攻撃側の撤退との結果。

 まあ当然の結果ではある。そもそも大軍の利を活かせない構造にしているのだから、この手の防御施設に正面から力押しをかけるのは無謀というか余程のバカである。

 

 

海に現れた「奇跡」の攻撃ルート

 他の攻め口はとなれば海側であり、実際に鎌倉を落とした新田義貞の軍勢も海側から鎌倉に攻め入っている。この時に稲村ヶ崎の海岸に軍勢が通過できる道が出来たと言われており、これは稲村ヶ崎の奇跡と呼ばれているという。しかし実際は鎌倉の沿岸は切り立った断崖となっていて、そもそも崖沿いには軍勢が通れる道はない。また引き潮の時に水深が浅くなった海をザバザバ渡ったとしても海上の船から狙い撃ちにされてしまう。と言うわけで本来なら奇跡でも起きなければこちら側から攻めるのは不可能だという。

 では何が起こったのかを調べているのが気象予報士で歴史研究家の田家康氏。彼によると当時は強い北西の風が吹いており、これは4~5年に1度の珍しい現象だという。この風で稲村ヶ崎を守っていた船は沖に流されてしまったと推測できるという。さらにこの時にエクマン輸送という現象が発生して海面が低下したのだという。エクマン輸送とは海辺で風が吹いたときに風向きの90度の方向で海水が押される現象だという。地球の自転が影響しているのだと言うが、これで水位が低下して海岸に道が出来たというのである。まあ新田軍がこれを予知していたわけではないので、このタイミングでこれが発生したとなれば確かに奇跡である。

 

 

 以上、鎌倉の町がどれだけ強固な都市だったかの話だが、これについては諸説あるという。もっとも切り通しがいかに堅固だったとしても、守備兵の士気が著しく低下していたら守り通せるものではないのだが、どうもそれに問題があったのではというのが私の読み。また新田義貞の海沿いからの攻めは、普通に船で攻め込んだのではと思っているのだが、それは否定する資料があるんだろうか? 普通に考えると海から攻め寄せて守備兵を攻撃してから、本軍は大潮の時にでも浅瀬をザブザブ渡るという手があるような気がするのだが。

 まあ何にせよ、本拠の鎌倉にまで敵軍勢が攻め寄せるような状況になったら、その時点で負けってのは見えている。何だかんだ言っても鎌倉も孤立無援だとジリ貧は確定。本拠に立て籠もって勝利をつかめるのは、敵の背後に味方がいる場合のみ。所詮は武家連合政権のような鎌倉幕府としては、その配下の信頼が揺らげば滅びざるを得なかった。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・鎌倉は南を海に三方を山にかまれた堅固な地であり、頼朝はそこに御家人の屋敷を作らせることで防禦を固めた。
・山には物資の輸送のために切通と呼ばれる入口を7箇所設けたが、そこは防禦に万全の体制を強いており、通常では突破は困難である。
・また海には港を築き、交易船が出入りすることで日本中の物産が集まるようになり、商人なども居住してピーク時には10万人以上の人口の大都市となった。
・しかしその鎌倉も稲村ヶ崎の海岸を回り込んできた新田勢によって落とされる。この時、稲村ヶ崎の海岸に進軍可能な道が現れたとされ、稲村ヶ崎の奇跡と言われている。
・この奇跡は強烈な北東からの風によるエクマン輸送の効果で、海の水が押されて退いたのではとの説が唱えられている。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・実際に奇跡が起きたのかどうかは謎だが、何にしろ、この頃には既に鎌倉幕府の命運は尽きており、どっちみち遠からず滅亡は必至だったんだろう。大抵は軍事的に事が決する前に、既に政治的には決着がついていることが多い。

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