教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/19 BSプレミアム 英雄たちの選択 「私には見えている!福沢諭吉 日本近代化の夢」

イギリス型議会政治を目指した福沢諭吉

 学問のすすめで知られ、慶應義塾大学を創設した福沢諭吉。しかし彼は実は政府から警戒され、追放さえも検討されたという。どういうことでそういうことになったのか。また彼は何を目指していたのか。

 中津藩の下級藩士の次男坊だった福沢は学問で身を立てるべく緒方洪庵の適塾で蘭学の学習に励んだ。彼の名は藩内でも有名となり藩士の子弟のための蘭学塾を開くために江戸に向かう。しかしそこで彼は学んだオランダ語が全く通じないことに驚く。既に世の中は英語が中心となっていたのだ。これにショックを受ける福沢だが、そこから英語の勉強を始め、その語学力を売り込んで幕府の米国派遣使節に同行、さらに翌年にはイギリス、フランスなどを歴訪する。そこで彼はイギリスの議会制民主主義の講義を受けて衝撃を受ける。これ以降、福沢の理想の政体はイギリスの議会制民主主義となる。

 

 

在野の言論人として活躍

 しかし福沢が帰国したのは禁門の変で国内が荒れていた時だった。福沢は長州を制圧して幕府が封建制を一変させるべきという意見書を提出する。しかし大政奉還が行われて薩長政府が成立することになってしまう。福沢は新政府からの誘いを断って在野で活動することを決意する。彼は若い世代の教育に力を入れ、在野の言論人として生きる道を選んだのである。

 その後、自由民権運動が盛り上がって議会開設を求める声が強くなってくる。この時代に福沢は確固たる政治理論が必要と考え、1年かけて政治理論について多くの書を買い込んで読み込み「文明論之概略」を発表する。ここで西洋と日本の文明を比較し、日本の進むべき道を示している。この草稿で福沢は民会優先論(地方議会の設立を優先する)を語っているという。そして三田演説館を慶應義塾に建設し、ここで演説や討論という日本に存在しなかった概念を導入し、門下生の弁舌を鍛えることになる。この後には記した「民情一新」にはイギリス型の議会政治を目指すべきと訴えている。

 この頃、政府の中でも国会開設の議論が進んでいた。この時に民間で影響力のある福沢のことも話題に上る。そして福沢は伊藤博文、井上馨、大隈重信に呼び出され、政府の意見を伝える新聞の発行の依頼をされる。福沢は政府の御用新聞など御免と断るつもりだったが、井上に政府は国会を開設するつもりで、いかなる政党が進出しようとも多数を得たものなら政府を譲り渡す覚悟があると言われる。これに福沢は感動して協力を約束する。

 しかし福沢の思惑はものの見事に打ち砕かれる。明治十四年の政変で大隈重信が追放されたのである。イギリス型の議院内閣制を主張する大隈に伊藤が激しく反対したのが切っ掛けだった。その背後には井上毅が福沢の考えに強烈に反対し、その危険性を伊藤に訴えて彼の考えを一変させたことがあったという。井上毅は民衆に力を持たせることに危険を感じていたのである。大隈が政府から追放されると、その元で働いていた福沢の門下生も政府を去る。

 

 

政治家になることを誘われるが

 しかしその大隈が福沢の元を訪れる。立憲改進党を結成したので福沢にも加わって欲しいという依頼であった。ここで福沢の選択は政治家になるか、在野の道を続けるかである。これについては番組ゲストの意見は半々に分かれていた。私はここで政治を変えるなら政治家になるしかないだろうと考えるところだが、福沢は政治家の腹芸が出来ない人なのか、在野の道を貫くことになる。ちなみに私が福沢の立場だったとしても、私は逆立ちしても政治家には向かない性分のでお断りする(笑)。磯田氏は在野を貫いて黒幕のような立場になって欲しかったと言っているが、これは確かに私も同感。

 福沢はイギリス型立憲君主制を志向していたが、結局制定された大日本帝国憲法はプロイセン型の中央集権制の強いものとなる。政府と反対の意見の福沢には密偵が張り付いて、政府から危険人物として監視されることになる。そして東京からの追放さえ検討されたという。そして福沢は最後まで在野の言論人としてこの世を去る。

 

 

 という内容であるが、どうもこうしてまとめてしまうと、福沢諭吉という人物がどうにも中途半端に見えてしまうのは何なんだろう? 立派な理念を持って知識もあったのだが、それを現実に落とす方法論を持っていなかったと言うことだろうか。まあそういう気質だから政治家になるつもりはなかったんだろうとも思うが。結局頭でっかちの理想家というような印象になってしまう。もっとも理想だけでは政治は出来ないが、理想のない奴に政治をしてもらいたくないというのも本音である。

 結局のところ、明治新政府は藩閥政治の利権を手放せなかったんだな。何だかんだで日本の政府はこの頃から一貫して利権中心であるのが事実。現在なんか制度は整えたはずなんだが、国民の意識が低いせいで腐敗を極めている政権が安穏としている状況なわけで、要は制度云々でなくてまだ国民の意識レベルが低いまま今日まで来てしまっているのが日本と言うこと。うーん、確かにこう考えると福沢のように在野で国民の意識レベルを高めていくしかないのか。しかし今の在野の自称論客は国民のレベルを高めるどころか、より低めようとしているような連中が大半だったりする。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・幕府の海外派遣使節に同行した福沢は、イギリスの政治制度を学んで衝撃を受け、イギリス型議会政治を理想の政治形態と考える。
・帰国後、幕府主導で封建制を変革することを訴えるが、幕府は倒れて明治新政府が成立。福沢も役人となるように声がかかるが、彼は在野の道を選んで教育に力を入れる。
・やがて自由民権運動が盛り上がり、議会創設を求める声が強くなってくると、福沢も政治を学ぶ必要を感じて独学する。また三田演説館を建設して、門下生の弁論を鍛えることにする。
・福沢に大隈重信らから国会開設への協力を求められたことで自らの理想の実現のチャンスと考えるが、明治十四年の政変で大隈が追放されたことで頓挫する。これには福沢を危険視していた井上馨の動きが影響している。
・立憲改進党を設立した大隈は福沢に参加を求めるが、福沢は政治家になることを拒否して在野の言論人を貫く。
・結局は中央集権制の色彩の強い大日本帝国憲法が制定され、福沢は危険人物として政府から警戒されることになる。福沢は在野を貫いたままこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・福沢の目指していたところは現在はかなり実現したはずなんだが、結局は国民の方が福沢が目指していたレベルに達していないようです。しかしこれって、実はかなり絶望的でもある。

次回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work

前回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work