教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/24 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「逃げ上手な北条時行VS足利尊氏」

逃げ上手の若君

 今回は、北条氏最後のプリンスとして鎌倉幕府再興を目指して逃げまくった若様として知られ、最近になってコミックまで登場したという北条時行。なお以前に「英雄たちの選択」でも登場しており、今回の内容とかなりの部分が被る。

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北条時行を主人公とした松井優征の作品

 

 

5才の時に鎌倉幕府が滅亡、再興を託される

 北条時行は北条高時の次男として1329年に生まれている。彼には4才違いの兄がいて、彼が北条得宗家の後継ぎとなるはずだった。

 北条高時は既に執権の座を降りていたが、やる気が無くて遊び呆けていたと評判は良くない。そうこうしている内に1331年に大事件が発生する。後醍醐天皇が倒幕を図ったのである。しかしこの時は鎌倉から20万の軍勢を送って後醍醐天皇を捕縛、隠岐に島流しにしている。しかし後醍醐天皇は不屈である。翌年に隠岐を脱出すると伯耆の船上山に入ると全国の武士に倒幕のための蜂起を促す書簡を送る。蜂起した武士が船上山に集まる。

 幕府はこれを鎮圧するべく兵を送る。それを率いていたのが北条と密接な関係のあった足利高氏(後に尊氏と名乗ることになる)である。足利家は代々北条得宗家から正室を迎え入れており、嫡子の名には北条氏から一文字与えられる(高氏も北条高時から一文字もらっている)などもっとも北条氏に近い関係であった。

 しかしこの高氏が寝返ってしまう。それはいざ京都に行ってみたら思っていたよりも倒幕の気運が高まっていたからだという。このまま幕府がコケてしまったら自分も道連れになると後醍醐方に寝返ることにしたのだという。そして後醍醐方は京から幕府勢力を駆逐する。

 するとそれに呼応して新田義貞が挙兵して鎌倉に進軍する。この攻撃で鎌倉は落ち、高時は800人以上の家臣と自害する。こうして鎌倉幕府は滅亡する。しかし壊滅した鎌倉から逃げ延びたのが時行だった(この時、五才)。なおこの時に時行の叔父に当たる泰家が時行と兄の邦時を家臣に託して逃がしたという。しかし邦時は裏切りにあって捕まって処刑され、北条得宗家では泰時と時行のみが逃亡に成功したのだという。

 

 

諏訪氏の信濃に潜伏し、ついに挙兵する

 時行は諏訪盛高に託され、盛高は時行の保護といつかは兵を挙げて北条を再興することを頼まれたという。盛高は諏訪家の本家のある信濃を訪れ、本家の当主・諏訪頼重に時行を預ける。時行は北条家の再興を誓う

 倒幕の最大の功労者となった高氏は後醍醐天皇から厚遇され、尊氏と改名する。後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる改革に乗り出すことになる。しかし後醍醐政権成立直後から武士の不満が高まり、反乱が相次ぐことになる。そして1335年6月、京都で名門貴族の西園寺公宗の反乱計画が発覚する。彼は北条の生き残りである泰家と共に京都と鎌倉を制圧する計画を立てていた。彼の計画は京都で北条泰家が北陸では北条一族の名越時兼、そして関東で北条時行が挙兵する計画で、まず後醍醐天皇を自らの別邸に招いて暗殺する計画も立てていた。しかし弟の密告で計画が発覚、公宗は捕らえられ泰家も逃亡する。これで計画は頓挫と思われたのだが、ここで時行が諏訪頼重らと挙兵したのである。この時、時行は7才。

 時行らは信濃守護の小笠原貞宗とぶつかるが、軍勢を二つに分けて時行は上野に入って鎌倉街道を駆け下って鎌倉に向かう。そして1335年7月24日、鎌倉を奪還してしまう。後醍醐政権に不満を持つ武士が合流して時行軍が膨れあがったのが勝因だという。この反乱は後に中先代の乱と呼ばれることになる。当御代である足利家と先代である北条家の間と見られたのだという。

 

 

尊氏に鎌倉を奪還されて再び逃亡する

 しかし時行の前に尊氏が立ちふさがる。尊氏は後醍醐天皇に鎌倉への出兵の許可と、それに際して総追補使と征夷大将軍の位を求める。これは源頼朝を意識してのものだという。しかし後醍醐天皇はそれを渋る。後醍醐天皇とすれば、尊氏がそのまま頼朝のように鎌倉で幕府を開いてしまうことを懸念したのだという。こうして後醍醐天皇の中に尊氏に対する不信感が持ち上がってくる。

 結局尊氏は独断で出兵する。時行らは軍を西に派遣することを決めるが、その矢先に鎌倉が台風の直撃を受け、大仏殿に避難していた時行の軍勢の500人が倒壊に巻き込まれて圧死してしまう。時行は残った軍勢を西に向かわせ両軍は激突する。しかし連戦連敗で8月19日後には鎌倉を奪還されてしまう。こう言えば時行軍は弱かったように聞こえるが、実際にはかなり善戦しており、台風の被害がなかったら結果は逆になった可能性もあると言う。時行に運がなかったのか、尊氏に運があったのか。

 ここで時行軍の43人が自害する。これは時行も自害したと思わせるためだったとも言われる。時行は実は鎌倉から逃亡している。なお叔父の泰家は翌年に信濃で挙兵するが戦闘後に行方不明となり戦死したと思われるとのことで、いよいよ時行が北条得宗家最後の生き残りとなる。

 この後の時行の消息はしばらく不明だという。これについては伊豆に潜伏したという説と信濃に潜伏したという説があるという。実際に信濃には大鹿村に時行が隠れていたという伝説があるという。桶谷が「王家の谷」だったとか、北条坂が存在するという話は「英雄たちの選択」でも登場した話。

 

 

南北朝の対立の中、南朝に荷担して戦うがついに処刑される

 時行たちに勝利した尊氏だが、後醍醐天皇の京に戻るようにという要請に従わずいつまでも東国に居座る。これで尊氏の謀反を疑った後醍醐天皇は尊氏討伐の命を出し、ついに両者は決裂することとなる。この二人の争いは南北朝の内乱につながるのであるが、ここで時行は南朝の後醍醐天皇に配下に着くことを選ぶ。時行は後醍醐天皇自身には恨みはなく(父の高時が亡くなったのは行いが悪かった自業自得だと考えていたという)、それよりも北条家を裏切った尊氏を許せない気持ちが非常に強かったのだという。

 南朝方で戦い続けた時行だが、後醍醐天皇が亡くなると南朝方は弱体化し、時行の動きも少なくなっていく。再び歴史に登場するのは1352年で、この時には時行は24才となっていた。尊氏が弟の直義と対立して内乱状態になっている時、尊氏が直義を討つために出兵した際に南朝軍が京を奪還、さらに尊氏軍を背後から突こうとする。この時にこの軍勢に時行が加わっていたという。南朝軍は一度は鎌倉を奪還するが、10日ほどで尊氏の反撃で敗北する。この時も時行は逃亡に成功するが、翌年ついに尊氏軍に捕らえられて処刑される。こうして北条得宗家再興の夢は断たれる。


 以上「逃げ上手の若君」について。全くもって不屈と言うべき人物であるが、結局は徐々に体制を固めていく足利尊氏には勝つことが出来なかったということである。英雄たちの選択では磯田氏が「若いのだから時間を味方につける手があった」と言っていたが、実際に私も東北辺りでじっくりと力をつけてから一気に攻め上ればという気がする。それとどうも鎌倉奪還に固執しすぎていたようにも思える。

 もっとも時行が激しく戦っていたのは10才未満のことであり、現実には時行が采配を振るっていたとは考えにくい。実際は誰か側近が付いていたのだろうと思われるが、その人物のことが一切出てこないのも謎である。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・北条高時の次男の時行は、5才で鎌倉幕府滅亡の際に家臣の諏訪盛高に託されて逃亡する。
・その後、諏訪本家の頼重に匿われつつ北条得宗家の再興を狙う。そして1335年、後醍醐天皇への反乱計画が京で持ち上がったときに挙兵する。
・時行の軍には後醍醐政権に不満を持つ武士たちが合流し、ついには鎌倉を奪還することに成功する。
・足利尊氏は鎌倉への出兵の許可を後醍醐天皇に求めるが、尊氏がその際に総追補使と征夷大将軍の位を求めたことから不審感を抱いて拒絶する。しかし尊氏は無許可で出兵する。
・時行は迎撃を試みるが、折悪しく鎌倉を襲った台風のせいで軍勢に犠牲が出、尊氏軍と戦ったものの敗北、10日ほどで鎌倉は奪還されてしまう。
・この時に時行方の43人が自害、時行も死んだと思われていたが、実は逃亡に成功していた。
・一方、東国から帰ってこない尊氏に不信感を抱いた後醍醐天皇は尊氏の討伐令を出し、ついに両者は決裂、これが南北朝の対立につながることになる。そんな中、時行は南朝方に荷担して後醍醐天皇の配下となる。
・しばし南朝方で戦闘していた時行だが、後醍醐天皇の死で南朝が弱体化するとその消息は定かでなくなる。しかし24才の時、尊氏と弟の直義の対立に乗じて出兵した南朝軍に参加、一時鎌倉の奪還に成功するが、尊氏の反撃で再び鎌倉を失う。
・この時も時行は逃亡するのだが、その1年後、ついに捕らえられて処刑される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・それにして突然に出てきては大暴れし、叩いても強かに逃げ延びる敵のプリンスって、尊氏にしたらかなり嫌な相手だったろうな。反尊氏派にしたら歩く大義名分のような存在だし。もっとも時行自身は何だかんだで利用されただけって気もするが。

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