教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

1/26 BSプレミアム 英雄たちの選択 「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」

信長最大の敵だった本願寺

 今回は畿内統一を目指していた信長の前に立ちはだかって11年もの頑健な抵抗を続け、信長最大の敵とも言ってよい石山本願寺である。

 足利義昭を奉じて上洛したことで戦国の世の中心に躍り出た織田信長。浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで討ち破った信長が次に目標としたのは本願寺であった。大坂の地は水陸交通上の要衝であり、それは遠く海外にまでつながっていた。まさに富貴の港である大坂を、信長は手に入れることを考える。しかし本願寺は単なる坊主の集団ではない。一向宗の門徒は各地に散らばり、数十万の門徒を抱える一向宗の勢力は強かった。しかも鉄砲戦術に長けた雑賀衆を傭兵として雇用するなど戦国大名なみの武装集団であった。実際に宗主の顕如についても、鎧を着けて武装した肖像も残っているという。

 大坂の地の戦略重要性を重視していた信長は本願寺に対して立ち退きを要求するが、それを本願寺の顕如はそれを拒絶、1570年9月ついに反信長の兵を挙げる。挙兵した本願寺勢は周辺の織田勢に攻撃を仕掛け、わずか一日でそれを退ける。

 本願寺の強さの秘密はまず石山本願寺が要塞であったこと。例によって千田氏が登場して検証しているが、本願寺の堅固さは後にこの地に秀吉が築いた大坂城の堅固さにも通じる。河川の多い大坂の中にそびえる上町台地の地形の利はまさに天然の要害である。また籠城戦に不可欠の水も十二分に湧いていた。なお番組中で磯田氏は、本願寺に天守閣と高石垣を加えれば信長や秀吉などの戦国時代の城にそのままなると言っている。

 

 

本格的攻略に乗り出すものの大苦戦する

 信長が本願寺と戦端を開くと共に反信長包囲網が結成されることになる。信長はこれに対して各個撃破で臨むことになる。将軍を京から追放すると、浅井・朝倉を滅ぼす。そして畿内周辺での反信長勢力は本願寺のみとなる。

 1576年、本格的に本願寺の攻略に乗り出した信長は大軍勢で本願寺を取り囲む。しかし数百丁の鉄砲を装備する本願寺はこの攻撃を撃破、しかも前線で兵を鼓舞していた信長自身まで足を撃たれて負傷するという事態まで発生する。これで信長は力攻めを諦めて持久戦に転じることにする。この時に包囲網に参加したのは荒木村重や明智光秀など織田軍の精鋭である。しかし本願寺の完全封鎖のためには海に面した木津川口を封鎖する必要がある。信長は水軍を編成して木津川口の封鎖を試みるが、本願寺が兵糧輸送を依頼した毛利が、村上水軍を中心とした艦隊を派遣、これが第一次木津川口の戦いとなる。毛利艦隊は焙烙火矢などの新兵器を駆使して織田水軍を散々に打ち破る。さらにこれに呼応して陸でも本願寺勢が討って出て、包囲していた織田勢を大いに打ち破り、大坂には本願寺勢の勝ち鬨が響き渡ることになる。

 なお信長の苦戦の理由として、本願寺はそれまでの大名の勢力とは根本的に異なるということが上げられている。本願寺の信徒はひたすら念仏を唱えれば極楽往生できると考えており、この戦いは一種のジハードである。死兵と化している宗教戦士のたちの悪さは、今日でも軍事大国アメリカが戦力では圧倒的に劣る中東のイスラム国などに手を焼いていることからも分かる。つまり信長は既にこの時にアメリカに400年先駆けて「宗教勢力を敵に回したときのたちの悪さ」を実感する羽目になっていたことになる。

 

 

相次ぐ謀反で劣勢に、和議申し入れで時間を稼ぎつつ新兵器を投入する

 しかもさらに信長の窮地に追い打ちをかけるように本願寺包囲網に参加していた松永久秀が反乱、さらに摂津の荒木村重も謀反する。いずれも本願寺に内通していた。特に摂津を領していた荒木村重の謀反は本願寺包囲網が完全に崩壊してしまうことを意味している。この期に乗じて毛利水軍も本願寺に物資を運び込むべく600隻の大艦隊を淡路島に集結していた。

 ここで信長の選択となる。一旦本願寺と講和するか、それともあくまで攻撃を続けるかである。なお信長は既にこの時に毛利水軍と戦うための新兵器を用意していた。これが鉄甲船である。今までは鉄甲船は鉄板で覆った装甲船と考えられてきたが、この番組では大砲や長銃を搭載した南蛮船ではないかとしている(近年ではこの説が強いらしい)。なお部分的に鉄板の装甲をしていた可能性はあるだろうとしている。

 これに対して番組ゲストの意見は和議を結ぶというものが多数、さらに共通していたのは和議を結ぶにしても時間稼ぎに過ぎないのでいずれ全面決戦に挑むというものである(ちなみに戦闘継続の意見は「和議を結んでも本願寺は信用できないから」というものであった)。そして実際の信長の行動だが、ここで信長は天皇に仲介してもらって本願寺と和睦を進める。しかしその一方で信長は新造船を木津川口に配備して和戦両様の構えを見せる。戦況が有利だった本願寺は和議に応じる理由などなく、その2日後第二次木津川口の戦いが勃発する。この戦いで織田水軍は巨大軍船の火力で毛利水軍に大打撃を与えて勝利する。もっともこの戦いは織田軍の一方的勝利ではなく、会戦の後も本願寺に兵糧を運び入れたという記述が資料に見られるという。

 海戦に勝利しても完全封鎖が不可能とみた信長は外交戦に討って出る。まず荒木村重配下の武将たちを次々と調略して村重を孤立させる。また備前の宇喜多や九州の大友と同盟して毛利本国を牽制、本願寺を支援する余力をなくさせる。そして1569年、ついに孤立した村重は逃亡、有岡城も陥落する。これで大坂湾周辺の制海権を取り戻すことに成功する。そして翌年4月、兵糧不足に陥った本願寺はついに調停を通して和議を申し入れ、顕如は紀州へと落ち延び、信徒たちも大坂を去る。こうして信長は大坂を手に入れたのであるが、その2年後に本能寺で光秀に討たれることとなる。

 

 

 本願寺との戦いの経緯自体には特に目新しい話はなかったが、興味深いのは鉄甲船が鉄板を貼った船でなくて巨大な南蛮船だったのではというものである。確かにこの方が理屈に合うと私も考える。実際に鉄甲船については私も以前から多くの疑問を持っていた。鉄板を貼った巨大船など機動力が皆無に等しく、いくら鉄板で防禦したところで毛利水軍が機動力で攪乱して打ち破ることは困難ではないと考えられたからである。いくら意表を突かれたとしても、海戦に長けた村上水軍がこの時にはあまりに稚拙な戦い方をしたことになってしまう。それよりは磯田氏の言うように、南蛮船の機動力で毛利水軍の攻撃をかわしたうえで重火器の火力で相手を制圧したのではという方が納得がいく。私もこの海戦について「これなら納得がいく」という回答を初めて得た気がする。

 なお信長が導入したのが巨大な南蛮船だったとしたら、日本で建造したものではなくてスペインなどから借用した可能性もあると思われる。スペインなどから借用した南蛮船を改造した可能性などもありそうである。それなら戦闘終了後にスペインに返却していたら、この後の戦いで鉄甲船が登場していないという理由も説明が付くことになる。もっともそうだとしたらスペイン側から「信長に船を貸し出した」という何らかの記録が出て来ても良いはずであるが、目下のところはそのような記録が見つかっていないのがネックではある(今後大発見が登場する可能性はあるが)。

 ちなみに宗教勢力は普通の戦い方では降伏しないから、結局信長は長島の一向一揆のなで斬りとか比叡山大虐殺(これは最近は否定する説もあるが)とかになったという話も出ていたが、信長の大虐殺を肯定するわけではないが、宗教に根ざした反乱を制圧しようとすると結局はこうなってしまうというのは事実ではある。草の根レベルで狂信に基づいて反乱するから、中心をたたいからそれで終了とならないたちの悪さがある。中東でいくらテロリストの拠点を叩いても、その後で自爆テロで犠牲が増加するのと同じ。結局のところ宗教勢力との戦いは、情報戦で相手を堕落させていく(原理主義から世俗派に転じさせる)のがもっとも効果的で根本的なんだが、これは時間がかかるから。しかし基本的に現世に大きな不満がなくなれば、誰も命を捨てて極楽浄土を目指そうとはしなくなる。だから国民に安心して生きていける環境を提供するのは重要。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・畿内統一を進めていた信長にとっての一番の難敵は本願寺であり、その戦いは11年の長きに及んだ。
・本願寺は鉄砲戦に長けた雑賀衆を傭兵に雇い入れて武装していた上に、本願寺自身が大坂の上町台地に陣取る難攻不落の要塞であった。
・浅井・朝倉連合軍を姉川の合戦で打ち破った信長は、交通の要衝であった大坂を支配するために本願寺に立ち退きを要求するが、顕如はこれを拒絶して反信長の兵を挙げ、周辺の織田軍に大打撃を与える。
・反信長包囲網を相手にすることになった信長は、各勢力を各個撃破、その後に本願寺の攻略に本格的に乗り出す。
・包囲しての力攻めは鉄砲を大量投入しての反撃で失敗、持久戦に切り替えるが物資の輸送を断つには木津川口の封鎖が不可欠であった。
・しかし木津川口を封鎖使用した織田水軍は毛利水軍に壊滅させられる(第一次木津川口の戦い)。
・さらに松永久秀、荒木村重らの謀反が続き、信長は劣勢に追い込まれることになる。ここで信長は調停を通して一旦本願寺に和議を持ちかけるが、その一方で毛利水軍に対抗するべく新兵器(巨大南蛮船)の配備を進めていた。
・優位に立っていた本願寺は和議に応じず、第二次木津川口の合戦が勃発する。ここでは織田軍が新兵器の威力で勝利するが、それでも完全に物資の搬入を阻止することは不可能であった。
・信長は戦略を外交戦に切り替え、荒木村重の配下を調略で切り崩し、また宇喜多や大友と同盟して毛利本国を牽制する。そして荒木村重はついに逃亡して有岡城は落城、これで制海権を取り戻した信長は優位に立つ。
・兵糧の尽きた本願寺はついに信長と和睦し、顕如は本願寺を出て紀州に落ち延びる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今回の海戦の話については「ああ、これか」って感じでしたね。今まで聞いた説の中では一番説得力があるように感じる。

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