教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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1/31 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「最長将軍!11代・徳川家斉の真実」

半世紀も将軍を務めた家斉

 将軍在位50年と、2位以下を大きく引き離して圧倒的な長期政権を誇るのが第11代の徳川家斉である。その一方で、その治世は「長いだけで何もしていない」とか言われ、子作り将軍の異名もある。家斉とはいかなる将軍であったのか? ちなみに家斉については以前に「英雄たちの選択」でも放送されているので、内容的には一部被るところもある。

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ダークホース的に将軍位に付く

 家斉は御三卿の一橋家の生まれで、二代の治済の嫡男である。御三卿とは田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の三家で吉宗が設けた。将軍に子がない場合に将来の将軍を自分の血筋から出すために設けた制度でもある(この頃になると御三家は既に将軍家からかなり遠くなってしまっている)。10代将軍・家治の後継ぎは嫡男の家基がいた。なお家基に何かがあった時の第二の候補が田安家の七男の賢丸だが、これが後の松平定信だという。そして後の家斉こと豊千代は第三候補だったという。

 しかし家基が18才の若さで急死すると、9才の豊千代が次期将軍に決まったのだという。定信は突然に白河松平家に養子に行かされ、将軍候補から外されたのだという。この裏では息子を将軍にしたい一橋治済の暗躍があったという。彼は老中の田沼意次と手を組んで定信を追いやったのだという。なるほど、松平定信は田沼意次に対して異様な敵意を持っていたのだが、それはこういうところから始まっていたか。

 そして豊千代は15才で11代将軍・家斉となる。なおこの時、家基は毒殺されたという噂が江戸城内で流れていたという。まあ治済の暗躍を考えたらないとは言えない話でもある。

 しかし家斉が将軍になるとすぐに天明の打ち壊しが起こる。田沼派はこの騒動の責任をとる形で一掃されてしまう。そして老中に就任したのが松平定信である。一橋治済にすると息子を将軍にさえしたらもう田沼は不要で、むしろ徳川家で幕府を固めようと考えたのだろうという(相当のワルである)。

 

 

定信と対立してついには更迭する

 老中となった定信は徹底的な質素倹約を推し進める。家斉も最初は殊勝に定信に従っていたらしいが、緊縮経済のせいで町からは活気が失われて景気が停滞する。さらにはこの倹約が幕府内に及ぶにつれ、根っこが遊び人の家斉は窮屈さを感じ始め、徐々に定信と溝が出来はじめる。そして家斉が父親の治済に大御所の号を贈ろうとした時、定信が先例がないと猛反対(大御所とはそもそも将軍を務めた者の称号である)、これに家斉がぶち切れて「手討ちに致す」になりかけたらしい。結局なんだかんだで家斉は定信を更迭し、その後任にイエスマンの水野忠成をつける。

 もっとも家斉は一応家臣を見る目はあったらしく、水野忠邦を取り立てたりなど、それなりに優秀な人材を起用はしているという。家斉は三国志好きで、自分で描いた諸葛孔明の絵を見ながら「幕臣には孔明のような者はいないな」とぼやいたそうな。これに家臣連中はギクッとしたそうだが、続けて「そりゃ、上に劉備元徳がいないもんな」と言ったそうな。とりあえず自分のことは良く分かってはいたようだ。

 

 

55人も子を作るが、それが幕府の危機を呼ぶ

 家臣がそれなりに揃っているから政治の方は一応は滞りなく回る。そうなると家斉の遊び人の血が騒ぐのか、大奥通いが始まる。強精剤としてオットセイの睾丸の粉末を飲んでいたのでオットセイ将軍などとも呼ばれているとか。オットセイが効いたかどうかは定かではないが、生涯に持った側室の数は40人、その内の16人が懐妊、男子25人、女子27人が生まれたそうな。流産した子供も含めると55人も子を作ったらしい。2人の側室が同じ日に出産したことまであったそうな。一応、将軍として血筋を絶やしてはいけないという使命感もあったと番組はフォローしているが、実際は単にスケベだったようである(昔、徳川家の子孫がある番組で「徳川の血はスケベの血」と言っていたのを見たことがある)。

 しかしこの子供たちが幕府の危機につながる。55人の子供のうち、男子14人、女子13人が健康に育ったのだが、後を継ぐ嫡男はともかく、他の子供たちを片付ける必要がある。それで結局はこれらの子供を大名たちに無理矢理押し付けていくのだが、そうなると代わりに受け入れた藩の幕府への借金を免除してやったり、姫に多額の持参金を付けたりなどで幕府の支出はドンドンかさんでいく。その上に浜御殿を莫大な費用をかけて整備などの遊興三昧。当然のように大奥も巨大化し、大奥の費用が幕府の年間経費の1/4を占めるという状態にまでなってしまう。

 

 

貨幣改鋳という奇策で財政危機を切り抜ける

 こうなると当然幕府の懐がおかしくなる。定信がケチケチ政策で100万両を備蓄していたらしいが、それをあっという間に浪費して、さすがにこれが半分になったところで家斎もこのままではまずいと考えたのだという。そしてイエスマンの水野忠成に命じたのが貨幣改鋳だという。要するに流通している小判を回収して、金の含有率を下げた新たな小判を発行することで収入が増えるという方法である。家斎は在任中に8回も貨幣改鋳をおこなったという。これで幕府の収益は1550万両(現在の価値で1兆5500億円)にもなったという。しかしまさに金の量を増やすのだから、当然のようにインフレが発生する。その結果、米などは7割も価格が上昇することになり、庶民の生活を圧迫することになったという。

 もっともその一方で武士が浪費をするということは金が世の中に流通するということで、庶民文化は爛熟期を迎える。北斎や広重の風景画が持て囃されたのがこの時期で、さらには文学でも「東海道中膝栗毛」が登場し、馬琴は「里見八犬伝」の執筆を始めている。ある意味で超積極財政とも言える。その結果として、庶民に大きな不満は特になく、これがまた長期政権を支えることになったという。

 さらに家斉は伊達に精力絶倫だったわけでなく、健康には気を使っていたという。毎朝散歩を欠かさず、ショウガを健康食として毎日摂取、さらに白牛酪というチーズのようなものを好んで食べていたという。その結果、1837年に65才で家慶に将軍位を譲るまで50年間将軍を務めることになったのだという。ちなみに家斉が亡くなったのはその4年後とのとこと。

 まさに遊び呆けたイメージのある将軍だが、それが出来たのはこの時に幕藩体制が頂点を極めていたからだという。しかし家斉の死後は幕府は下り坂に入り、幕府が滅んだのは27年後である。

 

 

 結局のところ、こうやって振り返っても50年の在位中にこれをやったという実績は特になく、ひたすら子作りに励んでいたということになってしまうようである。しかし彼が遊び呆けていたことが結果として社会を自由な気風に満たし、景気もよくなれば文化も振興したのであるから結果オーライな幸運な人物である。もっともこれ以降の幕府の急激な傾きぶりを見ると、やはりツケはあちこちに来ていたように思える。

 まあ馬鹿殿が、馬鹿殿をしていられる内はまだ国に余裕があると言うことか。余裕がなくなってくると、馬鹿殿が登場したら一瞬で国が滅ぶ。徳川幕府も最後の最後は決して馬鹿ではない慶喜が就任したが、もうその時点ではどうしようもなくなってしまっていた。まあ家斉については「もっとも幸運な将軍」と言うべきか。なお「英雄たちの選択」では家斉はすべての大名を血縁にしてしまって日本を血縁でまとめてしまうということを考えていたのではとしていたが、恐らく単にスケベだっただけで、そこまで深い考えはなかったはず。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・家斉は元々は将軍の後継者としては三番手だったのだが、父の治済と田沼の企みで二番手の松平定信が排除されたことで、前将軍の嫡男が亡くなったことから11代将軍に就任する。
・家斉が将軍に就任後、治済は田沼派を一掃して松平定信を老中に迎えている。
・家斉は最初は定信の緊縮路線に従っていたが、その内に窮屈になってきて対立、結局は父の治済に大御所の号を与えようとしたことに定信が反対したことがきっかけとなって、ついに定信を更迭する。
・定信更迭後の家斉は御殿を整備したり、大奥を拡充したりなどの遊興の限りを尽くし、55人もの子を儲ける。
・その内の半分が成人になり、家斉は持参金付きで各地の大名に押し付けるが、結果としてはこれが幕府の財政を危機に追い込むことになる。
・家斉はこの危機を貨幣の改鋳で切り抜けるが、結果としてはインフレを発生させることにもなる。
・しかし一方で武士の浪費は社会に金を回すことになり、景気はよくなって庶民文化もさかんとなる。浮世絵や戯作本などがこの時に人気となる。
・結果的に家斉は50年の長きにわたって将軍を務めることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・やっぱりどう考えても、優秀な人ではなくて幸運な人だなという感想しか出てこんな。しかしたまにいるんですよ。こういう特に何の能力も無いのに、不思議とすべて上手く行く人って。そう言うのを見ていると、やっぱり世の中って不公平だよなと感じて、司馬遷が「天道是か非か」と吠えたのも分かる。

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