教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/7 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「若武者 上杉謙信」

兄を補佐することを期待されていた謙信

 メジャー武将の若い頃に注目する若武者シリーズ。以前に武田信玄と徳川家康をやってますが、今回は上杉謙信が登場です。まあこの辺り、ネタは出尽くした感があるので、少しでも切り口を変えてみるぐらいしか手がないのは分かりますが。

 上杉謙信こと長尾景虎は越後の守護代の長尾為景と虎御前の間に生まれる。幼名は虎千代だった。為景は戦の鬼と言われた冷徹無比な武将で越後の支配を狙っていた。そして守護の上杉房能を武力で自害に追い込むと、息子の定実を名ばかりの守護に置いて実質的に越後を支配する立場となった。

 その血を引いたのか幼い日の謙信も腕白少年で、喧嘩をしては相手を泣かせていて鬼若殿と呼ばれていたという。しかし観音を信仰していた母から弱い者イジメをしないように育てられていたので、年下の者や弱い者には手を出さず、専ら年長の者を叩きのめしていたらしい。

 強引な為景のやり方は当然ながら国人領主などの反発を招き、蜂起が頻発することになる。結果として為景は戦に明け暮れることになる。そして名ばかり守護の定実の実家の上条家が蜂起して上条の乱が発生する。その最中の1536年、7歳になった謙信は為景によって長尾家の菩提寺である林泉寺に送られる。これについては為景が謙信を嫌っていたとか、謙信が乱暴者過ぎて持て余したなどと言われているのだが、実のところはこの時の為景が敵が春日山城まで押しかけてくるなといつどうなるか分からない状態であり、謙信を守るために寺に行かせたのではとしている。為景の跡取りは謙信の兄の晴景に決まっていたが、晴景は病弱だったために軍の指揮を謙信に託すつもりであったという。

 

 

兄の陣代として出陣した14歳での初陣で華麗なる勝利を収める

 何とか上条の乱を鎮圧した為景は家督を晴景に譲る。その頃の謙信は寺で住職の天室光育から仏の教えだけでなく、兵法なども仕込まれていたという。謙信は城攻め遊び(一種のシミュレーション)で見事な才を示していたという。また謙信が兄を侮って家を乱さないように、儒教の忠誠心や道徳心を徹底的に仕込まれたという。

 謙信が寺に入った6年後、父為景が亡くなる。慌てて春日山城に駆けつける謙信だが、為景の死が国人達の反乱につながったために、万一に備えての甲冑を着けての葬儀となったという。

 そして1543年、14歳で春日山城に戻った謙信は元服して景虎を名乗る。そして反乱を起こした一族の長尾平六の討伐のために、兄の陣代として栃尾城に援軍として向かう。これが謙信の初陣だが、この戦いで謙信ははやる将兵を抑えて敵の攻撃を凌ぎつつ、密かに背後に一部の兵を回り込ませて挟み撃ちにするという戦術で長尾平六を討ち取る大勝利を収める。その後も謙信は連戦連勝で否応なくその武名は轟くこととなる。家中からは病弱な晴景よりも謙信に守護代になって欲しいと言う声が高まっていく。

 結果的にこの後に謙信が守護代となるのであるが、それについては兄と争って家督を奪い取ったなどとも言われているが、実のところは晴景が自ら家督を謙信に譲ったというのが事実のようである。どうしてもそれを引きうけようとしてない謙信を説得するために守護の上杉定実まで説得に協力したという。謙信は自分はあくまで晴景の子が一人前になるまでのつなぎとして家督を継ぐことを承諾する。この時謙信19歳。

 

 

越後の国主となる

 その2年後、守護の上杉定実が亡くなり、後継者がいないために守護が空位となる。事実上越後の国主となっていた謙信の元に将軍足利義輝から謙信を正式に国主として認める主旨の書が届く。京で三好と対立していた義輝は謙信を味方に引き入れようと考えていたのだという。これは謙信の武力もさることながら、長尾家が高級繊維だった青苧の売り上げや金山の収益で経済力が強かったことも理由にあると言う。

 なお謙信は生涯独身を貫き子を儲けなかったのだが、これは彼自身が兄の子に家督を継がせるまでの中継ぎという認識でいたからだという。しかし兄の子が亡くなった後もそれを通したというのだから、やはり義理堅いというだけでなく、女に興味がなかったのではという気もしないではない。だからこそ上杉謙信女性説なんてのまで巷ではあるわけだが。

 そして最後は川中島の戦いなのだが、上杉謙信がそもそも川中島で武田信玄と戦うことになったのは村上義清に助けを求められたからである。結果として謙信は各段得になるとも思えない戦いを信玄との間で延々と繰り返すことになるのだが・・・。恐らくこれがなかったら信長の出番はなかったのではというのが私の考え。謙信と信玄については無駄につぶし合いをしてしまったという感が強い。

 

 

 以上上杉謙信であるが、正直なところ彼については「一体何を考えていたのか分からない」というところがあります。とにかく戦には滅法強いんだが、その強さを武田との川中島とか、関東出兵とかあまり得になるとも思えないところで浪費したという感が強い。幕府を盛り立てるつもりなら、京に乗り込んだら三好程度は謙信なら一蹴だったと思うのだが、そういうこともやっていない(まあ途中に朝倉はいるし、背後に北条やら武田がいるからホイホイと動けないのは事実だが)。とにかく戦術面に関しては天才的なんだが、その背後に戦略が見えないという奇妙な武将であり、単純な戦馬鹿だったのかという気もしないではない。

 また生涯独身というのも謎なところ。最初は兄貴に対して義理を立てていたにしても、兄貴の子が死んでからまでもそれを貫徹したんだから、こりゃ意固地というか変人というか。そもそも領主たる者後継ぎを残すのも仕事なのに、それを全く果たしておらず、結果としてはそれが祟って上杉家は謙信の死後に内紛を起こして没落する羽目になるんだから、将来のこと考えてたのか? という疑問も湧く。

 まあいろいろな意味で意固地な変人だったというのはあるかもしれない。またやっぱり女嫌いだったのかな? 謙信女性説は問題外としても、謙信オネエ説はあり得るかもしれない。無敵の上杉軍団はオネエでアル中の大将が先頭切ってバーサーカー軍団引き連れて突撃かけてくるわけだから、そりゃまともな奴ならいろいろな意味での恐怖で逃げ出すわ。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・上杉謙信は越後の守護代の長尾為景と虎御前の間に生まれ、越後を手に入れるための戦いに明け暮れていた為景は、謙信が7才の時に彼を守るために寺に預ける。
・家督は謙信の兄の晴景が継ぐことになっていたが、病弱であったために謙信は軍を率いて兄を助けることが期待されていた。そのことから寺では兵法などが指導され、さらに忠誠心や道徳心も教育される。
・その6年後、父が亡くなると共に越後の国内で国人の蜂起が急増する。謙信は14歳で元服すると兄の陣代として反乱鎮圧に出陣。鮮やかな手際で大勝利を収める。
・連戦連勝の謙信に守護代になった欲しいという謙信待望論が家中で湧き上がってきて、最終的に謙信は家督を継ぐことになる。兄から家督を奪ったと言われているが、実は兄が自ら謙信に家督を譲っている。
・しかし謙信はあくまで兄の子が一人前になるまでのつなぎとして家督を受けている。
・謙信の武名と長尾家の財力は中央にまで伝わっており、将軍義輝は味方に引き入れたいと謙信を越後国主に任命する。
・謙信は私欲のための戦いはしないと宣言し、川中島の戦いも村上義清に救援を頼まれてのものである。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあとにかく何かと興味深い人です。武田信玄とかはかなり合理主義だから理解しやすいんですが、謙信ってとにかく行動が非合理なんですよね。その一方で軍事作戦だけは超合理的。本当によく分からん人だ。

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