教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/9 BSプレミアム 英雄たちの選択 「足利義満 人生最大の危機 ~発覚!大謀反計画~」

室町幕府最盛期を築いた足利義満

 今回の主人公は南北朝統一をはたして室町幕府の最盛期を築いたと言われる三代将軍・義満。そこに至るまでの彼の苦闘を描く。

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足利義満

 

 

幕府の権威を高めることに力を尽くす

 義満が生まれた頃は、室町幕府は安泰とは言いがたい状態であった。南北朝の対立があった上に幕府内でも尊氏と弟・直義の対立があって世の中は乱れに乱れていた。尊氏は有力大名を守護に任命していたが、混乱の中で幕府の権威は失墜して守護大名は勝手な振る舞いを始めていた。この時代の幕府は江戸幕府などと違って絶対的な権威を持っていなかった上に、そもそも直轄の軍勢もほとんど持っていないので、守護大名が結託して反抗すればそれを鎮圧する力はなかった。

 二代目の義詮の時代には事態はさらに深刻化し、幕府内で失脚した大名が南朝に寝返って幕府に反旗を翻すと言うことが相次いでいた。南朝方に京は奪われ、幼い義満は義詮とはぐれて取り残され、僧侶の衣に隠されてあわやで落ち延びるという事態になっていた。そんな中1367年に義詮は38才という若さで急死し、翌年義満はわずか11才で将軍となる。

 義満が将軍なった頃は、斯波、土岐、山名、細川といった有力大名が各地を支配しており、幕府の権威は依然として弱かった。義満を支えていた管領・細川頼之に不満を持つ守護大名が御所を取り囲んで頼之の罷免を求めた際は、義満はそれに従わざるを得なかった。義満は幕府の力を強めて守護大名を抑え込む必要性を痛感する。

 義満は諸国遊覧をして、各大名の地方の状況を視察すると共に味方になる勢力を調べることを行い、その結果として周防や長門を拠点としていた大内義弘と接近する。大内義弘は京に上ると義満の側近となる。

 義満は積極的に守護たちの子弟を抱え込むと馬廻衆という直轄の軍事組織を編成する。さらに守護の庶子たちを取り立てることで一族内の不和を誘おうとする。美濃・尾張・伊勢を支配する土岐頼康が亡くなった時は、嫡子の康行を美濃・伊勢の守護にしたが尾張は義満に出仕していた康行の弟の満貞を守護にする。目論見通り両者の間で抗争が勃発、義満はこれに介入して康行を一方的に謀反人と断じて討伐を実施、鎮圧後には土岐一族から伊勢を召し上げて土岐氏の弱体化に成功する。次に目をつけたのは山陰地方を中心に前後区の1/6を支配下に置く山名氏だった。当主の山名時煕に対して従兄弟の山名満幸が不満を持っていることを知った義満は、彼に接近して唆して時煕に戦いを挑ませる。しかし時煕が敗れて早々に逃亡したことで、義満の意図に反して争いは大きくならず介入の余地が発生しなかった。そこで次に時煕を許して満幸に難癖をつせて出雲を取り上げるということを行う。しかしこれに対して満幸がこのままでは山名家が滅ぼされると一族を上げて反乱を起こす。これが明徳の乱である。

 

 

反乱した山名を叩きつぶして権威を示す

 山名勢は5000騎の大軍で京に押し寄せてきた。京は守るに難い地だけに今までは敵が迫ると蜂起するのが通常だった。満幸は義満を京から追い出すと他の大名も味方に付くと踏んでいた。幕府方の将も京から一旦撤退することを主張する中、義満は都での正面対決を主張する。彼はあくまで京を死守することで幕府の権威を見せつけようとしたのである。

 実際に山名軍5000に対して、幕府軍1万4000で数の上では優位であった。とは言うものの、それを妨げるのが京の特殊な環境。街路が入り交じった京の町では当時の主力の騎兵がその機動力を発揮することが出来ず、数の利をそのまま活かすことが出来ないようになっていた。だから今まで攻められた側は京での防禦は放棄して一旦退くことを常に選択していたのである。

 しかし義満は大内裏跡の内野に目をつけていた。大内裏は鎌倉時代に焼けてこの地は広大な空き地となっていた。それまでは元大内裏と言うことで皆あえてその場での戦闘などは行わなかったが、義満はあえてそこに本陣を置いて広大な空き地で敵を迎え撃つことを考えたのだという。幕府方は義満直轄の馬廻衆5000に細川・畠山などの足利一門、さらに大内義弘らであった。彼らは内野で突入してくる山名軍を包囲して殲滅、重傷を負いながらも奮戦した大内義弘の活躍などで山名軍は殲滅される。

 戦いに勝利した義満は山名氏から8カ国を召し上げて、その勢力の大幅な弱体化に成功する。そして翌年1392年には南北朝合一を成し遂げ、将軍の権威を高めてその地位を確かなものにする。

 

 

思いもかけない大内義弘の叛逆

 1394年、義満は公家社会の最高位である太政大臣に就任。これで武家と公家の頂点に立つことになった。向かうところ敵なしとなったと思われた義満であったが、ここで想いもかけない事態が沸き起こる。これまで側近として協力してきた大内義弘が反乱を起こすのである。大内氏は外様とは言え、そもそも百済王朝の末裔を名乗っており朝鮮とも独自のパイプがあり、交易による富の蓄積もありプライドが高かった。義満から重用はされていたものの、独裁色を強めていく義満に不満が徐々に高まって来たのだという。

 そして1399年、大内義弘はついに堺に軍勢を送り込んで幕府に反旗を翻す。義弘は堺に1700の櫓を建てて要塞化する。堺は京に進軍するも、海路で撤退するも容易な要地であった。義満は説得の使者を送るが交渉は決裂、それどころか鎌倉公方足利満兼と結託して義満の排除を狙っていることが発覚する。鎌倉公方は東国を支配すると共に、将軍が悪政を行った場合にはそれを実力で是正する役割をも持っていた。この鎌倉公方が東国から軍勢を上げると共に、京周辺の土岐氏や山名氏の残党も蜂起して義満包囲網を築いていた。

 この危機に対しての義満の選択であるが、和睦の道を選ぶかあくまで武力討伐を実行するかである。番組ゲストは武力討伐が多数派であったが、実際にここまで義満の行動を省みるとここで妥協の余地はないだろう。そして実際に義満も断固とした武力討伐を決意する。義満は足利一門を中心に3万の討伐軍を編成すると堺に出陣、各地で放棄した土岐氏や山名氏の残党は守護大名に命じて撃破する。堺の大内勢は孤立するが、頼みの関東からの足利義満の軍勢は到着しなかった。海上は細川氏の派遣した海賊衆が封鎖、陸上からは討伐軍が一斉攻撃をかけ、大内義弘は最後は自ら敵勢に突っ込んで壮絶な討ち死にを遂げる。

 なお足利満兼が動かなかった理由だが、これは義満が事前に鎌倉公方の重臣である上杉憲定に足止め工作を命令し、さらに奥州の武将達に鎌倉公方が留守中の鎌倉を窺う体制を構築させたことによる。足利満兼はこれらの奥州の動きと重臣の説得で動けなくなってしまったのである。大内義弘が討たれた後、満兼は全面降伏して謝罪の文状を三島大社に納めている。こうして義満は唯一の権力者となった。

 

 

 なお番組では、大内義弘が狙っていたのは謀反と言うよりも軍勢で御所を包囲して交渉する御所巻という強談判であったが、これを義満は正面から戦争で鎮圧したという指摘があったが、その通りのような気がする(本当に正面から謀反をするつもりだったら、堺に籠もるという動きが猛将大内義弘としては鈍すぎる)。義満は実に大胆不敵な人物に見えるが、ゲストは逆で「実は小心者だったから、自らを守るために次々と先手を打ったのでは」と見ており、磯田氏も戦争で強いのは「基本的に怖がり臆病者であって自分がかわいい人」と言っていたが、ある意味これは慧眼。

 またこの後の義満は大名達の格付けを行い、厳格な序列を定めることで社会を安定化させることになったとの話。序列がかっちりと定まると、一つ上に行きたいぐらいのせこいことは考えても、枠組みそのものを取っ払おうという発想にはなかなかならないのだとか。確かにこれは特に日本人の性分としてはありそう。

 また磯田氏は「義満が結局、その後の戦国時代のタネをいろいろばらまいた」という主旨のことを語っていたが、どうやらそのようである。私は義満とはもっと幕府の権威に乗っかった人というイメージを持っていたのだが、今回見ているとどうしてどうしてなかなかにハードボイルドで実力主義の悪党だったようである。まあ少なくともアニメ「一休さん」に登場していたあんなマヌケな将軍でないのは間違いない(笑)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・足利義満が将軍となったのは11才の時。当時の幕府は力が弱く、守護大名が結束して抗議してくると対抗することが不可能であった。
・義満は幕府の権力を高めるために、まずは大名の子弟を抱え込んで直属の馬廻衆を結成すると共に、大内義弘などを側近に取り立てる。
・さらに大名の庶子らを取り立てることで大名家内に後継争いなどを起こさせ、そこに介入することで大名の勢力を削ぐことを行う。
・しかしこれに危機感を抱いた山名氏が蜂起、京に大軍勢が迫る。これを義満は内裏跡地の内野で迎え撃ち、大軍勢の利を活かして殲滅、幕府の権威を高めることに成功する。
・だが独裁色を強めていく大内義弘が反義満で蜂起、さらに鎌倉公方の足利満兼と結託し、土岐氏山名氏の残党も蜂起するなど義満は危機を迎える。
・しかしこの危機を義満は断固として武力で鎮圧、鎌倉公方も義満に降伏するに至って彼の権力は確立する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ義満の剛腕振りがよく分かる内容でした。室町幕府は最初から基盤が弱かったので、単にボンヤリと引き継いだだけなら、恐らく義満の代で消滅してたでしょう。もっとも義満以降にはこれだけの器量の将軍は現れず、逆に義満のやり方に倣おうとした将軍は、強大化した戦国大名に討たれてしまってるんですよね。この頃の幕府って、江戸幕府とは根本的にその基盤がまるで違うんですよね。

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