教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/10 プレミアム ザ・プロファイラー「武将 真田信繁 六文銭の旗印」

真田幸村登場

 今回は「真田幸村」という名の方が有名な真田信繁。ちなみに信繁の名は武田信玄の弟で兄を影から支えながら川中島の戦いで散った武田信繁から取っていると言われている。名補佐役ともされた武田信繁にあやかりたいという願いもあると聞く。

 信繁は上田の小領主である真田昌幸の次男として生まれている。真田氏は最初は武田に属していたのだが、武田が信長に滅ぼされると小領主の立場で北条、徳川、上杉という強大な勢力の狭間で生き延びることを強いられることになる。この苦境を昌幸は各勢力に所属を変更しながら「表裏比興の者」と言われる巧みさで生き残っていく。

 

 

秀吉の元に人質に送られるが、そこで豊臣武将としての地位を得る

 その過程において信繁は人質としての生活を余儀なくされている。最初は上杉景勝の元に人質として送られている。なお信繁の初陣は2000の兵で7000の徳川勢を退けた第一次上田城の合戦とされている。この時、昌幸は徳川軍を城内に引き込むと一斉射撃で混乱させ、そこに城外から長男の信幸の兵が攻撃を仕掛け、3倍の徳川勢を散々に打ち破った。

 これで徳川と敵対することになった昌幸は、より有力な後ろ盾を得るべく信繁を秀吉の元に人質として差し出している。しかしこれが信繁にはむしろ幸いとなり、秀吉に気に入られた信繁は側近の馬廻に抜擢される。そして24才で官位を得て大名となり、豊臣性も与えられた。大谷義継の娘と結婚して豊臣家の家臣としての地位を固める。

 しかし秀吉が死去、関ヶ原の合戦を迎えることになる。この時に去就を定めるべく昌幸、信幸、信繁の3人の話し合いが持たれたが、昌幸と信繁は西軍に付くことを主張し、家康の重臣の本多忠勝の娘と結婚している信幸は東軍に付くことを主張、結局は親子兄弟で敵味方に分かれることになる。これが後に犬伏の別れと言われる。

 

 

徳川勢相手に奮戦するが西軍は敗北して流罪に

 上田に籠もった昌幸と信繁の軍は秀忠の軍を迎える。真田5000に対して秀忠軍は3万8000、圧倒的に多数の徳川軍を劣勢を装って城内に引き込むと集中砲火を浴びせるという先と同じ戦法で徳川軍を大混乱に追い込み、さらに信繁が追撃をかけて大軍を退ける。結局はこの戦いで秀忠は関ヶ原に遅参するということになる。

 しかし関ヶ原では西軍がわずか一日で敗れ、昌幸と信繁も降伏を余儀なくされる。2人は死罪にされるところであったが、信幸の必死の嘆願で九度山に流罪となる。

 九度山での信繁と昌幸の暮らしは、信幸が必死で仕送りをしていたが、かなり苦しかったという。そして九度山に来てから11年目、父の昌幸がこの世を去る。41歳になった信繁は故郷に「急に年を取って身体も弱くなった」という文を送っているという。

 しかし14年目に秀頼の使者がやってくる。豊臣家と徳川家の対立が深まって合戦前夜となっていた。秀頼の元に牢人が集まっており、信繁も息子の大介と共にはせ参じることになる。信繁が到着した時には牢人たちは10万に膨れあがっていた。信繁は城外に討って出ることを主張したが、賛同者はいなかった。結局は堅固な大坂城に籠城する策が選ばれる。しかし信繁はここで真田丸と呼ばれる出城を城外に建設する。この時、信繁44歳。

 

 

豊臣方に加わると真田丸で大活躍する

 河川に囲われた上町台地上の要塞である大坂城を攻めるには南側しかないとされている。ここに築かれた真田丸は、その南側を側面から防禦すると共に、囮のように徳川の兵を引きつけて打撃を与えようという積極的攻勢の意志も持った砦である。

 赤い甲冑で揃えた真田の赤備えは非常に目立つものであった。格好の標的と徳川勢は迫ってくるが、家康の命令で攻撃をかけずに待機していた。その兵達を信繁は部下に嘲り挑発させる。これにぶち切れて攻撃をかけてくる兵が現れると、他の兵も雪崩を打って攻め寄せてくる。そして兵が空堀に落ちたところで真田軍の一斉射撃が火を吹く。これで徳川軍は大損害を受ける。この惨状を見た家康は「戦い慣れない者が多すぎる。足手まといになっただけだ。」とこぼしたという。実際に関ヶ原以降争いはなく、合戦を体験していない将兵も多く、大名自身も代替わりで合戦経験のない者が増えていたという。なおこの戦いはたった一日に過ぎないが、この時に合戦での徳川勢の犠牲者の8割が出たとも言われている。結局は戦線は膠着、家康は信繁の調略を図り、10万石の大名に取り立てると持ちかけ、それが拒絶されると信濃一国を与えると持ちかけるが、信繁はこれに激怒する。

 野営を強いられる徳川軍は士気が低下。家康は和睦の道を探りつつ、大坂城に昼夜を問わず砲撃を続けた。するとその内の一発が淀殿の御殿を直撃、侍女に死亡が出て淀殿が動揺、家康との和睦に応じることになる。信繁は戦いを継続することを主張したが通らなかった。なお信繁はこれで家康が油断すると見て家康襲撃を目論んでいたが、牢人勢が不穏な動きをしているという情報に家康が警戒を解かなかったので断念したという話もある。

 

 

再度の戦いで家康本陣を急襲「日本一の兵」と称される

 大坂冬の陣が終わると豊臣の領土保全と秀頼達の安全の保証の代わりに堀を埋め立てることになる。そして真田丸も取り壊される。この時に信繁は故郷の兄に「まだどうなるか分からない」という文を送っているという。

 和睦は成立したが、それは牢人衆達には失業を意味することであった。彼らは大坂にとどまり続けた。秀頼も再戦派と和平派に挟まれて去就を定めかねていた。信繁は「気苦労が多い」という趣旨の文を送っており、微妙な立場にいたことが窺われるという。結局、家康は再び大坂に出発し、戦の機運が高まる。しかし堀のない大坂城で籠城不可能だった。信繁は秀頼が陣頭に立って畿内を押さえて徳川勢を迎え撃ち作戦を提案する。しかし重臣達は反対し、大坂の南部で迎え撃つことになる。徳川勢15万に対して豊臣勢5万、しかし戦力で劣勢の豊臣勢は大坂城南に撤退を強いられる。劣勢の豊臣勢は最後の決戦を挑むことになるが、この時に信繁は初めて全軍の指揮権を委ねられる。

 ここで信繁は全軍が徳川勢を引きつける間に奇襲隊が家康の本陣を急襲して家康を討つという作戦を立てる。しかし奇襲部隊が配置につく前に戦いが始まってしまい、作戦は頓挫する。それでも秀頼が出陣すれば士気が上がると秀頼の出陣を願う使者として息子の大助を秀頼の元に送る。大助は父と共に最期を遂げたいと訴えるが、信繁は「お前が私と共に死んだら、誰が私に二心がないことを明らかにするのか。行って秀頼公と生死を共にせよ。」と命じる。

 戦いは乱戦となっていた。しかしその時に徳川軍の一角が味方に裏切り者が出たという報で崩れる。それを看取った信繁は、手勢を率いると家康本陣に目がけて奇襲を強行する。その突進の凄まじさに徳川軍は押されて崩れる。家康は切腹を覚悟する事態にまで追い込まれたという。この凄まじい攻撃に「真田、日本一の兵」と言われることになる。しかしやがて家康の元に援軍が駆けつけ、衆寡敵せず信繁は家康に届かずに自刃することになる。そして大坂城も落城、豊臣家は滅亡する。大助は秀頼と共に自害したという。

 

 

 人気のある人物だけに満を持してという雰囲気があり、番組出演者も岡田准一を初めとして皆それなりに思い入れを持っているような模様であった。もっとも番組の方は有名人過ぎる故に今更改めて登場するような事実もないし、今までどこかで聞いたことのあるような話の集大成にならざるを得なかったところがある。

 信繁は家康から大名として取り立てると言われて寝返りを誘われたが、ここで毅然とそれを拒絶して結局は滅び行く豊臣家と運命を共にしたから後世に美名を残したわけであるが、もしこの時に家康に寝返っていたらどうなっただろうか。まあこの時点で寝返ってもそもそも徳川方に寝返る者は少なくなかったから、今更裏切り者という汚名を残すというほどにはならなかったろうが、江戸時代に小大名として生き残っても、将軍は何しろ真田に執拗な恨みを持つ陰険秀忠。何だかんだと難癖を付けられて取りつぶしにされたのがオチのような気がする(実際に信幸なんかは、何だかんだと因縁をつけてくる秀忠に散々苦労したため、秀忠が亡くなったら一気に肩の荷が下りて長生きした)。計算尽くではないと思われる信繁の一直線さに日本人は美を見出すわけであるが、逆に後世に美名を残すという目的のためには非常に計算してその死に方まで選んだようにも感じられる。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・真田昌幸の次男として生まれた信繁は、「表裏比興の者」と言われて所属陣営を変遷しつつ生き残りを図る昌幸の思惑で、上杉景勝の元に人質として送られるなどの幼少期を送る。
・信繁の初陣は第一次上田合戦である。この戦いでは昌幸が3倍以上の徳川軍を城内に引き入れて一斉射撃を浴びせ、混乱したところに城外から信幸が追撃をかけるという戦法で徳川方を散々に打ち破る。
・その後、昌幸は秀吉を後ろ盾とするために信繁は秀吉の元に人質として送られる。しかし信繁は秀吉に気に入られ、側近として取り立てられるなど豊臣武将としての地位を確立する。
・秀吉の死後、関ヶ原の合戦が勃発、昌幸と信繁は西軍に、本多忠勝の娘を妻とした信幸は東軍にと別れることになる。
・昌幸は秀忠率いる3万8千の兵に対し、再び城内に引き入れては一斉射撃を浴びせる戦術で大打撃を与え、結果として秀忠は関ヶ原に遅参する羽目になる。
・しかし関ヶ原の合戦はわずか1日で東軍の勝利に終わり、昌幸と信繁も降伏を余儀なくされる。死罪になるところを信幸の懇願で九度山に流刑となる。
・貧しい生活の中で昌幸は亡くなり、信繁もこのままここで朽ちるかという時に、秀頼からの書状が届き、信繁は息子の大助と共に大坂城に入城する。
・信繁は城から討って出て戦うことを主張するが賛同者はなく、そこで大坂城への攻め口である南部に独立曲輪である真田丸を建造して徳川軍を迎え撃つ。
・信繁は包囲する徳川方を挑発して引きつけると、一斉射撃で大打撃を与えることに成功する。この事態に家康は「戦い慣れない者が多くて足手まといになっている」とぼやくことになる。
・家康は信繁を大名に取り立てることを持ちかけて寝返りを誘うが信繁はそれを拒絶する。結局戦線は硬直して家康は和睦を模索するしかなくなる。
・信繁は戦闘継続を主張したが、砲撃の直撃を屋敷に受けて怖じ気づいた淀君らが和睦に同意、一応戦闘は終結。和睦の条件として大坂城の堀が埋め立てられる。
・しかし失業してしまう牢人たちは大坂城を退去せず再戦を主張、やがて家康もそれに対して出兵を行い夏の陣が勃発する。
・信繁は討って出て、徳川軍の隙を突いて家康の本陣に突撃をかける。その猛攻は徳川軍を崩して「真田、日本一の兵」と言わしめることとなるが、駆けつけた援軍によって殲滅されて信繁も自刃する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・信繁は長年牢人をしていたわけですから、率いていた兵がすべて子飼いというわけではないはずです。それにも関わらず軍として全員を一丸として突撃されられたのだから、かなりのカリスマだったということも言えそうです。父は二度にわたって徳川の大軍を粉砕、息子は家康に自刃させも覚悟させたわけですから、これが「徳川の天敵」とまで言われた真田伝説ですね。
・ところで昌幸の用いた作戦も、信繁の用いた作戦も基本的に同じものですから、相手が真田だったらこの手を使ってくるのは予測が付くようなものですが、やはり余程使い方が上手いというか、戦場の呼吸のようなものを知ってたんでしょうね。大軍の戦いっていうのは流れがあるし、末端の兵まで完全にコントロールするのは不可能ですから、たとえ指揮官が「これはヤバい、敵の策略だ」と感じてもすぐに兵を止めたり退いたりはできないもの。家康にしたら真田丸での敗北など「見え見えのいつもの手に嵌められよって」というところでしょう。それが「戦い慣れない者が足手まといになる」という愚痴につながっているように思います。家康にしたら「待て、あわてるな、これは真田の罠だ」ってところでしょう。

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