教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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2/14 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「お札になった女流作家 樋口一葉」

子供時代から文学的才能を示す

 日本最初の女性職業作家であり、「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を残し、5000円札の肖像ともなった樋口一葉が今回の主人公である。

 樋口一葉、本名・樋口奈津は江戸時代に同心だった父・則義と母・多喜の娘として1872年に生まれた。父は一葉が産まれた後は東京府の下級官僚として働いており、副業として不動産業や金融業を営んでいて裕福であった。一葉は文学に浸り、また学校の成績も優秀で飛び級で11才で小学高等科第4級を主席で終了した。しかしそれ以上の進学は母が「女性に学問をさせるのは先のことを考えると良くない」という考えのために許されなかった。これは彼女の母が極端に古い考えというわけではなく、当時では一般的な考えだったという。当時は学制が始まったいたが、まだ就学率は男子が6割、女子が2割を越える程度だったという。

 進学が叶わなかった一葉は一人で読み書きの勉強を始める。そんな一葉に父の則義が学問を続けさせてやりたいと、1886年に著名な歌人だった中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門させる。華族の子女が多い歌塾の中で、一葉は古典などを学ぶと共に創造力を開花させ、和歌の才能で注目されることになる。

 

 

父の死で生活が困窮、金のために職業作家を目指す

 しかし1887年に樋口家の戸主だった兄の泉太郎が病死、一葉は父を後見人として家を継ぐことになる。この時に家同士が付き合いのあった渋谷三郎と婚約する。しかし1889年に父の則義が死去したことで運命が暗転する。父は政府の役人を辞めて運送業に乗り出していたが事業に失敗、莫大な借金を抱えていたのである。さらにその借金が理由となって一葉の婚約も解消される。一葉は母と妹の3人で着物の仕立てや洗濯で生計を立てようとするが生活は困窮していく。

 1890年、本郷の小さな家に引っ越した一家は、母と妹は針仕事、一葉は中島歌子の計らいで内弟子として住み込みで働いていた。しかし生活は逼迫していた。そんな時に彼女は職業作家になる決意をする。これは先輩の田辺龍子が田辺花圃というペンネームで小説家としてデビューし、33円20銭(今の価値で66万円)の原稿料を得た話を聞いたからだという。

 1891年、一葉は妹・くにの友人の紹介で新聞小説家として活動していた半井桃水と会うことになる。緊張して最初に会った時にはまともに話も出来なかった一葉だが、再度面会した際に小説の書き方を教えて欲しいと桃水に頼む。最初は申し出を断る桃水だが、真摯に頼む一葉に折れる。しかし一葉は小説に苦労する。最初の分は「新聞に載せるには長すぎるし、あまりに古風すぎる」と言われる。もう少し通俗的に書くようにとのアドバイスで四苦八苦する一葉であるが、その内に桃水に対して恋心を抱くようになってくる。

 桃水の一葉に対する態度はどうも今ひとつハッキリしなかったようであるが、どうも一葉の方は盛り上がっていったようである。そして1892年3月、ついに樋口一葉のペンネームで小説家デビューとなる。発表作は「闇桜」で、桃水が相関した同人雑誌の「武蔵野」に掲載された。しかしこの同人誌は若い作家に機会を与えるためのものだったので、ある程度の売り上げがないと原稿料が支払えず、結局この時に一葉には原稿料は全く入ってこなかったという。

 

 

恋心を封印して作家として大成するが

 また一葉が桃水と男女の関係にあるという噂が萩の舎の中で広がり、これに激怒した一葉は桃水と絶交することになる。この後、一葉は田辺花圃の紹介で商業誌「都の花」に「うもれ木」を発表、初めて原稿料11円75銭(約35万円)を得る。そしてこれで星野天知や平田禿木が注目、「文学界」に小説を書く誘いが来て「雪の日」を発表する。この小説は桃水との思い出を元にしたものだという。さらに「琴の音」「花ごもり」を「文学界」に発表、作家仲間との交流も増えていく。

 しかしここで一葉は突然に日用雑貨店を始める。どうもスランプに陥ったようである。しかし吉原遊郭近くに開業したこの店は最初こそ順調だったが、9ヶ月で閉めることになったという。しかしここで遊女達や駄菓子を買いに来る子供たちなど底辺の人々の生活を間近に見たことが後の小説の肥やしになる。

 この後、奇跡の14ヶ月と言われる傑作量産期に入る。「大つごもり」から始まって「たけくらべ」の連載開始、さらに「にごりえ」「十三夜」などの文学史に残る名作を次々と発表していく。一葉の作品は文学界で絶賛され、辛口批評で知られる森鴎外らも一葉の「たけくらべ」を絶賛したという。しかしそんな頃に彼女の身体に不調が現れる。医者嫌いの彼女を鴎外が医師の診断を受けさせるが、診断は結核でしかも手遅れというものであった。一葉はみるみる衰弱していき1896年11月23日、24才という若さでこの世を去る。

 

 

 結局駆け抜けたような人生であり、死ぬまでの14ヶ月が一番の創作のピークだというが、実際はスランプを克服していよいよこれからだったところで寿命が来てしまったというところである。つくづく「勿体ない」という気持ちが非常に強くなる。元々文学的才能はあったのであるが、それが小説という形式に馴染んで自らのものになってスタイルを確立するのに数年を要したということだろう。本人にしたら「ようやく小説というものが分かってきたのにもう時間切れ?」って感じでしょうね。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・樋口一葉は子供の頃から優秀であったが、母が女性は学問はしない方が良いという考えのために進学できなかった。
・しかし元同心だった父は士族としての十分な教養を付けた方が良いと、彼女を中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門させ、彼女はそこで和歌の才で頭角を現す。
・しかし兄に続いて父が亡くなり、さらに父が莫大な借金を残していたことで生活は暗転する。一葉は妹や母を養うために職業作家になることを考える。
・妹の知り合いを通して半井桃水と知り合った一葉は、彼に小説の書き方を教えて欲しいと頼み込む。桃水の指導を受けている内に一葉は彼に恋心を抱くようになる。
・そして桃水が発行した同人誌「武蔵野」に処女作「闇桜」を発表するが、「武蔵野」の売れ行きが芳しくなかったために原稿料は得られなかった。
・さらに一葉が桃水と男女の関係にあるという噂が萩の舎に広がり、激怒した一葉は桃水と絶交することになる。
・その後、田辺花圃の紹介で商業誌「都の花」に「うもれ木」を発表、初めて原稿料11円75銭(約35万円)を得る。
・続けて「文学界」にも小説を発表して文学界の注目を浴びるようになるが、この頃からスランプになって突然に日用雑貨店を開業する。
・結局、店は9ヶ月で畳むことになるが、この時の経験が肥やしとなって「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を続々と発表、鴎外らからも絶賛される。この時期は「奇跡の14ヶ月」と言われているが、一葉は24才の若さで結核でこの世を去る。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・どう考えても早すぎるんですよね。24才なんて、この頃から小説家目指して活動始める人もいるぐらいですからね。彼女がもっと生きていたら、どういう境地に至ったかと考えると残念ですね。

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