教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/21 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「世直しの炎!大塩平八郎の乱」

正義の人・大塩平八郎

 今回は大阪で幕府に対する抗議の乱を起こし、乱自体は半日で鎮圧されたものの、幕臣が乱を起こしたということで社会に大きな影響を与え、ひいてはそれが後の倒幕につながったともされる大塩平八郎である。なお以前に英雄たちの選択にも登場している。

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 大塩平八郎は父が大坂町奉行所の与力で母は与力の娘という与力一家に生まれる。平八郎も14才頃から見習いとして町奉行所に出仕していたが、実直に職務に励んで25才で正式に与力に昇格する。しかしそこで彼が目にしたのは賄賂漬けになっている同僚達の姿だった。正式に与力になった平八郎の元にも多くの賄賂が届くが、彼は決してそれを受け取らず、さらには同僚達が賄賂を受け取ったら相手が自分よりも目上であっても告発したという。そのために同僚達からはかなり疎まれたという。しかし大坂東町地奉行所の奉行であった高井実徳がやはり正義の人であり、平八郎の後ろ盾になってくれたので、平八郎は不正の一掃に力を尽くせたという。

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大塩平八郎

 また平八郎は与力として有能で多くの事件を解決したという。さらに正義の人・平八郎の名を上げたのは、大坂西町奉行の与力でありながら盗賊団と結託していた弓削新右衛門に対する内部告発だという。弓削の不正の噂を耳にした彼は内偵を進め、彼が結託した盗賊団に強盗や殺人などをさせては上前を跳ねていたことを察知する。しかし東町奉行所の平八郎は弓削は管轄が違うことから手を出せずにいた。平八郎は心労で体調を崩したという。しかしその平八郎にチャンスが訪れる。1829年、西町奉行が高齢で退任となり、後任が来るまで東町奉行の高井実徳が兼務することになったのである。平八郎はこの機を逃さずに動く。大坂各地に潜伏していた弓削の手下を捕縛する。最早逃げられないと悟った弓削は自害して果てる。弓削一味から3000両(6億円相当)を没収した平八郎は、これを大坂市中の貧しい人に分配したとされている。

 

 

与力の限界を感じて引退、教育に力を入れる

 しかし翌年に平八郎は与力をやめてしまうことになる。発端は弓削の事件の後処理で無尽を悪用した大がかりな不正があることが明らかとなり、これに京都所司代や大坂城代などの幕府高官までが関与していたことが判明したことが切っ掛けだという。平八郎は不正を摘発しようとするが、老中水野忠邦が大坂の帳簿を焼き捨てろ指示するなど、幕府中央が露骨にもみ消しをしようとしたのだという(モリカケかい!)。平八郎は必死で抵抗するが、1830年に下った事件への沙汰は下級役人3人が処分されるだけというとても納得できないものであり、平八郎は幕府に大きく失望することになる。さらに平八郎の理解者であった高井実徳も高齢を理由に奉行を辞職、限界を感じた平八郎は辞職する。

 38才で与力を辞めた平八郎は洗心洞という私塾で教育に力を入れる。彼が教えたのは知行合一を唱える陽明学だった。門下生は奉行所の与力や同心の子弟、さらに豪農や地主の子弟など5、60人ほどだったという。洗心洞では飲酒の禁止など厳しい規則があったが、門弟達は平八郎の教えに感銘した者が多く、政治結社の色彩があったという。

 

 

腐敗しきった社会に対して憤り、ついに決起する

 その平八郎が挙兵する切っ掛けになったのは天保の大飢饉だった。大坂でも多くの餓死者が出たが、平八郎はそれは天災ではなく人災だと見ていた。と言うのは大坂東町奉行の跡部良弼が大坂の米を買い集めて江戸に送っていたからである。当時の幕府は江戸を最優先に江戸に米を回す政策をとっており、老中水野忠邦の弟である跡部は大坂を犠牲にして米を江戸に送っていた。これで大坂の米価は7倍にまで高騰する。平八郎は跡部に大坂の救済を願い出るが、それは却下されたのみならず「隠居の身で政に口を出すなら強訴の罪に処す」という脅迫まで受ける(まるで日本維新の会である)。さらに豪商達は自らの利益のために米の買い占めに走っていた。これらは平八郎には許しがたいことだった。

 平八郎は世直しに決起することを決め、堺から鉄砲を買い集め、高槻藩から大筒まで2門入手したという。なぜ武器を集めるのか門弟に聞かれた平八郎は「民衆の暴動に備えるため」と誤魔化したという。ようやく門弟達に真意を伝えたのは乱の1月半ほど前で、二月十九日夕刻に決行と告げ、門弟達に参加の署名を集める。参加者は30人ほどだったという。

 決行の半月前、愛妻のゆうを親戚の元に預けると大量の蔵書を売って資金を調達する。これで1億円程度の金を手にしたという。平八郎は大量の施行引札(現金との引き替え券らしい)を刷ると門弟に近隣に配らせた。そしてこれを配る際に「天満で出火した際には大塩の屋敷にかけつけてほしい」と声をかけさせたという。民衆に挙兵に参加してもらいたいとの考えだったという。そして2日前には幕府を批判した檄文を配布する。そこには幕府の腐敗や金持ちだけを優遇して庶民を犠牲にする政治(日本維新の会かい!それとも自民党か?)に対する批判が綴られていた。さらに前日には老中に宛てた書状を送る。

 そして挙兵の日。しかし早朝に挙兵が奉行所に発覚したとの報が伝わる。一族郎党までが処罰されることを恐れた門弟の一人が密告したのだった。これを知った平八郎は夕刻を待たずに決起することにする。そして午前8時に大筒の砲声が響く。平八郎達はまず洗心洞に火を放つと「救民」と書かれた旗を掲げて市中を進軍、不正を働いていた役人や豪商の屋敷の火を放って回る。これに民衆も応えて当初は30人ほどだった軍勢は300人に膨れあがる。これに対して奉行所の対応は後手に回ったという。しかしそもそも軍勢としての統制が取れていなかった大塩勢は半日で鎮圧されてしまう。また戦闘において大筒の射撃係が討ち取られてしまったことも大きいという。また大規模な乱にもかかわらず奉行所側の戦死者はゼロで、反乱側も3人だったという。ただし火災は大坂市街の1/5に及び、3300軒以上の家屋が焼失したという。

 

 

乱は鎮圧されたものの、その影響は後々まで続く

 参加者が捕縛される中、平八郎は逃亡を続けた。奉行所は銀100枚(一千万円相当)の懸賞金をかけるが、それでも情報は集まらなかったという。大塩の決起の目的を知っている町の人々は「銀1000枚でも大塩様を売ることはない」と言っていたという。平八郎が逃亡を続けた理由であるが、門弟に再起を請われていたことと、老中に宛てた書状に対しての何らかの反応があるかを見極めるためだったのではという。しかしその書状は途中で何者かに捨てられて届いていなかったという。

 そうして潜伏を続けた平八郎だが、ついにつながりのあった三善屋の元に養子の格之助とそもに潜んでいたのところを発見される。捕り手に囲まれた平八郎は部屋に火を放つと自害して果てたという。黒焦げになった平八郎と格之介の遺体は塩漬けにされ、後に磔にされたという。しかし顔も判別できない状態であったことから、庶民の間には平八郎の影武者だという噂が広がったという。また幕臣が立ち上がったという衝撃は大きく、この後も大塩一派を名乗る反乱が各地で発生することになる。結局これが30年後の倒幕につながっていくという。

 

 

 以上、幕末の反政府テロリスト大塩平八郎について。誰もが認める正義の人が結局はこういう方向に走らざるを得なかったのが最大の悲劇です。しかし腐敗しきった世の中ではこうならざるを得なかったということです。実際に現代でも腐敗した政府のツケを押し付けられて自殺に追い込まれた真面目な役人がいました。

 それにしても江戸の三代改革などと言われますが、私は松平定信と水野忠邦についてはあまり良い印象を持っていないのですが、実際にその中でも水野は知れば知るほどろくでもない話ばかり出て来ますが、今回もまさにそうでした。元々改革などと言っても、基本は幕府を延命するためであって、そのために庶民を犠牲にする政策が多数ですから、庶民の側からみたらろくでもない政策が多いです。特に水野の頃になったら、既に時代との齟齬も大きかったので、強行すればするほど無理が祟って、結局は天保の改革自体は全く成功することなくわずか数年で頓挫してます。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・大坂の与力一家に生まれた大塩平八郎は25才で正式に与力となるが、腐敗しきった同僚達の姿を目にすることになり、彼は腐敗一掃のために立ち上がる。
・同僚は彼を疎んだが、町奉行の高井実徳が彼と同じ正義の人であり、その後ろ盾で平八郎は活躍する。そしてついに盗賊団と結託していた与力の弓削新右衛門の不正を告発、一網打尽とする。
・しかしその後の調査で、弓削の関与した不正に幕府の高官までが関与していることが判明、平八郎は幕府のもみ消し工作と戦うが、結果は下級役人3人が処分されるだけに終わる。
・これに絶望した平八郎は、自分の後ろ盾となってくれた高井実徳が引退したこともあり、限界を感じて与力を辞職、陽明学を教える私塾・洗心洞で門弟を教育する。
・しかし天保の改革で幕府が江戸を優先して大坂の庶民を犠牲にしたり、豪商達が米を買い占めて利益を上げていることに憤慨、ついに門弟達と決起を決意する。
・平八郎は門弟達と共に「救民」の旗を掲げ、腐敗した役人や豪商の屋敷に火を付けて回る。民衆も呼応して軍勢は300人ほどに増加するが、奉行所が差し向けた鎮圧軍の前に半日で鎮圧されてしまう。
・その後も平八郎は潜伏を続ける。奉行所は懸賞金をかけて情報を集めるが、平八郎の決起の目的を知っている庶民達はそれに応じなかったという。しかしついに潜伏先が発覚、捕り手に囲まれた平八郎は自ら潜伏先の部屋に火を放って自害して果てた。
・平八郎の遺体は塩漬けにされて後に磔にされるが、顔の判別が出来ない状態だったために、逃亡して潜伏しているという噂が流れる。また幕臣が決起したインパクトは大きく、その後も大塩一門を名乗る反乱が相次いだという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・正義の人が不条理な社会に追い詰められて、ついに立ち上がったという事件なんですよね。日本ではこういう行動が結果として革命までは結びつかず、せいぜいが薩長によるクーデターで終わったというのが歴史の残念。

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