教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/1 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長と秀吉を支えた男 前田利家」

信長の元で頭角を現した前田利家

 今回は大河ドラマ出演回数が、あの秀吉を抑えて家康、信長に次いでの堂々第三位という前田利家である。なお大河だけでなく、この手の歴史番組でも良く登場するのだが、意外にも彼をメインに扱った回ってそんなにないんだよな。

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 前田利家は尾張の豪族の四男で15才で信長の近侍として召し抱えられる。この時に秀吉が同僚で、同い年の二人は意気投合したという。一説によると180センチの大男で美男子だったという。そしていわゆる傾奇者で喧嘩っ早い男だった。その腕っ節を活かして戦で手柄を上げていくのだが、23才の時に転機が訪れる。

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前田利家

 それは信長が寵愛していた茶坊主の拾阿弥が利家の笄を盗んだことに端を発している。怒った利家は拾阿弥を斬りたいと信長に願い出るが許されない。しかし利家は信長の前で拾阿弥を斬り捨ててしまったのだという。当然信長は激怒して織田家から追放されてしまう。この時の利家はまつに子供が産まれた直後。ここで利家はプータローになってしまったわけである。

 こうなった利家にとって選択肢は2つある。1つはあくまで織田家への復帰を試みること、もう1つは信長に見切りを付けて他家に仕えることである。利家の実力を考えると他家へ仕えることも可能だったが、利家はあくまで織田家への復帰を考える。その利家がとった方法が、戦に勝手に参加して手柄を上げることだった。桶狭間の合戦に単独で参加して敵将の首3つを上げるが、これは無視される。さらに翌年、齋藤龍興との戦いに無断に参加し、ここで2つの首を上げる。これで信長はようやく帰参を認める。牢人生活2年での復帰であった。その後の利家は手柄を上げて出世を重ねていく。息子が信長の娘と婚姻するなど、信長の信頼も厚かった。

 

 

信長亡き後は秀吉に仕える

 しかし本能寺の変で信長が倒れる。柴田勝家と共に越中魚津城を攻略中の利家はすぐには動けない状態で、その間に秀吉が光秀を討ってしまう。その後は秀吉が織田家の跡目に三法師をつけたことで信長の後継者と振る舞い、勝家はそれに不満を募らせて両者の対立が深まる。勝家の与力でありながら秀吉の親友であった利家は難しい立場になる。何とか両者を取り持とうとしたのだが、それは結局は徒労に終わる。そしてついに賤ヶ岳の合戦が発生、利家は与力として勝家に付くことになる。

 だが柴田軍が総崩れになると、越前に逃れた利家は追撃してきた秀吉に降る。そして羽柴軍と共に勝家を自害に追い込むことになる。このため、利家は最初から秀吉に通じていたのではという見方もあるが、この番組ではそれはなかったと見ている。ただ秀吉との関係から粗略に扱われることはないと考えていただろうという。秀吉も信長の親族を味方につける必要があり、信長と姻戚関係のあった利家はそのためにも有用であったという。さらに毛利を抑えていた宇喜多秀家と秀吉の養女(実は利家の娘)との婚姻を進めており、そのためにも利家を味方につける必要があったのだという。

 利家の出世の裏にはまつの活躍もあったという。末森城が佐々成政に攻められて援軍を送るかどうかという時に、戦費を気にして渋る利家に対してまつは「家臣でなく金銀を召し連れて槍をつかせたら」と皮肉ったという。これで利家は援軍の派遣を決断し、この勝利は秀吉の北陸制覇にとって大きな勝利となったという。

 

 

秀吉の信頼を得て後事を託される

 秀吉が関白となって豊臣姓を賜ると、利家は秀吉の側近として活躍する。九州平定の際は京都の留守居を利家に任せたという。しかし小田原攻めの最中に利家が秀吉の不興を買ったことがあった。一説によるとどうも利家のことを讒言した大名がいたらしい。しかし浅野長政の取りなしでまとまったという。

 天下統一をなした秀吉は朝鮮出兵を進める。この頃の利家は秀吉のそばで相談相手のような立場になっていたという。秀長や鶴松を相次いで失った秀吉は、既に姻戚関係のあった利家を親族のように扱っていたという。ただこれは利家には暴走する秀吉を止める役割があったということ。特にそれが重要性を発揮したのは、秀吉が自ら海を渡って戦場に行くといいだした時だという。利家は家康と共にそれを諫めて止めさせる。もしこの時に秀吉が朝鮮に渡っていたら、戦いはさらに長期化して泥沼化したろうという。

 秀吉に秀頼が生まれると利家は秀次の立場が微妙になることを案じたという。しかし秀次は謀反の罪を着せられて自害に追い込まれる。利家は五大老の一人として豊臣政権の中核にすえられ、秀頼の後見人となる。そして秀吉がこの世を去るが、利家は自身の病をおして豊臣家のために働く。しかしここで家康が野心を露わに動き始める。こうして利家と家康の間に一触即発の空気が漂うことになる。しかしここで利家は家康と和解する道を選ぶ。そして死の床の利家は息子の利長のことを家康に託したという。結果としてこのことが利長が関ヶ原で家康に付き、前田家が加賀百万石の礎となったという。

 

 

 以上、前田利家について。傾奇者で喧嘩っ早くてと言うヤンキーな若者時代を過ごした割には、その生涯は結構地味な人です。後、途中でエピソードが出ていたようにとにかくケチだったようです。まあこれは一番金の掛かる時にプータローをしてしまったという苦い経験によるものかもしれませんが。

 またその過去に関わらず根っこは真面目な人だったらしく、信長も自分に合わせて傾いている利家に対し「お前には合わない」と言ったことがあるとか。晩年あれだけ人間不信に陥っていた秀吉にさえ最後まで粛正されなかったんだからそれは恐らく彼の人格によるところであろう。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・前田利家は尾張の地方豪族の四男で、15才の時から信長の近侍として仕える。そして戦いで武功を上げていく。なおこの頃から秀吉とは意気投合して親友だったという。
・しかし23才の時に信長が寵愛していた茶坊主を斬ったことで信長の怒りを買って追放される。しかし利家は桶狭間の合戦や齋藤龍興との戦いに個人で勝手に参加して武功を上げたことで信長に許され、その後はさらに手柄を上げて信長と姻戚関係を結ぶなど厚い信頼を得る。
・だが信長が本能寺で亡くなると、柴田勝家の与力だった利家は賤ヶ岳の合戦で秀吉と戦うことになる。しかし柴田軍が崩れると越前に逃走した利家は秀吉に降る。秀吉は利家を重用したことから事前に秀吉に通じていたのではという説もあるが、この番組ではそれはなかったと見ている。ただ信長の姻戚でもあり、秀吉の親友でもあった利家は粗略にされることはないだろうという考えはあったろうとしている。
・その後の利家は秀吉の側近として活躍、朝鮮出兵で自ら海を渡ろうとした秀吉を説得してとどめている。秀吉が定めた五大老に利家は選ばれ、亡くなる秀吉から秀頼を託される。
・しかし秀吉の死後に家康が野心を露わに動き始める。利家は家康と対立することになるが、結局は利家は和解の道を選ぶ。そして死の床で家康に利長のことを託する。結局はこれが後の加賀百万石の礎になったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・やっぱりその生涯を見ていてもとにかく地味な人だな・・・。一方で身内には前田慶次という滅茶苦茶派手な人もいるんだが。
・私も利家のイメージと言えば、とにかくまつとの間にやたらに子供を作った人というイメージしかない。秀吉がその半分でも実子がいたら後の歴史は大きく変わったんだろうが。

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