教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/2 NHK 歴史探偵「天下統一 秀吉の一夜城」

難攻不落の北条氏の小田原城

 今回は秀吉の天下統一に関してのお城戦略。

 秀吉の天下統一に立ちはだかったのは関東の覇者である北条氏の巨大要塞小田原城。まずはその小田原城を突然に山歩きしたりと意外とアウトドア派の渡邊佐和子アナが実地調査に行っている。

 小田原城は現在も残っているが、これは江戸時代以降に建てられたものの復元で、北条氏の小田原城の位置はいささか異なっている。現在の小田原城から1キロほど離れたところに、当時の堀の痕跡が残っている。この堀は10メートル深いものでさらにその上に5メートルの土塁が築かれていたという。これが小田原の町をグルリと取り囲む惣構えとなっており、中で自給自足も可能となっていた。

 しかし現在の堀の姿はかなり滑らかに鈍ってしまっており、渡邊アナも駆け上がって「これだと結構いけるのでは」との感想。しかし実はそんなものではないというのを番組では再現している。重機を駆使して当時の1/3の規模で復元したという堀だが、これは最早堀と言うよりも落とし穴。しかも壁は関東ロームのツルツルのコテコテでつかみ所もない。穴の底に梯子で降りた渡邊アナも目の前にほぼ垂直立ち上がる壁(60度ぐらいだそうな)になすすべなし。しかも北条特有の障子堀が横への移動も妨げるので、完全に落とし穴に落ちた状態で攻め手は狙い撃ちされるしかないという状況。

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北条氏の山中城の障子堀

 

 

小田原城攻略に秀吉が打ち出した作戦

 北条勢5万に対して20万の大軍勢を揃えた秀吉であるが、さすがにこの小田原城の鉄壁の防御は尋常な手段では破れないことに気づく。そこで秀吉は力攻めではない別の手を考え出す。

 秀吉が取った手は「攻めようがないなら攻めない」という方法。小田原城の惣構の周囲にグルリと鉄壁の包囲要塞を築いてネズミ一匹逃げ出せないようにしてしまったのである。これは北条勢にとっては心理的プレッシャーが半端なく、戦意は著しく低下する。

 ここにさらにだめ押しとして用意されたのが一夜城とも言われる石垣山城である。これは関東では初めてと言われる本格的に石垣を使用した難攻不落の巨大城郭であった。この立派な城郭を小田原城から見える山城に築き、しかも築城後に目隠しになっていた木を切り払うことで一晩にして巨城が現れたかのように演出したのである。そして秀吉の目論見通り、これで北条氏の戦意は根こそぎ消滅することになる。

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石垣山城井戸曲輪の石垣

 また秀吉の石垣山城築城は北条氏だけを意識したものではないという。当時秀吉軍に参加した大名も本音では去就が定まらない者もいた。そういう連中に秀吉の圧倒的な力を見せつけることで、叛逆する意志を奪うという意味もあった。

 

 

将兵を鼓舞するために築いた名護屋城

 同様に城郭が兵達の心理に与える効果は秀吉は朝鮮出兵でも使用したという。そのための城が名護屋城。当時、朝鮮に出兵する兵達は見知らぬ異国に送られることに「二度と戻って来れないのではないか」という大きな不安を抱いていた。その兵達を背後から後押しするための巨城が名護屋城だったというのである。海から見たら名護屋城の巨大な白い天守が見えることになる。これが秀吉の権力に対する絶対的な信頼につながったというのである。名護屋城は石垣山城よりもさらにスケールが大きく、ある意味で石垣山城は名護屋城のテストケースとも言えるという。

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名護屋城の巨大石垣

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天守台上からは遥か海を望むことも出来る

 

 

 石垣山城、名護屋城共に私は10年ほど前に訪問したことがあるのだが、石垣山城は「よくもまあこんなところにこんな大規模な城を」と感じたぐらいに大規模な石垣の城だったし、名護屋城は「大陸出兵のための後方基地にしては巨大すぎ」という印象を抱いたのだが、敵や味方の将兵に与える心理的影響を考慮したらこういうハッタリも必要だったというのは理解できるところである。

www.b-kikou.com

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 この頃の秀吉は基本的に相手を正面からの軍事力で屈服させるよりも、圧倒的な力を見せることで戦わずして屈服させるという方法が増えてきている。まさに天下人の戦いである。しかし朝鮮ではそれで失敗したために、結果として正面から大軍を送るという戦い方になったのだが、それが結局は大失敗につながっているというのは、もう既に秀吉からかつての戦いに関する勘が失われてきたということであり、絶対権力者になって現実が見えなくなってきたとか、もっと単純に耄碌してきたと感じられるところである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・北条氏の小田原城は巨大な堀に守られた惣構えの不落の巨大城郭だった。
・関東平定でここを攻めた秀吉は、正面からの攻撃を避けて城を丸ごと包囲してネズミ一匹這い出せない布陣を形成して北条氏にプレッシャーをかける。
・さらに決定打として建設したのが石垣山城だった。石垣山城は関東では初の総石垣の城で、この巨大城郭が突然に目の前に出現したことで北条氏の戦意は根こそぎ奪われた。
・また石垣山城は秀吉軍に同行した大名達に、秀吉の力を見せつけて叛逆の意志を奪う意味もあった。
・秀吉は朝鮮出兵でも、海外遠征に不安を抱く将兵を後押しするために巨大な名護屋城を築く。その白い巨大天守は船からも見えて、将兵達に秀吉の威光を示すこととなった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ秀吉の城ってことごとく「見る者に与える心理的影響」ってのを考慮してますから。本来は軍事要塞である城に金箔瓦なんて不要ですが、秀吉はこれを権威を示すものとして使用した。絢爛豪華な見せる城というのの元祖は明らかに信長の安土城ですから、秀吉はその流れを汲んでいる。

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