教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

3/17 プレミアム ザ・プロファイラー「キューバの英雄カストロ 革命の先にあるもの」

革命家カストロの生涯

 キューバ革命の英雄として今でも絶大なカリスマを誇るカストロ。その革命家としての生涯は。

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フィデル・カストロ

 

 

富裕な家庭に生まれるが、社会変革を目指すが失敗する

 カストロは1926年にキューバの富裕な大地主の息子として生まれた。カストロは富裕層であったが、最悪の状況下で生活を余儀なくされている農民の姿を目にしてきたといい、それが彼の人格形成に大きな影響を与えたという。

 8才で富裕層の子供が通う私立学校に入学したカストロ。成績は優秀だったが、そこで社会の不条理に直面する。彼が同級生とちょっとしたキッカケで喧嘩になった時、教師は全く言い分を聞かずに一方的にカストロを殴ったという。それは相手の生徒が教師のお気に入りだったからだという。その教師はその後も度々カストロに暴力を奮い、彼はそこに権力の横暴さを感じた。

 19歳になると名門ハバナ大学に入学、そこで22才の時に結婚する。翌年長男が生まれるなど私生活は充実していたが、彼は大学に大きな不満を感じていたという。それは大学内がマフィアや政治家と結びついて汚れきっていたからである。首都ハバナも同様に富裕層が富を独占して大多数の貧困層は生活に喘いでいた。カストロは大学に絶望して授業をさぼり、歴史書などを読み漁った。特にキューバ独立の父であるホセ・マルティに傾倒したという。カストロはマルティが目指した平等な社会について熱く語り、共感する学生の仲間を増やす。そして大学2年で学生連盟の代表に当選、政治活動にのめり込む。当時中南米各地で起こった反政府運動の支援運動も行った。そしてキューバの変革を目指して弁護士になって政治家を目指す。

 しかしそこに立ちはだかったのが軍人のバティスタである。クーデターで権力を掌握したバティスタは反対運動を弾圧して腐敗を極める。これを見たカストロは権力を革命的に奪取すべきと考えるようになる。そして125人の仲間と共に陸軍のモンカダ兵営を襲撃して大量の武器を入手することを計画する。しかし軍事行動に対する不慣れから作戦は失敗、同志を61人も殺害される。カストロも捕まって禁錮15年の有罪判決を受ける。この時、26才。

 

 

亡命してゲリラ部隊を編成、キューバ革命を成功させる

 襲撃に参加した仲間たちが次々と処刑される中、カストロは自らが弁護人となって裁判に臨み「考えなければならないのは毎日のパンを稼ぎたいと思っている70万人の失業者、そして耕す土地さえ持たない農業労働者である。私は自分の無罪釈放を求めない。私を有罪にせよ。歴史は私に無罪を宣告するだろう。」と言い放つ。この言葉がメディアで紹介されカストロは一躍大人気となる。これを背景に29人の仲間と共に恩赦を受けてメキシコに亡命する。ここでアルゼンチン出身の医師であるチェ・ゲバラと意気投合する。そして2人は命を懸けて共に戦うことを誓う。

 彼はメキシコでゲリラ戦術をベテランの将校から学ぶ。そして革命戦士82人を乗せたクルーザーがキューバ上陸を目指すが、事前に情報が漏れて待ち伏せを受け、仲間は散り散りになり20人ほどになってしまう。しかしカストロは諦めずマエストラ山脈に逃げ込むと政府軍を相手にゲリラ戦を展開する。この時に現地の貧しい農民がカストロに協力したという。カストロは革命に成功したら彼らに土地を与えることを約束していた。また敵兵を捕虜にしても拷問はせずに釈放し、怪我をしている捕虜には医師であるゲバラが治療も施したという。こうして民衆の支持を広げていくが、決定的だったのはメディア戦略だったという。カストロ死亡説が流れた3ヶ月後、ニューヨークタイムズの取材を受けて自分の健在ぶりをアピール、アメリカのテレビ番組にも出演した。バティスタに不満を持つ民衆はカストロの元にはせ参じ、兵士は2000人にまで増加する。カストロは行動を起こす。

 1958年12月25日、ゲバラ率いる400人の精鋭がキューバの中心であるサンタクララに進軍、3200人の政府軍と激突する。5日間の激戦の末に革命軍がサンタクララを掌握する(恐らく士気の差が大きかったのでは)。この戦いを受けて革命軍の勢いを恐れたバティスタは国外に逃亡、カストロたちはハバナに凱旋する。カストロこの時32才。

 

 

米ソの対立の狭間で翻弄される

 カストロは約束通り農民に均等に土地を分け与える。特権を奪われた富裕層の多くがアメリカに亡命する。キューバの産業を実質的に牛耳っていたのはアメリカだった。カストロはあらゆる産業を国有化するが、それはアメリカの権益を損ねることだった。アメリカはキューバと国交を断絶する。当時のアメリカ大統領はケネディ。アメリカはキューバの市街地や空港を狙った爆破テロを亡命キューバ人を使って画策する。こんな中、カストロはキューバは社会主義国家になるとの宣言を行う。その翌日アメリカはCIAの訓練を受けた亡命キューバ人部隊を送り込む。計画を事前に察知していたカストロは現場に急行して指揮を取る。そして3日間にわたる戦いでキューバ軍が勝利、アメリカ側の死者は114人、1189人が捕虜となった。カストロは捕虜と引き替えに医薬品や食料を要求、この勝利でキューバがアメリカの支配から脱したことを知らしめることになる。

 だがアメリカと国交が断絶した影響は大きく、石油や食料などの物資が不足し始める。そこでソビエトに接近して援助を取り付ける。1962年にフルシチョフに「アメリカのキューバへの攻撃はソビエトへの攻撃とみなすと公然と宣言すべきだ」と持ちかける。これに対してフルシチョフは「核弾頭をもつミサイルをキューバに配備するのはどうだ」とより過激な提案をしてくる。キューバがミサイル基地の建設を始めたことを察知したアメリカはキューバ周辺海域を封鎖してソビエトにミサイルの撤去を要求したがフルシチョフは拒否、両国はいつ戦争が起こっても不思議ない状態になる。これがいわゆるキューバ危機である。

 カストロはキューバ軍を総動員して戦闘配置に付ける。そしてフルシチョフに対してキューバへの侵攻の可能性が高まっていると書簡を送る。そしてキューバがアメリカの偵察機を撃墜、ケネディは報復することを宣言する。しかしその翌日、フルシチョフがミサイルの撤去を宣言、その代わりにトルコに配備したアメリカのミサイルを撤去することと、アメリカが今後キューバに侵攻しないことを要求、アメリカはこの条件を呑む。核戦争の危機は回避されるが、カストロは蚊帳の外で翻弄されたことになる。

 

 

平等な社会を目指すが、経済政策では失敗する

 当時のカストロのそばには革命軍最初の女性戦闘員であるセリア・サンチェスが存在したという。彼女は革命成功後に側近として20年以上、護衛や訪問客の管理、女性問題の火消しなども行ったという。実質的にカストロのパートナーだったらしい。

 カストロは国民との対話を欠かさず、教育改革も実施して地方の農村にも教師を派遣し、授業料は無料であったのでキューバ人のほとんどが読み書きができるようになったという。また医療も無料として誰でも診察を受けられるようにし、またアスリートを養成する学校を作ってスポーツで国民の士気を挙げようとする。しかしその一方で経済は行き詰まる。アメリカの経済制裁で困窮、砂糖の生産を5年間で3倍に増やす計画を立てて国民を総動員するが、機械化の遅れで生産量は目標に届かず、また砂糖の国際価格の低迷で計画は頓挫する。しかしその一方で大国から独立しようとする国々の支援に情熱を傾けた。特にアフリカのアンゴラの支援には力を入れて腹心のオチョアを軍人顧問として派遣した。

 また極秘で2度目の結婚なども行ったそうだが、プライベートのことは国家機密としていたという。これは家族を守るためもあったという。一方で権力維持には手段を選ばず、アンゴラ内戦で確約したオチョアを1989年に麻薬取引で逮捕して、直ちに処刑した。人気を博したオチョアが自らの革命を損ねることを警戒したのだという。

 そして最大の危機は1991年ソビエトの崩壊である。これでキューバは巨額の資金援助を失うことになる。国内は極度の物資不足に直面する。カストロはやむなく外貨の所持と外国企業の国内参入を解禁するが、これは貧富の格差を生むことになる。その結果、多くのキューバ人が亡命しようと筏でこぎ出す羽目になる。

 2008年、81才で国家元首の座を弟のラウルに譲ったカストロは、2016年に90年の生涯を終える。追悼集会には100万人のキューバ国民が集まったという。

 

 

 高邁な理念を持った革命家ではあったのだが、実際に政治家として国家を運営する過程において、大国の思惑やら現実の諸問題などで翻弄されたというところだろう。正直なところ彼の掲げた平等な社会という理念には共感するのだが、それを現実に実現しようとすると困難なところがある。またその高邁な理想はただ唱えているだけでは実現できず、現実には武力の行使、さらには自らを脅かす恐れのある人物は実力で排除するなどのダーティーな手段も取らざるを得なくなる。かなりその狭間で苦悩もあったろうと思われる。

 それでも確かに国民的人気があったのは事実らしい。やはり建国の英雄としてみなされていると言うことだろう。また真面目に政務に取り組もうという姿勢はあったらしい(政策が常に適切かどうかは別として)。アメリカが悪党扱いしたので、日本でもカストロはテロリストの元締めの悪党というイメージを持っている者も少なくないようだが、それは一面的な物の見方というものであろう。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・カストロは富裕な農家の出身であったが、学校で権力の理不尽さを感じ、腐敗しきった大学にキューバ社会の問題を感じ、やがて政治活動に身を投じるようになる。
・弁護士となり政治家を志したが、軍人バティスタのクーデターによって腐敗した独裁権力が反対者を弾圧するようになり、カストロは武力で権力を転覆するしかないと考えるようになる。
・125人の同志と共に兵営を襲撃して武器を奪う計画を実行するが、戦闘に不慣れだったことから失敗、61人の同志を失い、自身も逮捕されて禁錮15年の刑を受ける。
・同志が次々と処刑される中、カストロは自らの裁判で「私を有罪にせよ。歴史は私に無罪を宣告するだろう。」と社会の問題を訴えて民衆の人気を博する。世論の支持を背景に29人の仲間と共に恩赦で釈放されてメキシコに亡命、そこでチェ・ゲバラと出会って意気投合する。
・メキシコで軍の将校からゲリラ戦のやり方を学んだカストロは、82人の仲間とキューバに上陸するが、軍に待ち伏せされて20人ほどの仲間しか残らない状態でマエストラ山脈に逃げ込む。
・しかしそこでカストロは現地の貧しい農民に土地を与えることを約束して味方につけて徹底抗戦する。またメディアに登場して健在ぶりをアピール、バティスタ政権に不満を持つ民衆が彼の元にはせ参じる。
・兵が2000人になったところでカストロは行動を開始、ゲバラが精鋭400人を引き連れてキューバの中心であるサンタクララに進軍、3200人の政府軍と激突、5日間の激戦の末にサンタクララを掌握する。
・革命軍の勢いを恐れたバティスタは国外逃亡し、カストロは首都ハバナに凱旋行進する。
・カストロは農民に土地を分売し、多くの企業を国有化する。しかしこれはアメリカのキューバでの権益を損ねることになりアメリカは国交断絶を行う。また亡命した富裕層などの亡命キューバ人を使って、国内でのテロ活動を行う。またカストロがキューバが社会主義国家となることを宣言したことから、CIAに訓練させた亡命キューバ人の部隊を送り込む。
・事前に情報を察知したカストロはこれを迎え撃ち、激戦の結果勝利する。これでキューバは完全にアメリカの支配から脱したことになる。
・しかしアメリカの経済制裁で物資が欠乏、カストロはソビエトに支援を求める。さらにキューバへの攻撃はソビエトへの攻撃とみなすとフルシチョフに宣言してもらうように持ちかけるが、ここでフルシチョフがキューバへの核ミサイル配備を持ちかける。
・このミサイル配備に対してアメリカは実力で阻止をするべくキューバへの侵攻の準備を開始する。迎え撃つためにキューバ兵を総動員するカストロだが、フルシチョフがアメリカにミサイルの撤去の代わりにアメリカのトルコのミサイル撤去とキューバへの侵攻の中止を持ちかけて戦争の危機は回避される。
・カストロは教育改革によってほとんどのキューバ人が文字を読めるようにし、さらには医療も無料化するなど平等な社会を目指した政策を実施するが、経済的にはアメリカの経済制裁によって破綻していた。しかしそれでも独立を目指す各国の支援などに力を入れ、アンゴラに側近のオチョアを派遣するなどした。
・カストロは自らの権力維持のため、側近でアンゴラでの活躍で人気を博したオチョアを処刑するなどの非情の措置もとっている。
・キューバにとって最大の危機はソビエト崩壊。これで支援を失ったカストロは、やむなく外貨の所持と外国企業の国内参入を認め、観光での外貨獲得を目指す。しかしこれは国民の貧富の格差を拡大することとなり、国外脱出を目指す多くの亡命者を生み出すこととなってしまう。
・81才で病気で国家元首の座を弟に譲ったカストロは90才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・カストロは結局成功したのか失敗したのかの判断は難しいですが、カリスマだったのは間違いないですね。ゲストの戦場カメラマンがやけにカストロに心酔してましたが、まあ分からないではない。

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