教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/28 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「"サムライ"アメリカへ行く!万延元年遣米使節」

海を渡った77人の日本人

 鎖国体制をとっていた江戸幕府だが、ペリー来航などの一連の騒動の中で開国を決断する。そして1860年に77人の使節団をアメリカに送ることになる。これは日米修好通商条約の批准書を交換するためのものだったという。正使には外国奉行の新見正興を、副使に村垣範正を目付の小栗忠順が務める。今回はその使節団の道中について、使節団に参加した仙台藩の玉蟲左大夫が残した日記に基づいて紹介する。

 使節一行が乗り込んだのはアメリカが派遣した軍鑑、ポーハタン号である。船にはアメリカ人312人が乗り込み、そこに77人の使節団が加わるのだからかなり狭かったという。玉蟲の部屋は4畳半ほどを3つに区切って7人に割り当てられたから足も伸ばせないほどだったという。

 また幕府は併せて護衛として咸臨丸を派遣していた。司令官は軍艦奉行の木村芥舟、乗り組み士官の多くを海軍伝習所の出身者で固めて勝海舟を艦長としており、さらに通訳に中濱万次郎、従者には福沢諭吉など総勢96人が乗船したという。

 さらに使節は政府高官への贈り物など膨大な荷物を持参していたためにポーハタン号には積みきれず一部は咸臨丸でも運ぶことになったという。さらに渡米準備金は6万両(約60億円)に幕府からの拝借金3千両(約3億円)も持参していたという。なおこの重さは2トン以上あったという。さらには米だけで11トン持って行っており、その他の日本食やら日用雑貨も持参したらしい。

 

 

いきなり嵐に遭ったり喧嘩もあったり

 こうして意気揚々と旅立った一行だが、太平洋で嵐に出くわすことになって沈没するのではという恐怖にさらされることになる。結局これで燃料が尽きて補給のためにハワイ諸島に立ち寄ることになる。ここでは使節は国王のカメハメハ4世と謁見したという。機関故障のためにホノルルには2週間ほど滞在することになり、玉蟲左大夫は市内を散策して写真を撮ってもらったりなど各地を視察して見識を高めている。そしてようやくポーハタン号はサンフランシスコに向かう。

 一方の咸臨丸は先行して日本を出航してたのだが、勝海舟と福沢諭吉が対立するという事件があったらしい。嵐や船酔いで皆がヘロヘロになっているところで勝海舟が「俺は日本に帰るから小舟を降ろせ」と無茶を言い出したりなど、騒動ばかり起こしていたので、それに福沢諭吉がキレたらしい。勝は船酔いが激しくてろくに指揮を執れなかったらしい。それでもポーハタン号より前にサンフランシスコに到着して船体の修理のためにドックに行ったとか。

 

 

アメリカに到着すると熱烈大歓迎を受ける

 使節一行はサンフランシスコに到着して大歓迎を受ける。そしてパナマで蒸気機関車に乗り換えると、パナマ地峡を渡る。これには一行も驚いたという。そしてポーハタン号より一回り大きいロアノーク号に乗り換えてワシントンを目指すことになる。

 ワシントンでは5000人の見物人が押しかけての大歓迎だったという。アメリカ政府は5万ドル(現在の価値で1億5千万円)の予算を割り当てたという。アメリカは日本との貿易に期待していたところはかなり大きいという。

 ホテルなどもかなり豪華なものが用意されたそうだが、使節団はそれにはなかなか馴染めなかったという。椅子は慣れることが出来ず、座布団を敷いて座っていたとか。また食事も悪戦苦闘で、マナーは分からないので我流でまた食卓の塩、胡椒などで適当に味を付けて食べていたという。ただしシャンパンはよく飲んだとのこと。

 無事に批准書の交換を済ませると後は大量な面会希望者の対応に追われたという。またホテルの清掃員や給仕などの世話になった人物に扇子や錦絵などの日本の品を渡していたためにこれが大人気となって「何か欲しい」とやって来る人が増えてしまったという。人気は毛筆のサイン入りの紙(つまりは名刺)だったらしい。この頃からアメリカ人は漢字が結構好きだったようだ。

 

 

小栗の秘密任務にアイドルになった日本人

 なお小栗はこの時に不平等な金銀交換比率の改正の任務を密かに受けていたようだが、その改正はならなかったものの、日本の小判は金含有量が多いことが判明し、これは後の不平等条約改正の1つの切っ掛けになったという。

 次に使節団はニューヨークに向かうが、ここでの歓迎も熱烈だったという。またここで日本使節団からアイドルが誕生したという。それは通詞見習いの立石斧次郎17才。為八と言う幼名でタメと呼ばれていたことから、トミーと呼ばれるようになって愛嬌のある性格もあって、まず船員に人気が出、そこから話が外に出て空前の大人気となって女性たちから香水を振りかけた手紙を大量に送られることになったとか。さらには舞踏会ではトミーポルカなる曲まで披露されたとか(後に全米で大ヒットしたらしい)。ニューヨークは一躍日本ブームだったという。

 ニューヨークを後にした一行は喜望峰回りで世界一周して帰国する。なお帰国した彼らを待ち受けていた運命は決して平穏なものではなかった。小栗は優秀すぎたことで新政府に警戒されて斬首にされ、トミーこと立石斧次郎は新政府の役人を退職後に職を転々として70才で亡くなり、玉蟲左大夫は戊辰戦争に幕府側で参戦し、獄中で自刃したという。

 

 

 幕末の遣米使節について。初めて文明国アメリカを目の当たりにした彼らの驚きやかなりだったろう。実際に自分の目で見たら、こんな国とは友好関係を結ばないととてもではないが戦うなんてとんでもないと実感したろう。実際のところ国内で尊皇攘夷を唱えていた連中はほとんど外国について知らないものばかりで、実際に海外に渡航した連中はすぐに「攘夷なんて無理」と悟ったという。

 こうして帰国した使節団だが、帰国してからの運命が悲しい。特に小栗などは非常に優秀な人物であって、本来なら日本のために活躍するべき有為の人材だったのだが、偏狭な新政府が有能故に殺害してしまったというアホ丸出しの行動をしている。結局はその後の新政府は人材不足で右往左往するのであるが。何だかんだ言っても、結局は一番の人材は幕臣にいたのである。そりゃ権力機構考えたら分かるというものである。新政府で薩長の連中が私欲むき出しで無茶苦茶した結果、日本はしばし大混乱になることになる。ちなみにこの長州閥の腐敗のひどさは未だに伝統として引き継がれている。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・1860年、幕府から日米修好通商条約の批准書の交換のために77人の使節団がアメリカに派遣される。
・アメリカの軍鑑のポーハタン号に乗り込んだ一行は、途中で嵐に翻弄されながらも、ハワイに立ち寄ってからサンフランシスコに上陸して大歓迎を受ける。
・さらにそこからパナマに渡って地峡を鉄道で移動、次にもっと大きな軍鑑であるロアノーク号でワシントンへと到着する。
・ワシントンで一行は熱烈な大歓迎を受ける。アメリカはこの歓迎に多額の費用をかけていた。これは日本との貿易の利益に対する期待が非常に大きかった。
・一行は文化の違いなどに戸惑いつつも、アメリカの技術力などに目を見張ることになる。また一行が与えた日本の品々などが大人気となり、ホテルには何か欲しいと言う人々が訪れたという。
・次に訪れたニューヨークでも大歓迎だったが、ここで日本の通詞見習いの立石斧次郎(17才)がトミーと呼ばれてアイドル化する。彼は大量のご婦人からの手紙を受け取ったという。
・帰国は喜望峰経由で世界を一周して一行は戻ってくる。しかし戻ってきた面々を待ち構えていたのはその後の過酷な運命だった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・何となく、幕府の一番最後の良かった頃という気もしないでもないです。幕府はこの後の崩壊が早すぎました。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work