教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/30 BSプレミアム 英雄たちの選択 「山内容堂・大政奉還への道~酔いどれ藩主奮闘記~」

土佐藩主・山内容堂の生涯

 今回は薩長に比較するとどうも地味さが否定できないにもかかわらず、優秀であることは知られていた土佐藩主・山内容堂についてである。

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山内容堂

 

 

海外との交易で富国強兵を目指していたが

 山内容堂は山内家の分家に産まれている。しかし22才の時に運命に転機が訪れる。藩主が二代続けて急死し、後継ぎとして英明と知られていた容堂が抜擢される。容堂は藩主に就任してさらに猛勉強に励む。この時代は列強からの干渉などが増していて、幕府の弱腰は容堂にとっても容認しがたいものであった。彼は西洋の文明を進んで取り入れて国力を強化することを考えていた。そして容堂の考えを参政の吉田東洋が進めた。彼は岩崎弥太郎を取り立てて積極的に長崎での交易に当たらせるなど積極的な通商政策を進める。

 東洋が報告した海外の情報を容堂は積極的に取り入れた。しかし当時の幕政下では1つの藩が交易に乗り出すことなど不可能。そこで島津斉彬、松平春嶽などの開明派君主と共に英邁の誉れ高かった慶喜を将軍に立てるための運動に参加する。しかしこの動きが幕府の逆鱗に触れ、容堂は幕府から隠居謹慎を命じられる。33才で政治の表舞台から退くことを余儀なくされ、渋谷の屋敷に押し込められたこの時期に酒量もかなり増えたという。

 この頃、土佐では武市半平太が率いる土佐勤王党が勢力を増し、吉田東洋が暗殺されるなど土佐藩の中で力を拡大、同じく尊皇攘夷の長州とと手を組んで朝廷工作なども行っていた。

 1863年、ようやく謹慎が解けた容堂は朝廷と幕府の要請で上洛する。混乱する政情を収拾しようと武知との会見もなしているという。この時は容堂も武知には手を出せる状態でなかったのだが、八月十八日の政変で攘夷派の公家が根こそぎ追放され、禁門の変で長州が敗北して尊王攘夷派が都から一掃されると、容堂は武知以下の勤王党員を次々と捕縛して、武知には切腹を命じて勤王党を一掃する。そして容堂は藩の方針として富国強兵を打ち出し、東洋の甥である後藤象二郎を抜擢する。

 

 

慶喜を押し立てついには大政奉還も実現するが

 1867年、再び上洛した容堂は四公会議に臨む。ここで宇和島の伊達宗城、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽と共に慶喜の元で京で国政に当たるということになる。議題は兵庫の開港であり、慶喜はこれを実現することで影響力を示すことを狙っていた。しかし久光と宗城が長州の復権を先にすることを主張して会議は紛糾する。その背後には大久保利通の幕府から外交の実権を奪うという目論見があったという。これに対して容堂は大久保を排除した形で会議を進め、開港と長州の復権を並列して進めることにする。結果としてこれで薩摩は態度を硬化させ、武力倒幕を狙うようになる。

 一方の土佐でそれに呼応したのが乾退助(板垣退助)。乾は西郷と会見して、薩摩が倒幕に動いたら土佐藩兵を率いて参加すると約束する。これに危機感を感じた後藤象二郎が動く。この時に後藤象二郎が考えたのが大政奉還だという。後藤はこの案を携えて薩摩を訪れるが、西郷はこの考えに同調、慶喜に案を飲ませるために軍事的に圧力をかけることを持ち掛けたという。後藤は帰国すると容堂に判断を仰ぐ。

 ここで容堂の選択になる。大政奉還を進めるか、それとも乾の武力倒幕の道か。番組ゲストのほとんどが大政奉還であったが、実際に容堂は大政奉還で動く。しかも後藤の出兵要請を拒んで、あくまで言論で臨むとしたのである。これは容堂が考えていた理想の政治形態との絡みがあるという。イギリスの通訳アーネスト・サトウによると容堂はイギリスの憲法や議会の権限、選挙制度に対して非常に興味をもって質問したというのである。容堂はイギリス式の立憲国家を作ろうと考えていたのは明白だったという。

 この意を受けて後藤は土佐単独で大政奉還を建白する方向で動く。これに対して薩摩は土佐との盟約を破棄して長州と共に武装蜂起路線を突き進むことになる。そして土佐藩でも乾はその路線に同調していたという。また坂本龍馬も新式のライフルを1000丁土佐に持ち込んでいたという。そして薩摩は慶喜討伐の密勅を獲得しようとする。

 しかしまさにその日、慶喜が電撃的に大政奉還を実現してしまう。容堂は大政奉還しても慶喜が諸侯の上に立つ形になることを狙っており、慶喜はその意図を読み取った上で即断したのだという。

 

 

しかしあくまで武力倒幕を目指す薩摩に押しきられる

 朝廷は大政奉還を受け入れ、新たな政治体制は諸侯会議に託されることとなった。こうして諸侯は上洛を命じられたのだが、容堂は藩内の反対勢力の説得に手間取って上洛が予定よりも半月遅れることになってしまう。そして他の藩主の動きも鈍かった。その間隙を突いて薩摩が王政復古のクーデターを行う。この夜、幕府寄りの公家がすべて排除された中で小御所会議が行われる。前日に上洛した容堂はここで岩倉ら討幕派の公家に敢然と立ち向かう。慶喜が会議への参加さえ認められていないことは許せないことであった。容堂の正論が会議の空気を支配しそうになるが、ここで下座に控えていた大久保が「幕府の失政の責任は重く、慶喜は領地返上の必要がある」と主張する。議論は平行線となって会議は休憩に入るが、休憩後はなぜか容堂が沈黙を通し、会議は慶喜排除でまとまってしまう。なおここで容堂が沈黙した理由は未だに不明である(薩摩が何らかの形の脅迫をしたのではという気がするが)。結局は容堂はこの後政治から完全に離れたという。結局容堂は1872年に46才という若さで亡くなる(飲み過ぎが祟ったのではと言われている)。

 

 

 何とも中途半端な印象の残る人物であり、彼がもう少し頑張っていたら明治日本のあり方も随分と変わったのではという声があったのもその通りである。結局明治新政府は薩長の利権政治でグダグダになり、議会や憲法が設置されたのは随分と後になってしまう上に、それもイギリス式のものではなくドイツ式のものになる。これが後の日本の暴走につながったのも事実である。容堂がもっと生きて頑張っていたら、日清日露戦争もなかったのではという声もあったが、そういう可能性はなきにしもあらずだろう。また薩長利権政治でなく、もっと穏健な政体を築けている可能性が高いので、今日まで続く長州閥による腐敗の構図も存在しなくなった可能性がある。

 容堂のツラさは、藩主の意図が藩士に通じていなかったことだろう。武市半平太の暴走に見られるように、常に家臣連中が暴走して薩長に通じている状況だから、容堂が独断で動けば藩が分裂する危険が大きかった。実際に小御所会議の時も「あくまで反対するのなら乾らを蜂起させる」と脅されたのではというのが私の推測。とにかく足許が怪しければ大胆に動くことは不可能だったろう。この辺りは分家筋の出という容堂の出自も影響しているのかも知れない。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・山内容堂は土佐の分家筋の生まれだが、藩主が次々に亡くなって断絶の可能性が出て来たために22才で藩主に就任する。
・容堂は参政の吉田東洋と共に広く海外に交易に打って出ることを考え実行する。
・ただし当時の幕府の元では一藩主が海外交易に乗り出すことは不可能だったことから、英明で知られる慶喜を将軍に推す動きに参加する。
・しかしそのことが幕府の逆鱗に触れて、33才で隠居謹慎を命じられることになる。
・この間、土佐では尊皇攘夷を訴える武市半平太の土佐勤王党が力を増し、吉田東洋も暗殺される。やがて容堂は謹慎を解かれたが、すぐに武知を抑えることは不可能だった。
・しかし八月十八日の政変で朝廷内から攘夷派の公家が追放される。容堂はこの期に武知以下の土佐勤王党員を捕らえ、武知を自刃させて勤王党を壊滅させる。
・さらに四公会議で慶喜主導で兵庫を開港するという手はずを付け、慶喜の外交の実権を奪おうとしていた薩摩の思惑を砕く。
・これで薩摩は長州と組んで武装倒幕の方向を志向するようになり、土佐でも乾退助(板垣退助)らがそれに呼応するようになる。
・まさに討幕派が慶喜追討の密勅を得ようとする時、容堂は機先を制して慶喜に大政奉還を建白し、慶喜もそれを即断する。容堂はイギリス型議会制度を目指していたという。
・しかしあくまで武力倒幕にこだわる薩摩は王政復古のクーデターを実施して慶喜の排除を目指す。容堂はそれに対して毅然と抵抗したが、結局は会議は慶喜排除の方向で決して容堂も以降は政治から遠ざかることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・何か途中から嫌気がさしたのかなという気もなきにしもあらず。慶喜も同じところが垣間見えるのだが、現実を直視せずに尊皇攘夷だと浮かれまくっているバカ共を見ていたら嫌気もさしてこようというもの。慶喜は「じゃあお前らが政治を出来ると言うならやってみろ」という感があったようだが、実際にやってみたら新政府は幕府以上の失政で滅茶苦茶でした。

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