教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/6 BSプレミアム 英雄たちの選択 「将軍か執権か 鎌倉幕府・北条氏の戦略」

執権制度の曲がり角に登場した北条時頼

 大河ドラマ関連で鎌倉殿周辺の扱いが急増しているが、今回はその鎌倉殿の13人より50年ほど下った時代の第5代執権の北条時頼。曲がり角にさしかかった北条氏の執権制度の曲がり角を切り抜けた人物であり、理想の統治者としても挙げられることがあるという時頼はいかなる人物であったか。

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建長寺のこの時頼像は往時の姿を写実的に現していると言われる

 実朝暗殺で源氏の血筋の絶えた鎌倉幕府では、摂関家である九条家から九条頼経を将軍として迎え、北条家がそれを支える体制が確立される。3代執権の北条泰時の時代にその体制は確立して、北条氏の力は皇位継承権にまで及び、反幕府の公家を排除して縁戚関係の後嵯峨天皇を擁立するまで至る。しかし泰時の嫡男の時氏、さらにその息子で4代執権の経時までが若くして亡くなるという事態を迎え、急遽経時の弟の時頼が5代執権に20才で就任することになる。

 

 

執権就任も反対派の策動への対処に追われることに

 しかし時頼の就任には反対する勢力が存在した。特に経時の姻戚の名越氏は自身こそ正統との意識があり反対派の中心だったという。名越氏ら反時頼勢力が拠り所としたのは九条頼経だった。この頃頼経は既に将軍位を息子の頼嗣に譲っていたが、彼には前将軍として北条氏になりかわって幕府の実権を握るという野心が強かったという。頼経の元には名越氏以外にも三浦氏などの有力御家人が結集して、ついには反時頼のクーデターが計画されるに至る。

 だがこの敵対行動に対して時頼が機先を制して動く。これが宮騒動と呼ばれる事件だという。時頼は頼経の将軍御所に通じる道を押さえて頼経を孤立させ、さらには三浦氏当主の三浦泰村を味方につける。この迅速な行動によってクーデターは未発のまま収束、名越氏は所領のほとんどを奪われて流罪とされ、頼経は鎌倉から追放されて京都に送り返される。これで時頼は危機を切り抜ける。

 こうして就任直後の危機は切り抜けた時頼だが、争いはこれで終わらなかった。時頼の外戚に当たる安達景盛が自身よりも権勢を誇る三浦氏と対立したのである。一触即発の危機に両者の争いは避けたかった時頼は、三浦泰村の元に幕府は三浦氏を討伐する気はないという使者を送る。泰村もこれに安堵するが、使者が三浦邸から帰り着く前に安達勢が攻撃を仕掛ける。宝治合戦の始まりである。事態がここに及ぶと時頼も三浦氏から攻撃を受ける可能性があり中立を保つことはできず安達氏に加勢する。結果として三浦氏は頼朝を祀る法華堂に籠もって泰村・光村兄弟を含む500人余りが自害するという壮絶な結果で終わる。

 なお以上は「吾妻鏡」の記述に基づくものだが、東京大学の高橋慎一朗教授によると、この時に三浦氏の背後に九条頼経が黒幕として存在したという。実際に三浦光村は九条頼経に心を寄せており、頼経も幕府を支配する野望を捨てていなかったという。

 

 

幕府の体制を固めるために大きな決断を求められる

 とりあえず幕府を鎮めた時頼は御家人たちの保護を推進する。その一環が裁判制度の改革だったという。それまでの有力御家人の会議である評定ですべてを決するのを辞め、その前に引付という審議の場を新たに設ける。裁判を迅速かつ公平に行えるようにしたのだという。御家人同士の争いを公平に裁くという幕府が求められる機能を強化したのだという。さらには御家人たちだけでなく民の訴えを採決する道も開き民の信頼も獲得する。

 しかし未だに幕府内は完全に沈静化はしていなかった。反時頼勢力による謀反計画が発覚し、またもその背後に九条頼経の存在が明らかとなったのである。謀反は阻止されたが、頼経の息子である頼嗣が将軍として鎌倉にいる限りこの手の策動はまた起こることは間違いなかった。ことここに至って時頼は頼嗣を廃するより手はないことを痛感する。ここで時頼の決断である。

 1つは自らが将軍として立つということである。北条氏の力を考えると朝廷から征夷大将軍に任じてもらうことは不可能ではない。もう1つは九条家を超える権威として親王を新たな将軍として送ってもらうということである。ただこれは以前に義時の時に実現しなかったということがある。

 番組ゲストは親王を送ってもらうというのが大半。1人があえて将軍に就任するというものだったが、それは鎌倉殿に親王になってもらうという変化球で、あえて議論を起こすために選択したというニュアンスが強い。そして実際の時頼も親王を将軍として送ってもらうことを選ぶ。

 

 

幕府の体制を固めて「撫民」を謳い、武士の変化を促す

 時頼は後嵯峨上皇に対して親王を送ってもらうことを依頼し、後嵯峨上皇はこれに対して宗尊親王を鎌倉に送る。義時の時に実現しなかったというが、そもそもそれを拒絶した後鳥羽上皇はこの機会に鎌倉幕府を滅ぼすことを考えていたからであり、最初から親北条だった後嵯峨上皇が申し出を拒む理由はなかろう。なお磯田氏は時頼がトップに立つよりも、誰かを立てて自分が補佐という体制の方が安定性が高いと言っていたが、実際に他の御家人からしても、北条氏が絶対的トップに立つよりもこの体制の方が安心できるだろうと思われる。

 これで幕府が安定すると時頼は次々と新たな法令を発する。ここで注目すべきは撫民を掲げたことだという。これはその名の通り民を慈しめということであり、これは今までの私掠集団であった武士に統治者としての政治を求めることであり、これが後の政治家としての武士のあり方の基本となったとされている。この辺りが時頼が理想の統治者として挙げられる理由であると言う。こうして幕府の進む道を決めた時頼は37才という若さでこの世を去る。

 

 

 色々なした割には早逝した人物であるが、これは激動の人生に疲れたのかも知れないが、そもそも北条氏に早逝が続いていたことを考えると、既に北条の血筋自体が弱体化していた可能性がある(近親婚などの弊害ではと思う)。

 なお時頼が「あまり戦好きの人物でなかった」ことからこのような方向性になったのではと言っていたゲストもいたが、確かにその方向性はあるように感じる。「時頼は信長のような隔絶した人物でなく、普通の人だった」という指摘はそうかもしれない。普通の人だったが故に、普通に統治できる方向を考えたのでなかろうか。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・北条氏の嫡流の相次ぐ早逝で5代執権となった時頼だが、いきなり内紛にさらされる。
・4代執権で時頼の兄である経時の外戚である名越氏は特に強い不満を持ち、元将軍の九条頼経を担いでクーデターを計画、これに三浦氏など有力御家人も荷担する。
・しかしクーデターは発生前に時頼が事前に鎮圧、三浦氏も時頼についてクーデターは失敗、名越氏は所領を奪われて追放、九条頼経も鎌倉を追放されて京に送られる。
・だが次には時頼の外戚の安達氏が三浦氏と対立、時頼は衝突を回避しようとするが失敗、やむなく安達氏に加勢する。結局は安達氏が三浦氏を滅ぼす事態に至る。
・一応幕府を鎮めた時頼は御家人の保護のための政策を実行するが、またも九条頼経が黒幕となった謀反計画が発覚、頼経の息子である頼嗣が将軍で有る限りは同様の事態の再発は必至であり時頼は決断を迫られる。
・自らが将軍となるか、親王を新たに将軍として迎えるかであるが、時頼は後者を選び執権として支える形で幕府の安定化に成功する。
・この後、時頼は打ち出した政策には「撫民」が謳われており、それまでの私掠集団の武士を統治者として変化させる方向が見定められている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・なんか時頼を見ていたら、統治者は社会常識を持つ普通の人が向いていて、上昇志向や権力欲だけが強い奴は百害あって一利なしという気がしてくる。そう言えば今の日本を見ていると、社会常識の欠片もない二世の馬鹿ボンとか、自身の権力欲だけで成り上がりを狙っている野心家とかが多くて、常識のある者が見当たらない。こりゃ社会がドンドンと住みづらくなるわけである。

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