教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/18 BSプレミアム 英雄たちの選択「激突!秀吉vs島津兄弟~九州平定・白熱の攻防戦~」

秀吉に戦いを挑んだ島津四兄弟

 シマヅレッド、シマヅブルー、シマヅイエロー、シマヅグリーン、4人揃って「島津四兄弟!」ってノリで戦国でも有名なのが島津義久、義弘、歳久、家久の四兄弟である。長兄義久が知将で、3人の弟はそれぞれ猛将で、九州で圧倒的な強さを誇っていた。

     
このシリーズにまさに島津四兄弟が登場します

 彼らは自らの生存のためにも九州平定を目指しており、残るは大友氏だけというところまで行っており、その大友軍をも耳川の合戦で得意技の釣り野伏と鉄砲の効果的使用で壊滅させたことで、九州平定は既に目前と迫っていた。ここで大友宗麟は最後の手段として天下統一を進めていた秀吉に泣きつくことになる。そこで秀吉は九州に対して即時に合戦を停止するようにとの沙汰を下す。これに対してどう対処するかを義久は重臣達に諮ったところ、勇猛な薩摩武士たちは「秀吉恐るるに足らず」の声が圧倒的だったという。そこでとりあえず義久は静観をすることにする。

 しかし大坂からの報告が入ったことで事態は一変する。秀吉は勝手に九州の国割りを計画しており、九州の地を分割して家臣に分け与えることを考えていた。自分達が獲得した九州に対する勝手なやり方に島津は激怒、公然と秀吉の沙汰を無視して大友領に侵攻を再開する。

 

 

派遣された四国勢を完膚なきまでに撃退するが、情勢が急変する

 島津がこのような大胆な行動に出たのは島津なりの分析があったという。当時はまだ秀吉に屈服していない勢力として徳川、北条、伊達などが存在し、さらに秀吉は小牧・長久手で家康を敵に回して苦戦中であった。その上に近畿地方の大地震で秀吉方の城が大被害を受けており、秀吉自身が九州に出向くことなど到底不可能な状態だった。

 それでも秀吉は沽券に関わるので仙石秀久や長宗我部元親などの四国勢を九州に差し向ける。しかしこの軍勢を戸次川の戦いで迎え撃った家久が、鉄砲の効果的使用で完膚なきまで打ち破る(長宗我部元親はこの戦いで嫡子の信親を失っており、そのショックかその後の元親は明らかにおかしくなり、結局はこれが後の長宗我部氏の凋落に結びつくことになる)。これで島津は大友氏の大拠点である府内を手に入れ、九州平定は目前という状況になる。

 しかし畿内の情勢が大きく変化した。家康が秀吉に屈服したのである。これで当面の背後の敵の心配がなくなった(北条などはまだいるが、北条から攻め込んでくることはまずないし、伊達は遠すぎる)秀吉は、将来の朝鮮出兵を見越して九州平定へと乗り出してくることになる。

 

 

戦いの分水嶺となった高城合戦

 秀吉は20万以上の軍勢で九州に出陣する。圧倒的な軍勢に島津軍は九州南部に押し込まれていく。その戦いの分岐点となったのが九州西部の高城合戦だという。番組ではお城クンこと千田氏が高城を訪問して紹介しているが、この高城は三方は断崖に囲まれ、西側の尾根筋には幾筋もの深い竪堀で防御しているという堅固極まりない城郭である。ここに立て籠もる城兵1300に対し、豊臣軍10万が取り囲んだが、城の堅固さのためにさしもの大軍も攻めあぐねたという。そこで南方2キロにある根白坂に目をつけて、ここに陣を構える。

 この陣の特徴は10日間ほどでかなり本格的な陣地構築を行い、高城側だけでなく、背後の方にも深い堀と堅固な柵を設けていた。これは高城を救援するためにやってくる後詰めの軍勢をここで撃退することを考えてのことだという。

 そして目論見通りに義久が後詰めに現れる。さらに義弘、家久も夜討ちをかけたという。しかし巨大な堀に行く手を妨げられた上に、堅固な柵は倒そうとしても倒れなかったという(実は高さ180センチの柵はその下側がさらに180センチ地面に埋められていたという)。堀に落ちた島津兵は雨あられのような銃弾を浴びせられてことごとく討ち取られ、甚大な被害を出して撤退に追い込まれる。

 

 

島津を残すか潰すかの判断

 結局はこの後、義久は剃髪して秀吉に降伏を申し入れる。ただ当主の義久は降伏したものの、歳久は堅固な虎居城に立て籠もって徹底抗戦を唱えていたという。ここで秀吉の選択だが、島津を滅ぼすか、それとも薩摩一国を安堵するかである。これに対して番組ゲストの意見は全員、薩摩一国を安堵するというもの。薩摩に徹底的にゲリラ戦で抵抗されると、秀吉側の被害も甚大なものになり、とても朝鮮出兵どころでなくなるのがオチという判断である。そして秀吉も実際に薩摩を安堵して島津の面目を立てることにする。

 さらに降伏した家久の日向、後に恭順した義弘の大隅も安堵したので、兄弟で三カ国が安堵される結果となったという。ただし歳久は最後まで秀吉との対面を拒絶し、秀吉の帰り道で輿に矢を放ったという。秀吉にとっては九州出陣は完勝とはいかなかったのである。島津がかなり手強かったのと、秀吉の方にも今後中国に乗り込むに当たって島津の中国とのパイプを活かせるという判断もあったのではとのこと。

 

 

 以上、薩摩バーサーカー軍団島津氏の話。とにかく薩摩兵は幼い頃からの徹底した洗脳教育で、ほとんどジハード兵になってますから、それを相手に回して戦うのは分が悪いでしょう。また磯田氏が言っていたように、確かに島津を潰すつもりならそれは出来なくもなかったが、その後の統治が困難を極めることになるのは確実なので、それなら島津を残した方が正解というのはその通りだろう。

 そしてこの時、不本意ながらも降伏をすることになった島津軍団は、関ヶ原での敵中突破でまたも名を上げ、結局は家康さえも島津を潰すことは諦めざるを得なくなるわけである。そうやって生き残った島津が、最終的には幕府を倒すことになる。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・九州平定を目指して大友を追い詰めていた島津氏だが、秀吉からの停戦命令を受けることになる。しかし秀吉が九州を勝手に国割りすることを考えていることを知り、秀吉の命令に反して大友への攻撃を再開する。
・それは当時の秀吉は小牧長久手で家康と戦いの最中である上に、地震で畿内に大被害が発生しており、自ら九州に出向くことは不可能との判断があってのことである。
・秀吉は仙石秀久、長宗我部元親などの四国勢を九州に差し向けるが、その軍勢は家久の軍に完膚なきまでに打ち破られてしまい、島津は九州平定目前にまで迫る。
・しかしその頃、家康の秀吉への恭順によって情勢は一気に変化する。秀吉は将来の朝鮮出兵を視野に九州平定に乗り出し、20万以上の大軍を送り込む。
・劣勢に追い込まれた島津軍の分水嶺となったのが高城合戦。堅固な城に攻めあぐねた秀吉軍は、根白坂に堅固な陣地を築き、高城救援のために後詰めに現れた軍を叩くことを目論む。
・秀吉軍の目論見通り、義久自ら率いる後詰め軍が到着、陣地を背後から攻撃するが、堅固な防御施設に阻まれて大被害を出して撤退に追い込まれる。この後、義久は自ら出頭して降伏を秀吉に伝える。
・当主の義久は降伏の意志を示したが、他の兄弟は抗戦の意志が強く、秀吉がもし島津を滅ぼすならかなり犠牲は必至だったため、秀吉は義久に対して薩摩一国を安堵する。また後に降伏した家久や義弘の領地も安堵した結果、島津家は兄弟で三国を安堵されることになる。
・ただそれでも歳久だけは徹底して降伏を拒絶し、帰り道の秀吉の輿に対して矢を射かける。秀吉に取っては完勝とは言えない結果であった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・千田氏は現地を訪問してますが、高城は公園になっているので現地見学したようですが、根白坂については「特別な許可を得て」現地見学していたということは、根白坂は私有地なんでしょうね。さらに虎居城に至っては遠くから説明していただけですから、恐らくこちらも私有地で立ち入り許可が取れなかったんでしょう。
ということは我々が現地訪問しても、実際に見学できるのは高城までかな。根白坂はしっかりとマナーを守れば立ち入り出来なくもないのかもしれないが。

次回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work

前回の英雄たちの選択

tv.ksagi.work