教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

5/25 BSプレミアム 英雄たちの選択「不平等条約を改正せよ!陸奥宗光の外交戦略」

藩閥の壁に阻まれた陸奥宗光

 今回は不平等条約の改正に奔走した陸奥宗光について。

 陸奥宗光は紀州藩の勘定奉行の子として生まれ、学識豊かな父の元で英才教育をされる。しかしそれは9才の時に父が政争に巻き込まれて失脚したことで変化することになる。また日本もその頃動乱の時代を迎える。尊王攘夷の嵐が日本を席巻する。陸奥は自身の才覚で生きて行くべく和歌山を離れて志士活動に身を投じる。そして20歳の頃に坂本龍馬に出会って大きな影響を受けることになる。陸奥は海援隊に参加、そして商社の設立を龍馬に献策したという。陸奥は海援隊で商事部門の責任者となる。陸奥はオランダ商人と交渉して銃の輸入などに奔走した。しかし龍馬は暗殺されることになる。

 龍馬の死から1年後に新政府が成立する。陸奥はその手腕で実務に腕を振るう。この頃に伊藤博文と交流を深めた。二人は国家の将来について夜通し語り合うなど意気投合するが、伊藤と違って藩閥の後ろ盾がない己の限界に直面する。藩閥出身者よりも低い待遇に甘んじるしかない状況に不満を感じた陸奥は、ついに大蔵省を辞職する。そしてその不満から、西南戦争に呼応しての反政府グループのクーデター計画に連座して収監されることになる。

 山形監獄に35歳で収監された陸奥は、獄中で差し入れられた書物の読書に明け暮れたという。この時に西洋の思想書や歴史書などに読みふけったという。その期間は4年半に及ぶ。

 

 

伊藤博文によって外交に起用される

 陸奥は刑期を半年短縮されて出獄する。これは伊藤の働きかけだったという。伊藤は外交の場に陸奥を起用する。そしてここで陸奥は条約改正問題に直面する。不平等条約の問題は領事裁判権と輸入関税の制定権のないことだった。歴代の外務大臣がその改正に挑んできたがことごとく失敗していた。

 ワシントンに着任早々、陸奥はメキシコとの交渉に臨む。日本との条約締結を望んできたメキシコに対して、陸奥は対等条約でないと受け入れないと主張、その代わりに内地解放(居留区以外でも商売が出来る)を提案する。内地解放は列強にもメリットがあるので、これを見て列強が条約改正に乗り出してくることを狙ってのことだったという。こうして日墨修好通商条約が締結される。初めての対等条約であった。

 1892年、第二次伊藤内閣が成立すると陸奥は外務大臣に抜擢される。ヨーロッパに派遣していた外交官から「ポルトガル政府が新たな条約締結の意志がある」との連絡を受ける。これが成功すれば大きな一歩になる。しかし公使を派遣するが、ポルトガルにその意志は全くないとの報告が上がる。ポルトガルが新条約で内地解放の特権を独占することを警戒した列強が介入したのだった。陸奥は条約改正には本丸であるイギリスを何とかするしかないと考える。

 その陸奥の元に、ポルトガルの交渉を受けてイギリスが条約改正に前向きな姿勢を見せたとの報が届く。憲法制定で日本の法制度が整備されたことで、イギリスとは条約改正の機運は徐々に高まっており、前任の青木周蔵外務大臣は関税には手を付けずに内地解放と引き替えに領事裁判権を撤廃するという方針で交渉を進めていた。しかし最中に大津事件が発生、青木が責任を取って辞任したことで交渉は中断されていた。その交渉が再開となったのである。

 

 

イギリスとの交渉、段階的改正か対等条約か

 ここで陸奥の戦術だが、とりあえず領事裁判権の撤廃を実現する段階的改正を目指すか、対等条約を求めるかである。前者の方が容易であるが、問題は国内に高まっている不満をそらすことができないのではということであった。

 これについて番組ゲストの意見は意見が分かれたが、対等条約をぶつけた上で譲歩として段階的改正で手を打つという考えもあった。またハッタリと言うだけでなく、それでとりあえず国内を鎮めろという話でもある。

 陸奥は対等条約を掲げることを選ぶ。しかしこれは路線変更であり、政府内で大きな論議を呼ぶ。こうして陸奥は青木を起用してイギリスとの交渉に当たらせる。しかし国内では外国人排斥の機運が高まっており、内地解放で外国人が国内を自由に動き回ることへの抵抗はかなり強いものがあった。さらに議会でも対外硬派が勢力を拡大し、独自の強硬案を提出するなどに及ぶ。イギリスはこれに反発し、交渉の中断を表明し始める。

 このままでは条約改正が頓挫すると陸奥は自ら議壇に立ち、対外硬派を強烈に批判する。そして伊藤も議会を直ちに解散して断固たる姿勢を示す。政府を追い込むことで対外硬派を利することになるのを警戒したイギリスはついに交渉に応じる。結果として1894年に日英通商航海条約が調印される。この条約で領事裁判権は撤廃されたが、関税の自主権は持ち越された。そして関税の自主権が回復されるのは1911年になる。と言うわけで結果としては段階的改正になるのである。

 晩年に陸奥が記した書籍には「外交を支えるのは武力ではない。国民外交上の知識である」と示されている。

 

 

 以上、陸奥宗光について。才はあるが角もある人物なので、今の時代だと起用されないだろうという話も出ていたが、まさにそうなんだろう。このような難局にはこういうクセは強いが能力がある人物というのが出てくるものである。

 それにしても今の日本の外交のグダグダっぷりを見ていると、明らかにこの時代よりも劣化しているではないかってのが情けない。「外交を支えるのは武力ではない」なんて言うのは今こそ噛みしめるべき言葉だろう。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・紀州出身の陸奥宗光は、坂本龍馬と知り合ったことで海援隊で頭角を現し、その後は伊藤博文と意気投合する。
・陸奥は明治新政府で働くが、藩閥のバックがなかったことから低い待遇に甘んじることになり、そのことに不満を感じて大蔵省を辞任する。
・藩閥に対して不満を抱いていた陸奥は、西南戦争に乗じた反政府クーデターに連座して収監されることになる。
・その陸奥を外交の現場に起用したのが伊藤博文である。陸奥は不平等条約の改正に取り組むこととなり、条約締結を求めてきたメキシコと内地解放を条件に対等条約締結に成功する。
・次にポルトガルと接触するが、列強の介入で頓挫する。条約改正には本丸のイギリスと交渉するしかないと考える。
・イギリスとは憲法制定に伴う法制度の整備などで条約改正の機運は高まっていた。政府はとりあえず領事裁判権撤廃の方向で交渉を進めていたが、大津事件で頓挫する。
・陸奥はイギリスと交渉再開するが、この時に陸奥は段階的改正でなく、対等条約の締結を主張する。
・しかし日本国内の外国人排斥感情の高まりからイギリスは交渉の中断を主張し始める。
・陸奥は議会で対外硬派を痛烈に批判し、伊藤も議会解散など断固たる処置を取る。これに対してイギリスは日本政府を追い込んでも対外硬派が実権を握ることになりかねないと日本と新条約の締結に合意する。
・結果的には関税自主権の回復は棚上げして、領事裁判権撤廃を掲げた段階的改正に留まるが、これを期に列強との条約改正が進み始める。結局は関税自主権の回復は1911年になる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・外交には何らかのカードが必要なのだが、この時に日本が用意したカードは内地解放だった。確かに内地解放だったら領事裁判権撤廃とバーターにしやすい(居留区内だったら領事が裁いても、日本全国での事件を領事が裁くわけには行かないだろうと言うことが出来る)。当時の外務省は良く考えていたと思います。

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