教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/30 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「ロシア皇太子暗殺未遂!大津事件」

日本を震撼させた大津事件

 今回のテーマは、明治日本がいきなり大国ロシアと戦争になって滅亡かもと震撼した大津事件。来日したロシア皇太子に護衛の警官が斬りつけたという謎の多い事件である。なおこの事件は以前に「英雄たちの選択」でも取り上げられており、当然ではあるが内容的にはそれとかなり被る。

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 まずロシア皇太子が訪日することになった経緯だが、訪日したのはニコライ皇太子、父のアレクサンドル3世は身長190センチの巨漢で、ロシア最強の皇帝とも言われていたが、息子のニコライは中肉中背の心優しき皇子だったという。その皇子に見聞を広めさせるべくアレクサンドル3世は近隣諸国を訪問させたのだという。

 

 

大国ロシアの力を恐れて国賓待遇で皇太子を歓待する

 これに対する日本の反応だが、新聞などは日本侵略を目論むロシアがそれに備えての偵察に皇太子を送り込んできたという警戒論が主流だったという。それはこの頃、ロシアはイギリスと並んで日本などのある極東地域への進出を強めていたからだという。また千島とサハリンを巡る領土問題なども一因にあった。しかし明治政府はロシアの機嫌を損ねてもし戦争にでもなれば軍事力国力共に桁違いのロシア相手では話にもならないことから、ニコライ皇太子を国賓として迎えることを決定する。明治天皇は留学経験のある有栖川宮威仁親王を接待役に命じて皇族総出の歓迎の準備を進める。

 1891年4月27日、ニコライが長崎に到着する。この時には途中で合流したニコライの従兄弟でギリシャ王子のゲオルギオスも同行していた。ニコライは実は訪日前に、フランスの小説家ピエール・ロチが長崎滞在経験を元にして書いた小説「お菊さん」を読んでおり、日本についての予備知識はある程度有していたという。特に芸者に対して非常に興味を持っており、長崎滞在中に芸者遊びも体験しているという。また骨董店で土産物を購入したり、刺青師に竜の刺青を彫らせることまでしたという。また鹿児島で歓待を受けた際にはそのもてなし料理にいたく感動し、ロシアでもいつもこういう夕食を摂りたいと日記に記しているという。

 その後、船で神戸に移動し、京都のホテルに5月9日に入る。ホテルで洋室と和室のうち、彼は和室を選んだという。そして京都でもやはり芸者遊びをしていたという。そして事件の5月11日を迎える。

 

 

西南戦争への従軍経験のある津田三蔵

 さて犯人の津田三蔵であるが、三重の津藩の藩医の次男として生まれ、明治維新後に18才で陸軍に入営し、西南戦争に従軍したという。彼はそのことを名誉と考えていたらしいが、戦後は病を発症して入退院を繰り返している。その最中に西南戦争の功で勲七等の勲章を与えられており、そのことを非常に誇りに感じていたという。この勲章はその後の津田の人生において大きな拠り所であったという。

 陸軍除隊後は三重県警の巡査となるが、同僚を殴ったことで免職となる。しかし隣の滋賀県警にすぐに採用されて6年後、37才で大津事件を起こす。

 事件当日はニコライはゲオルギオスと共に大津に観光に訪れ、三井寺や唐崎の松を鑑賞後、滋賀県庁で昼食後京都のホテルに戻ることになっていた。大津警察署はこの日の警備に150人以上を動員、その1人が津田三蔵であった。津田は三井寺近くの記念碑の前で警備に当たっていたらしいが、その記念碑は西南戦争の犠牲者を弔うためのものであった。この時にロシア人の随行員が記念碑に対して一礼もしなかったこと(何の記念碑かは知らないのだからある意味当然なんだが)、また人力車夫が這いつくばってロシア人に説明している姿に不快感と屈辱を感じたという。

 

 

突然の事件発生、事件の影に西郷隆盛?

 県庁で昼食を摂り、県内の名産品を見学したニコライは京都に戻るために人力車で移動していた午後1時50分頃、人力車が警備の津田のすぐ前にさしかかると津田は右手を挙げてニコライに最敬礼、しかしニコライはそれに答えるそぶりは見せなかった(まあ当たり前だな)。すると突然に津田がサーベルを抜いてニコライに斬りかかったのだという。その直後に誰かに突き飛ばされてよろめくものの(人力車夫が飛びかかったはず)、さらに二太刀目を浴びせる。ニコライの傷は右側の頭部からこめかみにかけて長さ7センチと9センチの斬り傷を負い、一説によれば頭蓋骨にも達していたという。ニコライは滋賀県庁で手当を受けた後、汽車で京都のホテルに戻る。

 津田の犯行の動機について、本人は「ニコライ皇太子来日の目的が日本の偵察にあったこと」「天皇にまず拝謁せずに日本各地を周遊することは不敬である」「ロシアと不平等な条約を結ばされているのに、ニコライを国賓と迎えるのはおかしい」と語ったという。ちなみにこの不平等条約とは修好通商条約のことでなく、1875年に締結した樺太・千島交換条約のことで、樺太の方が面積も広くて資源なども豊富であることから、不平等な条約を強制されたと巷の不満は高かったという。さらに津田の犯行の背景にはもう一つの要因も考えられるという。

 それは西南戦争で死んだとされた西郷は実はロシアで生きており、ニコライ皇太子と共に帰国するという噂話がニコライ来日前に掲載されていたのだという。そしてその記事はさらに、西郷が生きていたら天皇陛下は西南戦争での功績の勲章を取り上げるだろうと続いていたという。津田としては自らの心の拠り所である勲章を取り上げられることは到底耐えられるものではなかったはずだという。さらには先の記念碑での諸々などが積み重なり、衝動的に犯行に及んだのではという。なお津田は妻に「ご通行が早く済めばすぐに帰る」と語ってから出かけており、計画的犯行でないことを示しているという。なお津田は、当日ニコライを歓迎するために打ち上げられた狼煙に西南戦争のことを思い出したと語っているという。

 こうして津田の話を聞いていると、どうも大分精神を病んでいることが窺われ、西南戦争後の病気というのもメンタルの病気だったのではという気がする。

 

 

事件にパニックとなる国内で、明治天皇の異例の行動

 事件の報に日本中は騒然とする。事件発生から2時間後には明治天皇は緊急の御前会議を招集して大臣達が対応を協議した。また伊藤博文も療養先の箱根から駆けつけた。もしロシアが日本に報復として莫大な賠償金を課す、最悪は宣戦布告となるとまさに日本は消滅の危機でもあった。また国民はロシアに対して謹慎の意を示そうと祭礼行事は中止され、大相撲の5月場所も取りやめ、株式市場の取引停止などが行われた。中には津田姓を名乗ることや、三蔵と命名することを禁止する条例を決議した村さえあった。さらに京都でロシアへの謝罪の意を表するために自らの命を絶つ女性まで登場する。

 この状況下で明治天皇は前代未聞の行動に出る。事件翌日の5月12日の朝6時半過ぎ、明治天皇は列車で14時間かけて京都に見舞いに駆けつけたのである。天皇の行幸となると多くの儀式や手続きが必要になるのだが、そんなものはすべて無視しての異例の行動であった。

 翌日、ニコライを見舞った天皇は、命にかかわる傷を負っていないことに安堵すると、予定通りに東京や東北への旅を続けてくれるように願い出る。明治天皇は東京でニコライを歓待し、そのことで日本に対する悪印象を払拭したいと考えていた。しかしロシア本国は警備の巡査が襲撃したということに不安を感じ(まあ当然である)、神戸港に停泊しているロシアの軍鑑で帰国するように命令が下る。明治天皇はニコライをこのまま帰してはならないと伊藤博文をロシア公使の元に向かわせるが、ロシア側の意志は固く、さらに皇太子の身の安全を保証するために京都から神戸まで天皇に同行して欲しいと要求する。天皇の側近や政府高官は当惑するが、明治天皇はそれを聞き入れてお召し列車にニコライを乗せて神戸まで送り届ける。異例づくめの対応を行っている。

 しかし明治天皇はまだニコライをもてなすことを諦めておらず、ニコライから5月19日に日本を発つとの連絡を受けると、これが最後のチャンスと前日の18日に「明日昼食を差し上げたい」とニコライを神戸の御用邸に招待する。これをニコライは喜んだが、側近は再び襲撃されたら一大事と猛反対。そこでニコライは軍鑑で午餐会を開催して、逆に天皇を招くことにする。しかし今度は天皇の側近が「もし毒を盛られたり拉致されたりしたら」と難色を示すが、天皇は「先進文明国のロシアがそのような野蛮な行いをするはずがない」と少数の側近と通訳だけを連れて午餐会に臨む。事件に対して遺憾の意を示す天皇に、ニコライは「傷は極めて浅く、陛下が憂慮されるにはあたりません」と答えたという。そして午餐会は和やかに終わり、ニコライは帰国の途につく。

 

 

三権分立を死守した児島惟謙

 さらにこの事件は司法の場でも問題を引き起こす。当時の法律に従えば津田は計画的でない犯行での殺害未遂なので、刑は一番重くても無期懲役となる。しかし政府はロシアの感情を鎮めるために早急に死刑に処しようと考えていた。そこで強引に皇族に対して危害を加えた場合の処罰を適用しようとする。松方正義はこの綱目を拡大解釈して外国の皇族にまで適用することを考えたのである。そこで大審院長の児島惟謙を呼び出して、皇族に対する罪で裁くように要請する。しかし児島は一般人に危害を加えた罪で裁くべきと主張する。松方は露骨に圧力をかけるが児島はあくまで拒否、そこで今度は担当裁判員を説得して7人中4人を政府の行こうに従わせることに成功する。しかし児島は政府側に回った2人の裁判員を直接に説得して考えを改めさせる。結局は津田三蔵は無期懲役の判決となり、司法の独立が貫かれることとなる。

 なおロシア政府はこれに対し「判決が日本の法規に基づくものなら、皇帝はこれを了承し、国民も満足している」と評したという。なお津田三蔵はその4ヶ月後に急性肺炎で獄死している。

 

 

 日本政府がロシアをどれだけ恐れていたかが分かるドタバタであるが、ここで無理矢理に法を曲げて津田を死刑にしていたら、結果として日本政府は諸外国から侮られることになったろう。ロシア政府もやけに「大人の対応」をしたが、ニコライ皇太子の対日感情が決して悪くはなかったのと、やはり基本的には心優しい人だったのだろう。

 しかしこのニコライ皇太子が日露戦争の時のロシア皇帝であり、その後はロシア革命で捕らえられて家族諸共処刑されたというのは悲しい現実である。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・日本中を震撼させた大津事件では、ロシア皇太子のニコライが、警護の巡査の一人の津田三蔵に斬りつけられた。
・当時のロシアは南下政策を進めており、ニコライの訪日は見聞を広げるためのものだったが、日本侵攻のための偵察ではという観測は新聞などでも言われていた。
・犯人の津田三蔵は西南戦争に従軍して勲章を貰ったことを誇りにしていた。犯行の動機についてはニコライの訪日が偵察であること(新聞の意見を信じていた)、天皇にまず拝謁せずに国内見学をしたことが不敬である、ロシアとの千島樺太交換条約に対する不満などを上げたという。
・またニコライ来日前に、新聞に西郷はロシアで生きており、ニコライと共に西郷が帰国すると青南戦争での勲章は取り上げられるという記事が掲載されており、これが津田の不安を高めたとも考えられるというが、津田の犯行自体は計画的ではなくて衝動的なものだったとみられるという。
・事件後、日本中は大騒ぎとなり、国民はロシアへの謹慎の意を示すとして大相撲5月場所が中止になり、株式市場の取引停止など大きな影響が広がった。
・また明治天皇は事件発生2時間後に緊急閣議を召集、対応が協議された。天皇は翌朝、列車で京都に駆けつけるという異例の行動を行ってニコライを見舞う。
・明治天皇はニコライを東京に招いて歓待することを考えていたが、ニコライは本国の命で帰国することになる。そこで天皇はロシアの要求に従ってニコライを神戸までお召し列車で送る。
・それでもニコライとの会食を諦めていなかった天皇は帰国の日の昼食に招待しようとするが、再度の襲撃を警戒するロシア側が反対、ロシア戦艦内でニコライ主催の昼食会に天皇を招待することになる。
・拉致や毒殺を警戒する周囲を押しとどめて天皇はそれに参加、昼食会はなごやかな空気の中で終了、ニコライもロシアに帰国する。
・事件後、政府は津田に対して皇族に危害を加えた場合の法令を適用して死刑に処するように裁判所に圧力をかけるが、大審院長の児島惟謙がそれに抵抗。あくまで一般人に対しての罪で裁き、無期懲役の判決を下す。
・津田の判決に対し、ロシア政府は「日本の法令に従ったものであれば、皇帝も了承し、国民も満足している」と評する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・こんな時代でさえ、司法はあくまで政府の圧力に抵抗したというのに、今の司法はどうなってるんでしょうね。司法の方から進んで政府に媚びている状態。三権分立どころか三位一体が日本の実態。この腐敗ぶりは児島が見たらあの世でさぞ嘆くだろう。

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