教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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6/20 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「若き織田信長の野望!尾張統一への道」

尾張統一までの信長の若き日

 天下統一の手前まで行った織田信長の生涯と言えば、桶狭間の合戦から語られることが多いが、今回はその手前の尾張統一までの信長の人生に注目する。番組では江戸時代初期に信長の側近だった太田牛一が記した一級資料「信長公記」に基づいて信長の若き日を紹介している。

 織田信長、幼名吉法師は、1534年に尾張の虎と恐れられた織田信秀と正室の土田御前の間に嫡男として生まれる。織田氏は尾張守護の斯波氏の元で守護代を務めてきた一族である。しかし信長の誕生時は斯波氏の力は弱まっており、実質的には上四郡は守護代の岩倉織田家が、下四郡は守護代清洲織田家が治めている状態だった。信長が生まれたのは清洲織田家の分家の弾正忠家で、信秀は清洲織田家の奉行の一人だった。しかしその勢力及び財力は尾張随一だったという。と言うのも伊勢湾の貿易の拠点である津島を支配下にしていたことが大きかったという。この信秀の元で信長は財力の重要性を学ぶことになる。また信秀は居城を状況に応じて変更しており、信長はそれにも倣ったと思われる。

 

 

初陣で武功を上げるも、奇行からうつけものとの評判が広がる

 信長は9才の時に父の信秀から那古野城を与えられて城主となる。そして13才で元服してこの時に三郎信長を名乗ることになる。その翌年、信長は三河大浜への出陣を命じられる。今川が進出を図っており、それを牽制するのが目的だったという。今川軍2000に対して信長軍は800ほどと数で劣勢だったので、信長の傅役だった平手政秀は出陣を見合わせるように意見するが、信長は出陣を決定。大浜まで一気に進軍すると強風を利用して火を放って敵への威嚇攻撃に成功する。この見事な戦いに信秀は大いに喜んだという。

 弓や鉄砲など武芸に励んでいた信長だが、その一方で奇行でも知られていた。ボサボサの格好で町中を闊歩し、土豪の次男三男達を集めて戦ごっこに明け暮れていたという。そのために信長はうつけ者と言われることになる。信長の評判の悪さに廃嫡すべきと言う声もあったというが、信秀は一貫して信長を嫡男として扱ったという。信秀は信長の奇行が家中での敵味方を見極めたり、また警戒されずに庶民と交流して国の実情を知るという目的のためだと分かっていたのではという。

 

 

15才で道三の娘と結婚するが、父の急死で19才で後継ぎに

 信長が15才の時に斎藤道三の娘の帰蝶と縁組みする。今川との争いに専念したい信秀と、同じく朝倉との戦いをしていた道三の利害が一致したのだという。これでしばらくは信長の周辺は平穏だったのだが、3年後に信秀が流行病で急死したことから事態を急を告げることになる。信長は後を継いで19才で家督を相続するが、うつけが後を継いだことでそれまで信秀に付いていた家臣などが次々と離反する。実際に信長は信秀の葬儀に汚い格好でやって来て、抹香を父の位牌に投げつけるという奇行を行っている。ちなみにこの信長の行動は、こんな大変なときに急死した父に対する恨みと、こんな周りが敵だらけの時に当主の死を盛大に喧伝したことに対する怒りがあったのではという。

 信長は尾張統一を目指すが、回りは信長に対して反旗を翻す。信秀の死から一ヶ月後、鳴海城主の山口教継・教吉が今川に寝返って信長に敵対する。信長は討伐のために出陣、山口軍1500を800の兵で引き分けに持ち込む。これは山口軍が寄せ集めなのに対し、信長軍はかつての戦ごっこで鍛えた親衛隊の馬廻り衆だったからだという。この頃から信長は常設軍の設置を目論んでいたという。また信長が採用した3間半(6.4メートル)の長槍が相手の度肝を抜いたという。

 こうして戦上手であること話示した信長だが、柴田勝家などの重臣達は弟の信勝についており、信長は四面楚歌であった。その上に信長の傅役だった平手政秀が切腹してしまう。信長の奇行を諫めるためだったとも言われているが、どうやら平手は信長の奇行の意味を理解できなかったようである。

 

 

道三に見込まれて尾張統一に乗り出す

 その信長に注目していたのが舅の斎藤道三だった。道三は信長の器量を見定めようと1553年に信長との会見を申し出る。そこで美濃に向かう途上の信長を小屋に潜んで観察したのだが、奇抜な格好で歩く信長に「やはりこれは噂通りのうつけか」と思ったのだが、それに続く500の長槍部隊と500の鉄砲部隊を見て驚く。さらに会見の場に現れた信長が盛装に着替えて堂々たる挨拶を行ったことにさらに驚く。この会見の後、道三は家臣に「いずれワシの息子は信長の家臣になるだろう」と語ったという。

 道三の信頼を得た信長は尾張統一に向けて清洲織田家の守護代織田信友を狙う。しかし信友が先手を打って信長暗殺を目論むが、清洲城で織田氏の庇護を受けていた守護の斯波義統が信長に内通して暗殺計画が露顕する。これに怒った信友が斯波義統を殺害したことで信長に信友討伐の大義名分を得る。清洲城を囲んだ信長は戦いを有利に進めるが、これを好機とみた今川義元が尾張に進軍してきて村木に砦を築く。このままだと知田が今川のものになりかねないと考えた信長は出陣を決意するが、その隙に本拠地の那古野城が背後から攻められるのは確実。この時に信長は道三に援軍の派遣を依頼する。道三はこれに答えて援軍1000を送るが、実は状況によっては尾張乗っ取りも考えてのことだったという。しかし信長はこの援軍に那古野城の守備を依頼する。ここまで露骨に「信頼している」という姿勢を見せられるとさすがの道三もホイホイと裏切るというわけにも行かず、この駆け引きは信長の勝利となる。軍を引き連れて南下した信長は嵐の中をついて海路で兵を送り、村木の砦を陥落させる。この戦いが信長が初めて本格的に鉄砲を使用した戦いだったという。

 

 

敵対した弟をも討ってようやく尾張を統一する

 戦での相次ぐ勝利で周囲の目も変わってくる。佐久間信盛、丹羽長秀らが配下に戻ってくる。強化される信長陣営に焦った信友は、信長の叔父の信光に守護代の地位を与えて味方にすると清洲城に招き入れるが、信光は既に信長に通じていたために信友は城内から攻められて切腹に追い込まれる。これで信長は尾張の下四郡を手に入れ、清洲城に入るとこれを居城とする。しかしその後、信光、道三を相次いで失うことになる。

 尾張統一を目指す信長の前に立ちはだかるのが弟の信勝である。信勝は1556年に兄の信長に対して挙兵する。信勝は品行方正な人物であり、母の土田御前が信勝を溺愛していたことが影響しているともされる。信勝軍1700を信長軍700が稲生原で激突するが、農兵が半数の信勝軍に対し、精鋭軍を信長が陣頭に立って率いる信長軍は士気も高く、信勝軍を散々に打ち破る。信勝軍が籠城に追い込まれる中、土田御前が信勝の助命を信長に懇願し、信長は一旦は信勝を許すことにする。しかし2年後、信勝が再び謀反を企てる。これを知った信長は最早見逃せないと、病気になったと偽って信勝を誘い出すとこれを殺害する。そして1559年、上四郡を支配する岩倉織田家の岩倉城を攻撃、岩倉織田家は滅亡し、守護の斯波氏も追放してついに尾張統一を果たす。

 

 

 以上、若き日の信長であるが、既にこの頃から果断な決断の早さと大胆な戦術が垣間見られており、その延長に桶狭間があることが良く分かる。また血で血を洗う戦国時代とは言え、弟が最大の敵となり、結局はこれを殺害するという殺伐としたことも行っている(全く同じことは伊達政宗にもあった)。この一方で、武田信繁や豊臣秀長のように兄から絶大な信頼を受ける側近としての弟もいたりするのだから、人間関係とは難しいものである。なお織田と伊達に共通しているのは、兄が母から疎まれて母が弟の方を溺愛していたというパターンである。家光なんかもこのパターンで、危うく将軍位を剥奪されかねなかったところを春日局の尽力で回避している。それを考えると、とかく権力も何もなく存在感の薄い戦国の女性だが、やはり裏ではかなり影響力はあったということでもある。

 なお斎藤道三が信長の器量に驚いて「いずれは息子は信長の家臣になる」と言ったというのは、信長の器量がそれだけ大きいというだけでなく、息子の義龍の器量を道三が全く評価していなかったということの裏返しでもある。結局そうやって父から「器量が無い」と言われ続けた義龍は見事にねじ曲がってしまって最後は父を討ってしまうのだが・・・。もっとも義龍は道三の実子ではなく、義龍は土岐氏の息子という話もあるのでややこしい。また義龍は生まれつきの病気を持っていたから道三が後継として危ぶんだという説もある。実際に長良川の戦いで道三を討って美濃の当主となった義龍だが、その5年後に30代で亡くなっている(あまりに呆気ない死だったので、「麒麟がくる」などではナレ死にされてしまったというぐらい)。

 なお信長は土豪の次男坊や三男坊を集めて馬廻り衆を編成したというが、その中の一人が前田利家である。信長をリスペクトする利家は信長に倣って傾いていたという。そういう半グレ軍団のような連中が、後の天下を闊歩することになったのがこの時代である。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・信長は尾張の守護代である清洲織田家の家臣であった織田信秀の嫡男として生まれている。
・信秀は地位は守護代より低いが、交易の要衝であった津島を領していたために勢力や財力では尾張随一であり、その父の元で信長も経済の重要性を学んでいる。
・信長は9才で那古野城の城主となり、13才で元服した翌年には侵攻してきた今川勢を初陣で打ち破るなどの武功を上げる。
・しかしボサボサの格好で町中を闊歩し、土豪の次男三男を集めて徒党を組んで戦ごっこに明け暮れるなどの奇行がおおかったことから、うつけものとの評判が広がる。
・しかし信秀は信長の才を見抜いて一貫して信長を嫡男として扱ったという。
・信長は15才で斎藤道三の娘の帰蝶と政略結婚をする。
・その3年後、信秀が急死、信長は19才で後を継ぐことになるが、うつけものと言われている信長が後継となったことで家臣などの離反が出て、信長はその対応に追われることになる。
・道三との会見で道三に器量を見込まれた信長は、道三の援軍なども得ながら、反乱勢力を抑え、さらには清洲織田家も亡ぼして尾張の下四郡を獲得する。
・しかし弟の信勝が反旗を翻す。この反乱に信長は精鋭の働きで勝利するが、母の土田御前の懇願で一旦は信勝を許す。
・しかし2年後に再び信勝が反乱を目論んだことから、信長は病を装って信勝を誘い出して殺害する。
・さらに上四郡を支配する岩倉織田家を滅ぼすことによってようやく信長は尾張を統一する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ行動が早いし、大胆でもあります。しかも大胆でありながら決して無謀なわけではなくて計算もしている。つまりは頭の回転が速いと言うことです。ただ多くの人間に裏切られる経験もしているから、そういう意味では根底に人間不信はありそうな気がします。これが後々に自身の身を滅ぼすことにもつながるのですが。

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