教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/3 BSプレミアム 英雄たちの選択「"犬公方"の孤独 徳川綱吉と生類憐れみの令」

犬公方綱吉の真実

 前代未聞の大馬鹿政策を打ち出した無能な暴君という評価が長かった徳川綱吉であるが、近年になって彼はそれまでの殺伐とした社会を改めて、今日の福祉の概念まで取り入れようとした先進的な名君という評価も現れてきている。とは言うものの、現実には生類憐れみの令は社会に混乱をもたらし、多くの問題もあったのも事実である。その綱吉の考えや生涯に迫ろうというのが今回。

綱吉像、何となく頑固で神経質な印象を受ける

 もっとも綱吉に対する肯定的な見方は最近はあちこちで言われており、テレビでも扱われていたりする。

綱吉の健康問題を絡めて分析したのがこれ

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ダイジェスト的に紹介しているのがこれ

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儒教の精神に基づいて、仁政を掲げる

 さて綱吉であるが、三代将軍家光の四男であり本来は将軍位が回ってくる立場ではなかった。そのために学問三昧の生活を送って儒学に打ち込んでいたという。しかし兄の四代将軍家綱が子供のないままに急逝したことで、他の兄たちは既に亡くなっていたことから将軍候補として浮上することになる。しかしこれがすんなりいかず、大老の酒井忠清が「綱吉には天下を治める器量がない」と露骨に反対したという。これに対して老中の堀田正俊が家綱の意志を盾に強硬に綱吉を将軍に推したことで綱吉は将軍に就任したという。

 当時の日本は様々な歪みが現れていたという。特に世襲代官の横暴がひどく、領民を自分達の持ち物のように考えている彼らは凶作だろうがなんだろうがお構いなしに領民から過酷に年貢を取り立てていて百姓の騒乱なども起こっていた(まるで今の政府のようだが、国民が騒乱を起こさないだけ今の日本人の方が封建気質だな)。こうした世の中を見直すために綱吉は堀田を側近として政治改革に乗り出す。綱吉は儒教の精神に基づいて、代官は民のための政治をするべきだという方針を堀田の名で打ち出し、悪質な代官は入れ替えるなどを行った。この政治形態は後に天和の治と呼ばれる。社会に孝を推奨して仁政を試みたのである。そこに覗えるのは理想家綱吉の姿である。

 

 

側近の死後、独裁色を強める中で生類憐れみの令を発する

 そんな綱吉を悲劇が襲う。1684年8月、大老の堀田正俊が幕府の重役に老中の詰め所近くで襲われて殺害される。個人的な怨恨が原因だったという。懐刀だった堀田を失った綱吉は、老中詰め所を将軍の居室から離れた場所に移して側用人が中継をするようになる。このことで必然的に老中の発言権は小さくなり、政策には綱吉の意見がより強く反映されるようになる。綱吉の独裁制が強まったのである。そして1685年に生類憐れみの令が綱吉主導で発せられる。

 最初は将軍の行列を犬などが横切っても良いのでつながなくても良いとか、飼っている犬などの特徴を報告させて飼い主が責任を持って飼うように義務づけるなどであったという。しかし法令は次々と追加されていくことになる。これらをまとめて生類憐れみの令という。犬ばかりが注目されるが、実際は人間に対してのことも含まれており、捨て子が見つかったら近隣の者が養育しろとか、貧困者には餓死しないように米を施せとか福祉の概念を含んでおり、さらには牢内の衛生状態を良くして牢で死ぬ囚人を減らせなど人権政策とも言えるものもあり、封建社会の当時としては先進的な政策でもあったという。しかし綱吉と老中などで法の解釈がズレることがあり、老中が出した触れを綱吉が撤回するなどということもあったらしい。

 しかし事実上の独裁者であった綱吉は暴走する。武家においては軍事演習もかねた重要行事であった鷹狩りを禁止したことで、諸藩で鷹狩り用の猟犬や鷹の餌として飼育されていた犬が捨てられたことで野良犬となって江戸の町に溢れることになる。これらの野犬は町民との間でトラブルを多発させることになる。この江戸の大混乱に対して綱吉の選択だが、1.生類憐れみの令を見直すか、それとも2.徹底するかである。

 

 

迷走する中で破綻していく生類憐れみの令

 ゲストの回答なども「普通に考えたら1なんだけど、綱吉の心情としては2」というようなものだったが、実際に綱吉は2を選択する。理想家である綱吉が完全に暴走しているのだが、現実主義者でブレーキとなり得た堀田正俊を失ったことで独裁者化した綱吉を諫められる者は誰もおらず、またこうなると回りも忖度発言ばかりが増えるから綱吉からは現実が見えていなかった可能性もある。

 とにかく綱吉が野犬の問題を解決するために打った手は、野犬たちを幕府が飼育するというものだった。そのために大規模な御囲いが設置されるのだが、保健所のように野犬を処分するわけではないので、当然のようにその数は増え続けることになり、最終的には29万坪にまで拡大し、飼育する犬の数は10万頭にも及んだという。餌代は98000両(現在の価値で120億円以上)という莫大なものになってしまう。しかし財政の余裕がなかった幕府はこの負担を民に背負わせることになる。新たな税負担に民の不満は高まるが、そこにさらに生類憐れみの令は強化されていき、うなぎやドジョウを扱う商売が禁止されるなど、庶民の生活への介入が強まっていき、庶民の潜在的な不満が募っていくことになる。しかし生類憐れみの令は20年以上改められることなく続くことになる。

 幕府の方針が改められたのは1709年1月10日に綱吉が死去してからだった。綱吉は生類憐れみの令は自分の死後も続けるように言い残したのだが、幕府は綱吉の死の10日後に生類憐れみの令の廃止の方針を発表する。つまりは完全に限界に来ていて、この法を支えていたのは綱吉の存在だけだったのである。ただし綱吉が打ち出した捨て子や病人の保護は形を変えて継続されることとなったという。

 

 

 理想家が現実を見ずに理想に突っ走った結果の悲劇ではある。そういう意味では大老の酒井が言った「天下を治める器量が無い」というのはある意味で正解だったわけである。やはり調整役となり得た堀田を失ったのが致命的だったのだろう。綱吉の政策自身は悪意ではなくて善意から発しているのがむしろタチが悪いという話もあったがまさにその通りである。理念は悪くなかったのだが、現実の政策に下ろしてきた時に滅茶苦茶になってしまった典型例である。磯田氏が「最も理念的なもの、理想的なものは、最も現実主義者がやらなければ成功しない」と言っていたのは核心を突いている。綱吉が掲げる理念を現実に落とし込む人物が必要だったのだが、残念ながらそのような人材が堀田の死後には誰もいなかった(恐らく老中の面々は綱吉の理念を理解すること自体が出来なかったのだろう)悲劇である。名君ではないが、暴君でもない悲劇の人という評はその通りである。結局は失敗した理想家だったわけである。

 このような失敗をするのは革命家に多い。現体制の不合理や不正を指摘して高邁な理念を掲げて政府を転覆するところまでいったが、その後に実際に執政する段階で現実と理想の狭間で迷走して世の中を混乱させたり(カストロなどはこの傾向があった)、さらには独裁を強めて結果として粛正ばかりしたり(このタイプの事例は毛沢東以下枚挙に暇が無い)などに陥った革命家は非常に多い。権力を掌握してしまえば側近にトップの理想を理解した上で実務をこなせる人物が必要なのだが、往々にしてそのタイプは革命政権には登場しない。綱吉の場合は堀田という実務家を失ったのは非常に痛い。この実務家の人物はまた変革において既得権益を失った連中の恨みの対象になるので、暗殺対象にもなりがちなのであるが。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・家光の四男だった綱吉は、家綱が急死した際に家綱の意志を盾にした堀田正俊の強い推しによって将軍に就任する。
・綱吉は側近の堀田と共に世襲の代官による領民から搾取に対して処罰を加え、領民を労ることを代官の使命とするなど民政を重視した天和の治を実行する。
・しかし堀田が城内で暗殺される事件が発生、老中を遠ざけた綱吉は独裁色を強めていく。そのような時に綱吉が発したのが生類憐れみの令である。
・生類憐れみの令は単に犬を大事にするというのではなく、弱者救済の精神を唱えた福祉政策を含んだものであり、かなり先進的なものであったが老中などの中でも綱吉と考えが一致しない者が多かった。
・さらに綱吉が鷹狩りを禁じたことから諸藩が鷹狩り用に飼育していた犬が野犬化して江戸に溢れ、町民とのトラブルが激増することになる。
・これに対して綱吉は御囲いを設置して野犬を飼育するが、そのために必要な莫大な費用を民に負担させたことで民の不満は高まっていく。しかし綱吉は生類憐れみの令をさらに強化して庶民の生活を苦しめることになる。
・結局生類憐れみの令は綱吉が亡くなるまで続くことになる。綱吉は自分の死後も継続することを言い残すが、綱吉の死の10日後に生類憐れみの令の廃止が幕府から発表される。
・ただし綱吉が打ち出した捨て子や病人の保護などは形を変えて継続されることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・先進的政策であったのは事実なのだが、あからさまに理屈倒れ、理想の空回りなわけで、これが綱吉という人物の評価を難しくする理由。なお私は綱吉の人物像は「かなり感情的で頑固な扱いにくい人」という印象を持っている。もう少し鷹揚さを持っていたら成功した可能性もあるし、将軍でなくて学者となっていたらそっちで実績を残した可能性もあったと思うのだが。

次回の英雄たちの選択

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