教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/8 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「聖人君子か?独裁者か?鎌倉幕府3代執権・北条泰時」

大河ドラマ主人公の息子の話

 大河ドラマ関連で北条氏関係の内容が増えているが、今回はあれの主人公である義時の長男である泰時の話。武士のあり方を定めた御成敗式目を定め、後の江戸幕府に至るまでの影響を与えた人物である。

北条泰時

 

 

義時の台頭と共に権力の中央に

 父の義時は頼朝の寵愛を受けて側近の筆頭として優遇されたが、その子であった泰時(幼名は金剛)も頼朝に寵愛されたという。金剛が10才の時、御家人である多賀重行が彼の前を下馬することなく通り過ぎたことを聞いた頼朝は激怒、金剛は多賀は下馬したと罰せられないように庇ったので、頼朝はそれを褒めて剣を与えたという。金剛が12才の時に頼朝が烏帽子親となって元服し、頼朝の一文字を与えて「頼時」と改めたらしいが、それが畏れ多かったのか、頼朝の死後に「泰時」と改めたという。どうも謙虚な人物だった様子が覗える。

 20才で有力御家人三浦義村の娘と結婚して子も儲けた泰時であるが、政務をなおざりにする2代将軍の頼家を諫めたことで反感を買い、頼家の怒りが収まるように自ら伊豆で謹慎することになったという。

 その後、御家人の間で主導権争いが発生し、その中で頼家も暗殺され、さらには時政が義時に追放されて義時が主導権を握ることに。そして最大の抵抗勢力である和田義盛との争いが勃発する。1213年の和田合戦、泰時もこれに参戦して将軍を実朝を守って奮戦して勝利する。泰時には恩賞として領地が与えられたが、彼はこれを他の戦功者に与えて欲しいと辞退したという。そして父の義時が権力を掌握する

 

 

承久の乱では上皇軍制圧に活躍し、京で明恵に出会う

 しかしその1219年に実朝が暗殺される事件が発生し、後鳥羽上皇が政治の実権を奪い返すべく1221年に義時追討の院宣を下したことで承久の乱が勃発する。この時に泰時は20人ほどのわずかな兵だけを引き連れて出陣したのだが、それは御家人衆の間で京に攻め上るか鎌倉で迎撃するかの意見が分かれ、消極的な迎撃策が強かったことから、積極的な進行策を実践するために泰時が率先して出兵するように依頼されたのだという(消極策を取ると、上皇軍が進軍につれて増加する可能性もあるし、いざ合戦の時の寝返りなども懸念されるだろう)。そして目論見通りに泰時の元に御家人の軍勢が続々と集結する。それを見てから泰時は鎌倉にとって返して義時に「もし後鳥羽上皇が自ら出陣してきた時はどうするか」と訊ねたという。これに対して義時は上皇には弓を引くわけにはいかないが、もし上皇が京に留まっていた時には容赦するなと伝えたという。

 後鳥羽上皇は自ら陣頭に立つことはなく、配下の兵を迎撃に差し向ける。そして鎌倉方はこれを打ち破る。そして上皇方は宇治川で最終防衛戦を引きく。血気はやった連中が泰時の号令を待たずに突撃して被害を出すなどのドタバタもあったが、兵力で上回る泰時はこれを打ち破って京に入る。そして後鳥羽上皇は流罪、上皇方の武士は死罪などの厳罰に処されることになる。京に六波羅探題が置かれ、泰時は京に滞在して乱後の混乱の収束に当たる。果断に残党を処理したことから、泰時は「平清盛の再来」と恐れられ揶揄されたという。

 このような時には栂尾山の高山寺に敵兵が逃げ込んだとの情報を得た泰時は一網打尽にするが、これに対して高山寺の僧が抗議する。そこで泰時はその僧に会って言い分を聞くことにする。「我が山では鳥や獣も猟師に殺されることがない。ましてや人が殺されるはずがないので、戦に敗れて追っ手から逃れてきた兵士を引き渡すわけにはいかない。どうしてもなら私の首を切れ。」と語る。その僧の名は明恵。厳しい修行で己を律した僧である(正直なところかなりエキセントリックなところのある人物だが)。これ以来、泰時は時間があれば明恵の教えを請うようになったという。そして正しい政道を目指すようになる。

 

 

執権に就任して御成敗式目を制定すると共に民政にも尽くす

 義時の死で鎌倉に呼び出された泰時であるが、義時の後妻である伊賀の方が泰時の執権就任に反対して自らの息子を執権にしようとし、それに三浦義村が同調したことから混乱が発生する。しかし北条政子が義村の元に乗り込んで説得したことで義村は離反して乱は不発に終わる。伊賀氏は流罪となるが、実の弟である政村は残して泰時は重用したという。こうして泰時は3代執権に就任する。

 執権に就任したものの、重臣である大江広元、さらに北条政子を相次いで失った泰時は、自分を含めた13人からなる評定会議を新設して合議制を取ることにする。これは先の鎌倉殿の13人とは異なり、戦功ではなくて実務能力に長けた官僚達を重用したものだという。そして彼らと共に泰時は法令整備などを進めていく。そして空位だった将軍に藤原頼経を就任させる。しかしこの頃に相次いで子を失うという不幸に襲われたという。また天候不順での凶作が起こり、泰時は関東で贅沢を禁じて領民の救済を行うように命じ、自らも率先して質素な生活を行ったという。

 そして泰時が行った最大の仕事が御成敗式目の制定である。その制定の理由は、承久の乱で西国の領地を得た関東武士が、生活習慣の違いなどからトラブルが続発したため、それを防ぐためのルール作りだったという。そのためにそれまでの法令と違って、漢字を読めない武士のためにカタカナのルビを入れた平易な言葉で記されていたという。泰時は御成敗式目は平凡な道理に基づいたものだと述べたという。この法令はその後も武士の基本的なルールとして残っていくことになる。

 

 

 主人公の息子のお話ですが、有能な3代目というところです。どんな組織でも3代目で大体命運が分かれます。2代目までは何とか持っても、3代目がボンクラだとそこで組織の命脈が尽きるということが多い。江戸幕府なんかも3代目の家光が組織を固めることが出来たらあれだけ持ちましたが、家光がボンクラだったら吉宗まで持たなかったでしょう。ちなみに今の日本はボンクラ3代目世襲議員ばかりが出てきているせいで滅びる寸前です。

 泰時の評価については権力者の常で功罪色々あるでしょうが、伝えられるエピソードからはとにかく真面目な人で謙虚な人でもあったという印象が残ります。もっとも後世には良い話だけ伝えられるでしょうから、それはさっ引いて考える必要はありますが。ちなみに泰時が執権に就任する際のドタバタは北条政子の観点から「歴史探偵」で登場しています。

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 また泰時の孫に当たる5代執権の時頼について以前に「英雄たちの選択」で紹介されていますが、彼も「撫民」を謳っていて理想の君主とされているんですよね。泰時ぐらいから幕府もいかに安定して統治するかが主眼となり、そのためには民の不満を和らげる必要に迫られていたのだろうことは想像できる。なお時頼も泰時同様にやはり就任時に反対派の策動があってドタバタが起こってるんですが、これは御家人寄合体制の鎌倉幕府にはどうも付き物のようです。

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忙しい方のための今回の要点

・3代執権の北条泰時は、義時の長男として生まれ、義時同様に頼朝の寵愛を受ける。
・頼朝死後の御家人達の主導権争いの中で、和田合戦では父の義時について参戦して活躍をする。
・承久の乱の勃発時には、御家人達を京への進軍でまとめるために、先陣を切ってわずかな兵と共に出陣する。そして上皇軍を打ち破って京に入ると、上皇方に対して果断な処罰を下す。そのために京では「平清盛の再来」と恐れられ揶揄される。
・義時の死後は鎌倉に戻るが、そこで義時の後妻の実家の伊賀氏が泰時の弟の政村を執権にしようと画策、これは北条政子が動いたことで不発、伊賀氏は追放されるが、義時は弟の政村は残して重用する。
・執権に就任した泰時は、有能な官僚を取り立てて自分を含む13人の合議制を取る。そして武士の規範としての御成敗式目を制定する。これは後の世まで武士の規範として残る。
・また凶作時には領民の救済を命じるなど民政にも意を尽くす。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・泰時は明恵に教えを請うて仏教的な意識を高めることで救民的発想になったようですが、明恵って高僧には違いないんですが、何となく危ない人って印象もあるのですよね。私が以前に「明恵の夢と高山寺展」に行った時、「なんかヤバいエピソードの多い人物だな」と感じたのが記憶に残っている。

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