教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/12 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「古代史ミステリー!土偶と埴輪」

土偶と埴輪には明確な違いがある

 古代と言えば、それを象徴するのが素朴な土偶や埴輪。最近になって人気急上昇で「はにわ女子」なる愛好家もいるとか(ホンマかいな? はにわみたいな顔の女子なら見たことがあるが)。その土偶と埴輪について紹介するというのが今回の歴史鑑定。

  土偶に注目したこういう番組もありました

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 土偶と埴輪は同じ粘度の焼き物として一括りにされることがあるが、土偶は縄文時代に東日本中心で作られたもので集落跡などから出土するのに対し、埴輪は弥生時代後半から古墳時代に近畿地方中心で作られたもので、主に古墳から出土すると明確に特徴の違いがあるという。

 

 

縄文時代に作られた土偶

 土偶は1万年以上前から2千年前にかけて作られており、現在までに2万点近くが各地で発見されている(東日本が中心)という。当初は小さくてシンプルなものだったが、段々と大きく複雑なものになっていったという。その製造目的は不明であるが、女性をかたどったと思われるものが多いことから、豊穣を祈願したものではという説がある。さらに鎮魂に用いたという説もある。妊娠や出産で命の落とす場合が多いので、その鎮魂のために土に埋めたのではというのである。だから妊婦をかたどったと思われるものが多いとしている。

合掌式土偶は当時の出産の姿勢だとか

 さらには人形説というのもある。というのも土偶の多くはどこかが破損した状態で出土することが多く、しかもそれは意図的に破壊されたと考えられる場合が多いのだという。そのことから体に不調が現れた時に、悪霊を体から追い出すのに身代わりの人形として不調な部位を壊して埋めたのではという説である。

 

 

土偶に関する新説

 ここで興味深い新説が登場した。これを唱えているのは在野の研究者の竹倉史人氏であり、その説は以前に歴史探偵でも紹介されている。

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 その説とは「土偶は縄文人が食べていた植物をかたどっている」というもの。根拠とされたのが群馬県から出土したハート型土偶で、この顔がこの地で食用とされていたオニグルミの断面に類似しているというのである。実際にハート型土偶が出土する地域はオニグルミの遺物も多く発見されているという。食用とするオニグルミの栽培のために精霊を祀っていたのではというのである。これ以外にも稲をかたどったとするものなどもあり、縄文ビーナスは栃の実を遮光器土偶はサトイモをモチーフにしたとする。縄文人はかつてのような狩猟採取民族ではなく、栽培も行っていたと言われてるので、その作物の精霊を祀るというのはあり得る話ではある。

サトイモ土偶

 土偶には何らかの祈りが籠もっていると考えられ、集落の規模が時代と共に大きくなるにつれて、土偶も大きくなってきており、集落内でのトラブルを避けるための祈りの重要性が増したと考えられる。

 

 

古墳と共に発達した埴輪

 巨大古墳で大量に出土するのが埴輪である。埴輪には様々な形をしたものが存在するが、そのルーツは弥生時代中期以降に地域の長の葬儀の際に、お供え物の特殊壺を支えるための特殊器台にあるという。これが変化して円筒埴輪になったという。これが大和地域の前方後円墳の発達と共にバリエーションを増やしていったという。

 このような埴輪の役割であるが、人身御供の代わりに権力者の副葬品として供えられたという説があるが、これ以外にも神聖な場所を守るためのバリケードやら、古墳の装飾であったとも考えられるという。

 4世紀中頃になると人物や動物、家や器財などをかたどった形象埴輪が登場する。家型埴輪は死後の住居を示すものとして、棺の上の古墳の頂上に置かれたという。その形態は竪穴式住居型でなく、平地式住居や高床式住居をかたどったものばかりであることから、4世紀に中頃にはこれらの形態の住居が主流だったと分かるという。さらに人型埴輪の形から当時の人々の服装や風習なども覗うことが出来ると言う。家型埴輪を取り巻くように置かれたのが盾や剣、さらには船などをかたどった器財埴輪であるが、これらはそこに葬られた王の権威を示すものでもあったという。

 群馬県は埴輪が多く出土し、埴輪王国だという。国の重要文化財となっている埴輪の4割が群馬県から出土しているという。それは古墳時代にこの地が東日本の中心地だったからだという。大和王権とのつながりも深く、1万3千基以上の古墳が残っており、大型古墳も残っているという。高崎市の保土田古墳群の八幡塚古墳は復元が行われており、復元された形象埴輪配列区が存在し、そこには54体の人物埴輪・動物埴輪が配されている。この群像は葬られている権力者の儀式の風景、狩りの風景などが描かれており、それらは王の権威を示すものであるという。

  保渡田古墳群

 

 

埴輪大量生産の時代とその終焉

 古墳が巨大化するにつれ、大量の埴輪が必要となることになったが、埴輪製作に携わる埴輪工人のための埴輪工房も設置されていたという。最初は小規模に製作していた埴輪が、大陸から窯で土器を焼く技術が伝わったことで、大量生産が可能となったのだという。まず粘土を調整してから形を整形する。この時に用いるハケが重要で、これは工人によって様々な専用のハケを使用していたと推測されるという。整形された埴輪は焼成時のひび割れを防ぐために1ヶ月ほど陰干しされ、その後に登り窯で一気に焼き上げるという。大阪府高槻市の新池埴輪製作遺跡で発掘された登り窯では、円筒埴輪は一度に40個以上焼けたという。ここで作られた埴輪は水運で古墳に運ばれたという。

  新池埴輪製作遺跡

 5世紀頃までは西日本と東日本で埴輪の様式に違いはなかったが、6世紀中頃になると西日本では前方後円墳が減少して埴輪の需要がなくなるのに対し、東日本では作られ続けてたので独得のデザインの埴輪が発達することになったという。さらに埴輪の利用法も棺として利用されるなど変化してきたという。しかし奈良時代以降になると古墳の意味自体が消失すると共に埴輪も消滅したのだという。

 

 

 どうも一緒くたにされることが多い土偶と埴輪ですが、実を言うと私もその両者の違いを明確には認識してませんでした。つまり両者は時代が異なり、土偶の方が芸術が爆発しているということのようです。土偶は非実用性のものだと思うが、縄文時代は実用性のものであるはずの土器でも火焔型土器のようにかなり芸術が爆発しているものがあり、この時代の精神性というのは興味深いものがある。昔から世の中が豊かになると文化が花開くものであることから、縄文時代は現代の我々が思っている以上に豊かな時代だった可能性があると思う。

 ちなみに私の場合、埴輪と言われると連想するのが、大昔に「りぼん」に「空くんの手紙」という連載を持っていた小田空が書いた「めんたんぴんリーチうるトラ!!」という漫画の主人公が埴輪だったこと。確か連載の関係で打ち切りになって、後で主人公が「空くんの手紙」に移籍してきたなんてことあったなと・・・すみません、何しろ40年以上前の話なので、少女漫画が好きな年寄りにしか分からないネタでした。彼女のシュールなギャグセンスは好きだったんですが、中国に渡ってしまってこの世界から離れてそれっきりですね。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・粘土の焼き物ということで一緒にされやすい土偶と埴輪だが、土偶は縄文時代に東日本中心で造られ、埴輪は弥生時代後半から古墳時代に近畿地方中心で作られ、主に古墳から出土するという明確な違いがある。
・土偶は最初はシンプルなものから、段々と複雑なものに進化した。その目的としては豊穣祈願説、鎮魂説、悪霊払いの人形説など様々ある。
・近年の新説で注目されているのが食用とした植物を形取ったとする説である。
・埴輪は弥生時代中期以降の円筒埴輪から進化し、これらは古墳の周囲を取り巻くように配された。聖域を守るバリケードなどの説がある。
・4世紀中頃になると人型や動物型などの形象埴輪が登場する。これらの形から当時の人々の風俗などを読み解くことも可能となる。
・埴輪王国の群馬の八幡塚古墳では54体の埴輪を配した形象埴輪配列区が再現されており、ここには王の権威を示す風景が再現されている。
・古墳の巨大化と共に多くの埴輪が必要となったことから、製作に携わる埴輪工人は巨大な埴輪工房を構えて、大陸から伝わった登り窯で埴輪の大量生産を行っていた。
・しかし前方後円墳は5世紀中頃には西日本では減少し、埴輪は東日本でのみ独自の進化を遂げることになる。だが奈良時代になると古墳の建設自体がなくなって埴輪も消滅する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・共に素朴で面白いですが、やはり造形としてより面白いのは土偶の方ですね。どうもインスピレーションを刺激されるものがある。

次回のにっぽん!歴史鑑定

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