教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

10/5 BSプレミアム 英雄たちの選択「鎌倉殿暗殺!源実朝 禁断の政治構想」

単なる操り人形でなかった実朝

 源実朝と言えば鎌倉三代将軍で頼朝の血筋の最後の将軍となってしまった人物だが、今までのイメージと言えば、北条氏の傀儡で自らは何かをする権限はなく、さらに本人は和歌が好きな弱々しい文系将軍というイメージがあった(かつての大河ドラマ「草燃える」では篠田三郎が演じた)。しかし最近の研究では実朝はそのような軟弱イメージとは異なり、独自の政治構想を持って積極的に動いた果断な人物であるとの評価が増してきているという。今回はそういう研究も考慮に入れての実朝像である。

源実朝

 

 

北条氏が台頭する中で三代将軍となる

 源実朝は頼朝の息子であり、二代将軍頼家の弟である。しかし頼家が将軍の時、その乳母を出していた比企氏の勢力が増すのを警戒した北条氏が、比企能員をだまし討ちにした挙げ句に比企氏を滅ぼすという事件が発生している。こうして頼家は将軍を廃され、北条氏に担がれる形で将軍に就任したのが実朝である。

 しかし今度は北条時政が実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を将軍に付けようとする。これがいわゆる牧氏事件。これに反対したのが政子と義時で、御家人に命じると時政の屋敷を襲撃して実朝の身柄を確保、義時の屋敷に移す。勝ち目なしと見た時政は伊豆に隠遁する。

 14才の実朝にはまだ政治の実権なく、それらは北条氏が押さえていた。そんな実朝がこの頃に始めたのは和歌の勉強である。後鳥羽上皇が歌道の達人であったことから、実朝は後鳥羽上皇との接近を図ったのだという。

 

 

自立した政治を進めるが、御家人の争いに巻き込まれる

 18才となった実朝は自ら政治を行う将軍家政所を開設して自らの政治を行い始める。土地の収益を調べたり、街道の整備をしたり、京都警護の番を定めたりなど御家人と朝廷が手を組んで天下を治める体制を目指したという。そして実朝は義時にもハッキリと意見を言うようになったという。実朝は鎌倉殿として独り立ちを始めたのである。

 実朝が将軍になって10年、義時に不満を持つ御家人が頼家の遺児を将軍に擁立しようとする謀反が発覚、そこには有力御家人の和田義盛も名を連ねていた。義盛は実朝に赦免を願い出て、義盛の二人の息子は赦免される。しかし謀反の首謀者とされた和田胤長の赦免は義時が断固として拒否する。実朝は両者の間を取り持とうとしたが、和田氏はついに兵を上げる。和田義盛は将軍御所を包囲して実朝を確保することで正当性をアピールしようとしたが、北門を警護する三浦義村が義時に通じていたことから実朝を脱出させて北条に実朝の身柄を渡してしまう。さらに御家人達が集結してきた時、実朝は北条方で参戦するように命令書を出したことで争いは北条の圧勝に終わる。

 しかしこの事件の結果、京では和田の残党が京を襲撃するという流言飛語が飛び、後鳥羽上皇の実朝に対する信頼が揺らぐ、さらに鎌倉を大地震が起こる。実朝は上皇に対して反抗することはないという意志を示した和歌を送ると、御家人の不満が再び爆発することのないように彼らの意見を聞き、朝廷に対しては後鳥羽上皇の側近を別当に加えることによって朝廷の権威が幕府政治に反映されていることを示す。これに対して上皇は実朝の官職を上昇させて、信頼の意志を示す。

 

 

後継問題の解決に乗り出すが、それが暗殺の要因に

 ここで実朝は巨大な唐船の建造を開始する。巨額を要するので義時は反対したが、実朝はそれを抑えたという。実朝は唐との交易などを考えていたのではないかという。しかし由比ヶ浜に建造された唐船が海に浮かぶことはなかった。遠浅の由比ヶ浜に建造された唐船は、数百人がかりで引っ張っても動かすことが出来なかったのである。これは実朝にとっての手痛い失敗となる。

 御家人達の信頼まで揺らぎかけない事態に、実朝はここで以前より懸案の後継者問題を解決することで信頼回復につなげようとする。ここで実朝の選択が、源氏直系の血を引く公暁を後継者にするか、後鳥羽上皇の皇子を迎えて将軍とするかである。

 番組ゲストの意見は、一旦北条によって排除された頼家の息子である公暁を後継にするのは無理があるだろうというもので、磯田氏にしても無理を承知の上で、公暁を北条に取り込んだ上で後継者にするという大技を主張していた。そして実際に実朝は後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に送ってもらうことを決める。

 しかしこれは公暁にとっては自らの将軍即位の可能性が完全に断たれることを意味していた。実朝を父の敵と恨む公暁は、鶴岡八幡宮で行われた実朝の右大臣就任を祝う儀式の時に実朝を暗殺する。公暁は三浦義村の元に走るが、そこで殺害される。将軍不在の異常事態に、政子と義時は上皇に皇子を送ることを懇願するが、実朝をむざむざと殺害させた幕府に対しての上皇の信頼は失われており、上皇はこれを拒絶、ついには承久の乱が勃発することになる。

 

 

 以上、実朝について。つまりは従来言われていた受け身の将軍でなく、自ら積極的に自身の構想の下に動いていたという話である。なおこの時に後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えて実朝が補佐するという体制が確立していたら、その後の幕府の有り様は大きく変わって、日本の歴史そのものが変わっただろうとのことであるが、確かにその通りだろう。

 結局はその後に朝廷と幕府の対立が決定的になった結果、承久の乱が勃発して、それに勝利したことで幕府が朝廷を押さえつける形になるのだが、実朝の構想が実現していたら幕府はあくまで朝廷の機関として日本を統治することになるから、天皇の権威がもっと続くことになっており、そうなれば幕末にあえて尊王を訴える必要もなかったことになる。

 もっともその後の日本の形が変わるといっても、結局は鎌倉時代がチャラになって再び平安に戻るだけの気もするので、やっぱりどこかの段階で再び武士が台頭してきて朝廷と対立する歴史は繰り返される気もするのだが・・・。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・実朝は単に北条氏に操られていた将軍ではなく、自らの構想に基づいて動いていたという。
・実朝は自ら和歌を習うことで後鳥羽上皇に接近、朝廷と手を組んだ形での幕府の安定化を目論む。
・和田の乱の勃発では自ら北条側に立って乱を鎮め、また朝廷からの信頼を回復させるために、御家人の不満の解消、さらに上皇の側近を別当に加えることで幕府に朝廷の意見が反映していることを示した。
・そのことに対して後鳥羽上皇は実朝に対して官位の上昇という形で信頼を示した。
・実朝は後継問題の解決のために後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えて、自身がそれを補佐するという構想を実現しようとする。
・しかしそれは頼家の息子である公暁にとっては、自身が将軍になれる可能性を完全に失うことであり、思いあまった公暁が実朝を暗殺する。
・実朝が殺害されたことで後鳥羽上皇の幕府に対する信頼は崩れ、これが承久の乱につながることになる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・実朝は他の御家人達が考えていたのとは全く異なる政治構想を抱いていたということで特異というような言い方をしていたが、ただ実朝の構想自体に先進性はないような気がする。つまりは単なる保守回帰の気がするんだが・・・。平清盛なんかが見たら「なんでそっちに行くねん」って言いそう。

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