教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/17 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「明治維新の先駆者 吉田松陰の素顔」

幕末を突っ走った吉田松陰

 今回は松下村塾で多くの勤王の志士を育てたことで知られる吉田松陰。結局彼自身は若くして処刑されることになるのだが、どうしてそうなったかを彼の生涯から振り返る。

吉田松陰

 

 

若くして兵学者として評価される

 まず松陰の生まれであるが、長州藩士の杉百合之助の次男として生まれている。幼名は虎之助で兄弟は6人、2才下の妹の千代(大河ドラマの主人公になったあの人か?)によると「幼い頃から遊びということを知らない子供だった」という。松陰が学問漬けだったのは、父が学問好きだったことが影響しているという。

 さらに5才の時に、百合之助の弟で吉田家に養子に入っていた吉田大助が男子を残さないままに肺病を病んでしまったことから、松陰が大助の養子となったのだという。吉田家は山鹿流の兵学師範であり、まもなく義父が亡くなって6才で当主となった松陰は、兵学師範として自立するために大助の弟である玉木文之進にスパルタ式で兵学を仕込まれたという。そして松陰は11才で藩主の毛利敬親の前で兵法の講義を行うことになったという。堂々と講義をする松陰を敬親は絶賛したという。そして1848年、19才で藩校の明倫館で教壇に立つことになったが、若輩の松陰の講義は不人気だったという。ただ講義の評判は悪くなく、松陰を慕う者も少なくなかったという。

 

 

海外列強の脅威を感じるようになる

 翌年、松陰は「西洋諸国を研究して既存の兵法を改善するべき」との意見書を提出し、1850年に九州の遊歴に出かける。長崎で海外情勢を調べることなども目的としていたという。出島ではオランダ船に乗船して細かい記録を残したという。その後、平戸で山鹿流兵学者の葉山左内の元を訪ね、その蔵書を乱読して世界の情勢をおぼろげながらにつかむ。なお松陰は正月を家族と迎えるために大晦日に大急ぎで帰宅したという。かなり家族の絆の強い人物だったらしい。

 西洋列強に対する危機感が強まった松陰は藩主の参勤交代に同行して江戸に向かうと、そこで様々な学者に弟子入りし、特に佐久間象山に傾倒したという。松陰は何度も勉強会を開催し、フラフラになりながらも酒も大食もせずに学問に励むことから、仲間から仙人と呼ばれていたという。そして仲間と東北視察の旅を計画する。しかしここで長州藩が手形の発行に手間取ったせいで出発の延期を命じてきたことから、手形を持たずに旅立てば脱藩になるにもかかわらず、松陰は予定通りに出発してしまう。松陰は「友人達との約束を反故にする方が長州藩の名折れになる」と考えたのだという(アホですか?)。どうも不器用で思い込みの強い人物である。

 東北視察を終えて翌春に戻った松陰は江戸藩邸に出頭したところ、萩に戻って謹慎して処分を待つように命じられる。7ヶ月後、藩籍を剥奪される処分を下されて浪人となってしまう。しかし松陰の能力を買っていた藩主の敬親が松陰を育という父親の保護下において、10年間松陰が自由に諸国遊歴を出来るようにしたという。敬親はいずれは松陰を藩士に復帰させることを考えていたのだという。

 

 

黒船に密航しようとして投獄される

 自由の身となって再び江戸の地を松陰が踏んだのが1853年。しかしここで天下を揺るがす大事件が発生する。黒船来航である。松陰は佐久間象山らと黒船を視察する。アメリカの技術力の高さを目の当たりにした象山は、留学生を欧米に派遣して技術を学ばせるべきという建白書を幕府に提出するが却下される。ならば死罪の危険を冒してでも密かに行くしかないと考えたところで、松陰が名乗り出る。ペリーの2回目の来航の際、松陰は足軽の金子重之助と共に下田で夜中に盗んだ小舟で黒船に乗り付ける。日本語が通じなくて通訳のいる別の船に移ったりなどのドタバタの結果、松陰はアメリカへ連れて行って欲しいと願い出るが、それは却下される。しかし引き返そうとしたところ、乗ってきた小舟が流されてしまったので、結局はボートで送ってもらったという。しかし小舟に荷物などがあるために身元がバレルのは時間の問題と松陰は奉行所に自ら出頭する。松陰は「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(誠の心で接すれば必ず人を動かすことができる)」という孟子の言葉を大事にしていたという。死罪を覚悟していた松陰だが、沙汰は実家での謹慎という寛大なものであり、「やはり人は至誠で動く」と感じたとのことだが、実はペリーから「厳しい処罰は避けて欲しい」と幕府に通達があったのだという。

 実家に帰った松陰は家族と再会するが、長州藩は松陰を投獄する。これは海外密航の罪を甘く見ていないという幕府へのアピールだという。松陰は武士階級の罪人が入れられる野山獄に収監されたが、金子は庶民の罪人用の岩倉獄に入れられる。岩倉獄の環境は劣悪で、投獄された時から体調を崩していた金子はここで獄死する。一方、獄中で書物漬けの日々を送っていた松陰は獄中で囚人達と勉強会を開始する。これにはやがて牢番まで参加するようになり、そのことが囚人達に希望を与えることになったという。

 

 

松下村塾を開いて多くの塾生を育てる

 1年2ヶ月後、病気療養の名目で野山獄を釈放された松陰は、実家での幽閉を命じられる。ここで気晴らしに身内を相手に論語などの講義を始めたのがキッカケとなり、近所の下級武士の子弟なども受講するようになり、これが松下村塾の始まりとなる。松下村塾には武士だけでなく、商人や農民の子弟なども参加したという。この松下村塾から多くの志士が登場することになる。

松下村塾の建物はかなり小さい

この狭い部屋で多くの塾生が学問をした

松陰が幽閉されていた三畳間

 

 

討幕を決意して老中暗殺を試みるも、計画は頓挫して処刑される

 1858年、井伊直弼が朝廷の許可を得ずにアメリカと日米修好通商条約を締結する。これに斉明天皇は激怒、松陰は大義を議すという意見書を長州藩に提出するのだが、そこには討幕を謳っていたという。しかしこれに対して幕府は反対派を弾圧する安政の大獄を実施する。そんな時には松陰は水戸・尾張・越前・薩摩が井伊直弼暗殺計画を目論んでいて、長州藩の参加を持ち掛けられているという話を耳にする。しかし松陰は今更長州が加わっても主導権を握れないと井伊直弼の元で安政の大獄の指揮を執る老中間部詮勝の暗殺を考え、松下村塾塾生に参加を呼びかけ、藩には使用する武器弾薬の借用を申し入れる。しかしながら当然のように藩がこれに協力することはなく、松陰は危険人物とみなされて松下村塾は閉鎖、松陰は再び投獄される。どうやら松陰は「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」と信じていたそうだが(テロリストそのもの)、当然ながら藩は付いていけなかったらしい。

 1859年、幕府は危険人物である松陰の身柄を差し出すように命じられる。そうして江戸に連行された松陰は老中暗殺計画のことを追及されると思っていたのだが、幕府はその計画を把握しておらず、松陰は身に覚えのない罪状ばかり追及されたという。このまま行けば命が助かるはずだったのだが、松陰は自ら老中暗殺計画を自白してしまったのだという。松陰は正直すぎたのだという(正直というよりも馬鹿ですか?)。結果、松陰は死罪を申しつけられる。そして30年の人生をここで終える。

 

 

 うーん、松陰については以前から「空回りの多い人だな」と思っていましたが、今回の内容を見てたら「ただの馬鹿なテロリスト」であった(笑)。まあ実際に松下村塾から出た志士たちも実際はテロリストが多いし、長州藩士自体が幕末にやっていたことといえば天誅テロばかりだから・・・。

 「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」は結構だが、問題は松陰のその「至誠」がかなり独善的で考えが浅いこと。そもそも若くして亡くなってしまった人だが、万事が青いんですよね・・・。

 どうも理論倒れ、理念倒れの感が強い人物(幼い頃から学問一本で頭でっかちだったんだろうと思う)なので、どこかで大きく脱皮しないと現実にはあまり大きなことが出来ない人物だったような気がする。まあその脱皮をする前に人生終えてしまったのだから、ここまでだけで評価をするのもフェアではないかもしれないが。それでもむしろ、もっと姑息に逃げ回るぐらいの人物だった方が、結果としては大きな仕事を出来たような(新政府の要人には「逃げの小五郎」のような人物もいたんだから)。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・幼い頃から学問好きだった松陰は、5才で兵学者の吉田家に養子に入っていた叔父の養子となって、兵学者への道を進むことになる。
・11才で藩主の前で兵学の講義を行った松陰は藩主の毛利敬親にその才を認められ、19才で藩校明倫館の教壇に立つ。
・欧米列強の情報を入手する必要があると考えた松陰は九州の遊歴に出向き、出島でオランダ船などを視察、さらにアヘン戦争に関する情報などを入手して、欧米列強の脅威を感じることになる。
・翌年、藩主に同行して江戸に行った松陰は、仲間と東北の視察を計画するが、藩が手形を出すのに手間取ったために、手形のないまま視察に出向いてしまい、版籍を剥奪されて浪人になってしまう。
・しかし藩主が松陰の才を評価していたことから、松陰は父親預かりの身となって、自由に諸国を遊歴できる立場となる。
・江戸で松陰は佐久間象山に傾倒、黒船騒ぎに直面したことで欧米に渡って技術を習得する必要を感じ、ペリーの黒船に密航しようとするが断られる。
・ペリーの計らいで幕府からは謹慎処分という寛大な沙汰が下るが、萩に戻ると投獄されることになる。
・1年2ヶ月後、病気療養の名目で出獄した松陰は、謹慎していた部屋で学問の講義を行うようになり、これが松下村塾につながる。
・幕府が朝廷に無断でアメリカと条約を締結したことに憤った松陰は、討幕を志すようになるが、ここで安政の大獄が始まる。
・水戸藩らが井伊直弼の暗殺を計画していると聞いた松陰は、井伊の配下である老中間部詮勝の暗殺を計画、松下村塾の塾生に参加を促し、藩には武器弾薬の借用を申し入れるが、藩はこれを拒絶して松陰を危険人物と見て松下村塾を閉鎖、松陰は投獄される。
・幕府に身柄引き渡しを要求され、江戸で調べを受けた松陰は、老中暗殺計画について自白してしまい、死罪となる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・松陰の生涯を見ていると、頭でっかちすぎて自爆したテロリストってイメージしか残らないな。正直なところ、幕末の志士って私から見たら「ただのテロリストじゃん」って奴やら、「人間がせこい」って奴が大半なんですよね。だから明治新政府が大混乱したのも頷ける。

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