教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/24 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「史上最大の兄弟げんか!観応の擾乱 足利尊氏と弟・直義」

天下を巻き込んだ兄弟げんかのキッカケ

 室町時代初期に起こった混乱である観応の擾乱は、足利尊氏と弟の直義の兄弟げんかから端を発している。この日本中を巻き込んだ兄弟げんかの顛末は。

 まずは観応の擾乱のキッカケである。室町幕府が成立した初期は尊氏が軍事と臣下の論功行賞を、2才下の弟の直義が政務全般を担当していた。この二人三脚で幕府は順調に行くかと思われていた。しかしここで登場するのが重臣の高師直。室町幕府創設に貢献した師直は幕府ナンバー2の執事として幕府を支えていた。この師直が南朝方の楠木正行の挙兵を鎮圧するのみならず、南朝の吉野に乗り込んで公家の邸宅や寺社に火を放つ。この活躍で師直は力を得て、直義を凌ぐと共に尊氏の行っていた論功行賞まで行うようになる。

かつては源頼朝の肖像とされたこれは、近年では足利直義説が有力とか

 しかしこの師直の論功行賞が不十分だったので不満を持つ家臣が増える。さらに直義は論功行賞まで支配するようになった師直に対する不満があった。そんな時、直義の腹心の上杉重能と畠山直宗が直義が信頼する僧侶を通じて師直の悪行を密告してくる。内容は師直が「天皇は不要だから流してしまえ」と言っているというもの。しかしこれは上杉と畠山による捏造だったという。だが直義は信頼している僧侶から聞いたことから信用してしまう。

 そして1349年、閏6月直義は上杉や畠山と師直の殺害計画を練るが、これが師直に漏れてしまう。そこで直義は尊氏と直談判し、師直の排除を願い出て、尊氏はこれを容れて師直の執事を解任して所領を没収する。

 

 

師直の反撃と観応の擾乱の始まり

 しかしこれで師直が黙っているわけがなく、2ヶ月後に5万の兵を率いて京に攻め上る。直義は尊氏の邸宅に避難するが師直の軍勢に囲まれてしまう。師直は上杉と畠山の引き渡しを要求、しかし尊氏がこれに激怒、一戦して討ち死にするとまで言い出した(オイオイ)ことで直義はそれをなだめることになる。そして二人を流罪にして自身も政務から退くことを師直に約束する。しかし師直はこれで留まらず、中国地方の統治を行っていた直義の養子の直冬にまで兵を差し向け、直冬は九州に逃れることになる。さらに越前に流されていた上杉と畠山を殺害させたという。

同じく、かつては足利尊氏像とされたこれも、近年では高師直説が浮上

 1349年8月21日、師直は執事に返り咲く。その2ヶ月後、直義から義詮が政務を引き継ぐと直義は出家する。しかし直冬が九州で反幕府の兵を挙げる。尊氏はそれを討伐することにして師直と共に九州に向けて京を立つ。しかしその2日前に直義が京を出ていたという報に師直は危険を感じる。しかし尊氏は意に介さずに九州に向かう。だが直義はこの時、河内で打倒師直を掲げて兵を集めていた。しかも南朝との和睦まで行う。これで直義側に付く者が増える。そして直義軍は石清水八幡宮を占拠する。これが観応の擾乱の始まりだという。

 慌てて尊氏と師直は京に戻るが、直義有利と見た家臣が次々と寝返りすることになる。摂津での戦いで尊氏・師直軍は直義軍に惨敗する。2月20日、尊氏と直義の間で和睦交渉が行われ、師直が出家することで和睦が成立する。しかし京に戻る途中で師直は惨殺される。実行犯は師直に殺された上杉重能の息子とされるが、直義が差し向けたと言われている。

 

 

一旦は収まったかに見えた両者の関係が破綻する

 尊氏と和睦した直義は、尊氏の子である義詮の政務を補佐するという形で幕府に復帰する。しかし南朝との和睦交渉が行き詰まる。直義は南朝と北朝が交互に天皇を出すことを提案したが、南朝は自分達が正統だから南朝のみから天皇を出すと譲らず、和睦交渉は完全に決裂する。これで直義は幕臣達から政治力を疑われて信頼を失う。さらに尊氏が恩賞の権限を握っていたことから直義の配下には恩賞が与えられず、失望した彼らが直義から離れてしまう。さらには義詮が直義に反発、独自の政務を行うようになる。この時に寺社側の言い分だけで裁定したことから、寺社勢力は喜んで直義から離れていくことになる。こうして直義の味方は完全に切り崩されてしまう。孤立した直義は1351年7月19日、政務からの引退を申し入れる。尊氏はそれを説得して引退は思いとどまらせる。

 この頃、南朝が各地で挙兵する。尊氏は南朝討伐のために出陣し、直義は留守を任される。しかしここで直義が深夜に京を出て北陸に向かってしまう。直義は尊氏の出陣を自分を滅ぼすためのものと誤解したのだという。尊氏は直義に戻るように説得するが直義は応じず、足利兄弟が対立しているという話が全国伝わると、各地で尊氏派と直義派の衝突が起こるようになる。そして7ヶ月後、琵琶湖北部の八相山で両軍が激突、尊氏軍が勝利する。そして錦城興福寺で両者は和睦交渉を行うが、これが決裂する。すると尊氏は南朝と和睦交渉を開始する。尊氏は直義が失敗した南朝との和睦を実現して、直義に戻ってきてもらうつもりだったのではという。義詮が南朝との和睦を締結するが、ここに直義追討の命が記載されていたことに尊氏は不満を示すが、時既に遅し、尊氏は直義追討の兵を挙げざるを得なくなる。両軍は激突するが、その場に直義の姿はなかったという。義詮は関東の武士に味方に付くように働きかけ、直義軍は撤退、降伏することになる。

 直義は浄妙寺に幽閉されるが、間もなく直義の体調は急激に悪化、1352年2月26日、奇しくも師直暗殺の1年後にこの世を去る(毒殺された可能性もあるのではと私は思う)。この擾乱の影響としては、これ以降幕府が積極的に恩賞を与えるようになったという。また全国的な争いの結果、武士の数が増えることになる。

 

 

 どうも小さな行き違いが取り返しのつかない結果につながったという印象の事件である。そもそも尊氏と直義の兄弟仲は決して悪くなく、直義は当初は師直を排除することを目的としていて兄の尊氏と対立するつもりはなかった節が覗える。ただ尊氏の息子の義詮としては、いろいろと介入してくる叔父の存在は鬱陶しかったために、尊氏の意に反して明らかに直義を排除する方向に向かったというのが覗える。

 単なる個人同士ならちょっした諍いがあっても収めようがあるところだが、それが政府の要人となってそれぞれに臣下がぶら下がったら引くにも退けない状態になってしまったという悲劇でもあるようである。

 なお行動を見ていると足利尊氏という人物はとにかく優柔不断の傾向があるというのが覗われるのだが、この観応の擾乱での対応を見ていると、やっぱり尊氏は優柔不断の人だったんだなという感触が強くなる。これに対して直義はどうにも頑固な人という印象。頑固な弟と優柔不断な兄貴の間で生じたズレは、兄は弟を完全排除する決断は出来ずに説得しようとするが、頑固な弟がそれを拒絶というパターンで破綻してしまったようである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・室町時代初期に発生した観応の擾乱は足利家の兄弟げんかである。
・最初のキッカケは幕府内で権力の強まった重臣の高師直と尊氏の弟の直義の対立。師直の論功行賞に不満を感じる家臣が直義の周囲に集まる形になり、腹心の上杉と畠山が師直の罪を捏造して直義に伝えたことで、ついには直義が師直の暗殺を計画、尊氏と直談判で師直を失脚させることになる。
・しかし師直はこれに対して黙ってはおらず、2ヶ月後に5万の兵を率いて京に攻め上り、上杉と畠山の身柄引き渡しを要求する。直義は2人を流刑した上で自身は引退するが、師直は直義の養子の直冬を攻めて九州に追いやり、上杉と畠山の両名も殺害する。
・九州で直冬が反幕府の挙兵、それの討伐のために尊氏と師直が軍勢を率いて京を離れた時に、直義は打倒師直を掲げて挙兵、こうして観応の擾乱が始まる。
・直義はさらに南朝と和睦を進め、南朝の権威を背景に直義軍は増加、尊氏側からの寝返りも出て優位に立つ。結局両者は和睦して師直は出家することになるが、これを直義は殺害する。
・幕府に復帰した直義であるが、南朝との和睦が決裂し、直義が貢献することになっていた義詮とも対立して孤立する。尊氏が南朝方討伐に兵を率いて京を離れたことを、自身を討つためと誤解した直義は京を離れて北陸に逃走してしまう。
・足利兄弟の対立の話は全国に広まり、各地で尊氏側と直義側に分かれての戦いが勃発することになる。尊氏は何と直義との和睦の道を探るが決裂、南朝と行った和睦の条件に直義討伐が含まれてしまったことで(どうも義詮の画策の模様)直義討伐を余儀なくされることになる。
・戦いは尊氏側の勝利となり、直義は浄妙寺に幽閉されるが間もなくこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・必要のない戦い、無駄な戦いという感は強い争いではある。結局は争いの火種は元をたどってみたら高師直と直義の対立であって、決して尊氏と直義の対立ではないだが、それが制御できなくなったのも、結局は尊氏の優柔不断が禍してような気もする。

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